薄曇りの空の下、ヴァルグレア自治区第三区。
街路の交差点に立つのは、ヴァルグレア自治区内を中心に医療品の販売や医療技術研究を担っている企業、“セルフェイン技研”のオフィスビルだ。
その外観は何も異常がない。整ったデザイン。灰色のガラス壁。だが、それを真正面から見据える場所に、一人の少女が立っていた。
アマリア・エーレンベルク特等中佐。高等処置官。黒を基調とした制服に、紋章入りの黒い戦術コートを羽織り、背筋をただす。そんな彼女の後ろには、命令を待つ処置部隊、“第九小隊”の隊員たちが整列している。
「標的確認済み。建物内に社員推定42名。全員に対し記憶改変処置不能と判定。全記憶初期化・人格上書き、通称“白化”を実施する。
対話無用、制圧優先、抵抗時は即時抹殺を許可する」
冷たい音声が、イヤーピースから淡々と告げられる。通信相手は統制AIヴァルグレアから派生した統括局長AIである。ヴァルグレア統制学院は全てが統制AIヴァルグレアによって管理されている。当然、判断するのも彼らの仕事だ。
「作戦開始を許可する。目標制圧時間20分」
アマリアは目を細めた。口元には感情がない。だが、心の奥底でわずかにうねるものがある。それが何かは、自分でもまだ知らない。
「命令、確認。……突入します」
その言葉と同時に指を鳴らしたその瞬間、小隊が建物の正面エントランスを一斉に突破した。制圧を目的とする催涙ガスが流し込まれ正面入り口は煙に包まれた。視界が白く曇り、耳鳴りのような音が響く。
しかし、それらは直ぐに……“人間の叫びに変わった”。
「やめて……! やめてくださいっ!!」
「違うんです! 違うんです! 私はっ……っ!」
「やめろ! 俺たちは何もしてっ!」
社内にいた社員たちが、逃げ惑い、床に伏し、あるいは窓を叩いて助けを求める。彼らはつい最近ヴァルグレア自治区にきた者ばかりであった。正規のルートで入っていれば彼らはこのように“感情をむき出しにして叫ぶことはない”。処置官の命令に従い沙汰を受けるだけなのだ。
この光景こそが彼らが処置官の襲撃を受ける理由であったのだ。故に彼らが助けを求めたところで“この区域では助けを求める声など誰にも届かない”。
アマリアは淡々と前進していた。銃声、悲鳴、割れるガラス。そして、目の前で震える青年社員の姿。
「やめて……撃たないで……!」
一歩、踏み出す。銃は構えない。ただ、制圧目的の警棒を持ち、静かに相手を見下ろす。
「君たちは、すでに秩序不適格と判定されている。記憶書き換えも不要。存在理由は喪失済み。よって……」
アマリアは短く息を吸い、冷たく、言い放つ。
「白化を実行します」
警棒が振り下ろされる。青年に接触すると同時に内部に搭載された電気ショックが発生する。白い閃光と共に、対象の意識が一瞬で絶たれる。静寂が、再び満ちる。
待機していた隊員たちが倒れた青年を外に運び出していく。彼が目を覚ますとき、その人格は失われ、ヴァルグレアに相応しい統制された秩序を持つ人形へと生まれ変わるだろう。
そうなれば、青年の名は消され、記録に残るはない。
ビル内各所では、同様の処置が続いていた。コピー室に隠れた女性が泣き叫びながら脚を掴んで懇願する。階段下で身を寄せる二人の兄妹社員が、手を握りながら黙って処置を待つ。資料室では、部長と思しき初老の男が、社員証を差し出して赦しを請う。
だが、処置官たちは誰も表情を変えず、事務的に判断し、事務的に処理する。
このヴァルグレア自治区では、人格とは統制に従うことで成立する“一時的に許可されたもの”にすぎない。
逸脱すれば、剥奪され、抹消される。たとえ、それがどれほど理不尽で、納得がいかないものだったとしても。
アマリアは最上階へと上がる。社長室。厚い扉。中には、まだ処置されていない最後の一人、社長の女性がいた。
「やめて……。お願い……。私は、ただ社員を守りたかっただけなの……!統制が、こんなことを許すなんて、間違ってる……、でしょ……?」
アマリアは無言のまま歩み寄る。女は泣きながら後ずさる。机にぶつかっても逃げ道はない。
アマリアは、しばしその顔を見つめた。ふと、一瞬だけ少女の頃の自分と重ねる。
かつて発生した狂気の学園との戦い。それにより発生した火災。そこに取り残された自分の姿を。今目の前の女性はその時の、何もできずない泣き叫ぶ事しか出来ない自分によく似ていた。
「……あなたの“想い”は、秩序には含まれません」
そう言って、警棒を押し当て、電流を発生させた。金属の閃光が走り、女は声にならない悲鳴をあげて、崩れ落ちた。
それを確認したアマリアは静かに、淡々と通信端末に報告する。
「セルフェイン技研、制圧完了。対象全42名、処置済み。
逃走者なし。漏洩リスクなし。……作戦時間、18分26秒」
外では、淡々と人々が歩いていた。処置部隊がビルの中から気絶した人々を運び出し、トラックに載せていくその横を、統制された市民たちが通り過ぎる。振り返る者もいない。
哀れみの声も、好奇の視線もない。
ただ、整った秩序の中に、静かに飲み込まれていく。どこかの高層ビルの壁面には、巨大な標語が映し出されている。
『秩序は幸福を保証する。
感情は秩序を乱す。
ゆえに、秩序の敵に、明日はない』
アマリアは、目を閉じる。風がコートを揺らした。先ほどまで幾人もの人々を気絶させた警棒はまだ、微かに熱を帯びていた。
心の奥底で、何かがわずかにざらつく。けれどそれに名をつけることも、気づくことも許されなかった。
ここは、ヴァルグレア。秩序の下にすべてが統べられる街。
そして彼女は、その“処置”を行う者、処置官である。