――同時刻
「そろそろでしょうか……」
ゴーシュは、ウィルの向かった迷宮の方角を見ながら、ポツリと呟いた。
陽光が地平線へと沈み、夜の帳が世界を闇に包み込んでいく。
熱を奪われた風が、剥き出しの刃のようにゴーシュの細い身体を容赦なく切り刻んでいった。
だが、彼の唇は喜悦に歪み、その瞳は贈り物の包みを開ける前の子供のように期待に満ち溢れていた。
彼は、ウィルのような人間を嫌いではない。
真面目で、努力家。不器用だが、もがきながらも前に向かって進むその瞳には、確かな熱を抱いている。
だからこそ、彼は自身が持つ情報を正直に伝えたし、その悩みを聞き取り相談にも乗ってやった。
だが――彼には、一つだけ伝えていなかったことがある。
それは、とある仮説について。
確かに隠し階層攻略の手がかりになるような碑文は記されていなかったし、誰一人としてその謎を解くことができなかったことも本当だ。
けれども、迷宮はその規模や年代に関わらず、必ず攻略できるように設計されている。
裏を返せば、迷宮そのものに攻略の糸口が隠されているとゴーシュは考えていた。
そしてその仮説は、
各々、集団戦や奇襲戦など明確な強みを持つ魔物だが、弱点もまたはっきりしており、しっかりとした対策を立てれば
他の魔物も知恵を絞って冷静に対処すれば安定して攻略できることから、『戦士の修験道』は未熟な戦士や駆け出し冒険者の修行場として重宝されてきた。
だが、それこそが迷宮制作者からの手がかりであったとしたら――?
即ち、
これが隠し階層の攻略条件ではないか、と。
※
なぜ隠し階層に魔物が……?いないんじゃなかったのか。
もしかして無意識に攻略条件を満たした?
いや、それよりもまずい。逃げないと……!
あれは。
あの魔物は……
ルナと旅を始めた当初。
絶対に単身で挑まないように忠告された魔物は三体。
一体目は、
言わずと知れたこの世に存在する中で最強に数えられる魔物の一つ。
その鱗はありとあらゆる剣や魔法を弾き、その炎は遍く敵を殲滅する。
二体目は、
龍が天と地を支配する最強の魔物であるならば、大海蛇は海の全域を統べる最強の一体だ。
普段は深海に潜み、人間に危害を加えることはないが一度空腹になれば、その巨大な顎で島一つを丸呑みしその余波で巨大な津波を引き起こし周辺の村を呑み込む。
そして三体目は、
この世に現存する魔物の中で最も希少であり、目撃例はほとんどない。
故に、何を食べるのか。繁殖方法。そもそも雌雄の区別はあるのか、などその生態の多くが謎に包まれている。
唯一分かっているのは、敵対した人間を模倣する。ただそれだけ。
それを聞いた時、他二体と比べて圧倒的に地味であり、なぜ最強に数えられているのか分からないとルナに疑問を投げかけたことを覚えている。
ルナは、それに対し薄く微笑みを浮かべて口を開いた。
その人間の身体能力能力や魔力。思考、記憶、果ては技術に至るまで。
全てを模倣した上で、
『ウィル、君は自分よりもあらゆる面で優れている相手に勝つことができる?』
どうすればいい……?
目の前には、鏡合わせのように自分を模った泥人が、剣を提げて佇んでいた。
その瞳は、こちらを見ているようでいて、別の何かを見ている。焦点の合わない眼差しが、剥き出しの不気味さを増幅させていた。
退路を断つように、いつの間にか入り口の扉は固く閉ざされていた。逃げ場はない。
「り」
泥人の口が、粘り気のある音を漏らした。
「?」
「り、rrrrrrrrrrr……」
「リリリリリリりリリ入りリリリリ入りリリリリりリリイリイリリリりリリりリリ……!!!」
泥人の顎が、口の外れた人形のようにパクリと開いた。
理解を拒絶する不規則な音が、物理的な振動となって部屋の空気を震わせる。高低も大小もバラバラなその音は、無数の虫の羽音を耳の奥に流し込まれたような、堪え難い不快感だった。脳髄を直接這い回られるような感覚に、思わず耳を塞いだ。
僅かに残っていた攻めっ気さえも、その騒音に削り取られていく。
残ったのは、ただこの音を止めてくれという、悲鳴に近い祈りだけだった。
刹那、音がパタリと止んだ。
鼓膜を圧迫していた静寂が、かえって痛いほどに響く。そして――。
「お……おは、よう」
「!?」
「い……や。違う。今はこんばんは、かな?」
泥人が滑らかに喋り出した。
「話せるの……?」
「ああ、話せるよ。僕は君なんだ。当然だろう?」
泥人はにこやかに微笑んだ。先ほど斬りかかった殺意など、最初からなかったかのような穏やかさだ。もしかしたら、意思疎通ができるのではないか。そう思って縋るような思いで声を絞り出した。
「さっきは……斬りかかってごめん。魔物だと思い込んでい話し合いができるなら……協力してこの迷宮から脱出を――」
「それはできないな」
泥人が言葉を遮った。冷徹な声が響く。
「この迷宮の主に命じられたんだ。自由になりたければ、ここを攻略しに来る者を殺せってね。それに君も気付いているはずだ。この扉を開くには、どちらか一人が死ななければならないことに」
――ッ!
泥人から迸った濃密な殺気が、肌を刺す。
間一髪でその一撃を剣で受け止めるが、泥人は邪悪な笑みを浮かべたまま、怒涛の連続攻撃を叩き込んできた。受け止めきれない衝撃に、体が後方へと吹き飛ぶ。
「この程度……?
背中を叩きつけられた痛みに視界が揺れる。だが、それ以上にウィルの心を凍りつかせたのは、今の剣技だった。
「そん、な……今のは、ルナの……」
憧れ、どれほど手を伸ばしても届かなかったルナの技。
自己流に崩してはいるが、その剣の鋭さは間違いなくルナのものだった。
「ふ、ふふふ。そうさ、当たり前だろ。
「くそ……!」
立ち上がり、こちらも連続攻撃を仕掛けていく。泥人は笑みを浮かべながら、今度は風を思わせる流麗な動きで全ての攻撃を受け流し、その力を利用してカウンターを放つ――それは、ソールの剣技。ウィルが限界まで魔力強化を行い、剣を繰り出しても泥人はそれを赤子をあやすようにいなしてみせた。
ルナ。そして、ソール。
二人の剣技を完全に掌中に収めている泥人が、さらに魔力を集中させる。
「驚くのはまだ早いよ」
空気がパチパチと弾け、眩い光が泥人の剣へと収束していく。雷が、その刀身に絡みついていく。
ウィルは驚愕で動けなかった。眼前の泥人が見せる構え、魔力のうねり。それは彼がどれだけ修行し、時を費やしてもただの一度も放つことができなかった理想。
彼女の代名詞たる技にして、奥義――
「雷鳴剣!」
咆哮と共に放たれた落雷が、壁へと叩き伏せる。意識が遠のき、指先一つ動かせない。
泥人は、勝ち誇った笑みでこちらを見下ろしていた。
「驚いた? これが君がど求めていた『雷鳴剣』だよ。魔力操作さえ極めれば、この程度の運用は不可能なことじゃない。……君には無理だったみたいだけどね」
理想を目の前で体現され、ウィルは深い絶望の淵に沈む。
さらに泥人は追い打ちをかけるように、再びルナの技で肉薄した。ソールの技で防ぐべきか、あるいは……迷いが防御を鈍らせ、さらに地面へと蹴り飛ばされる。
「ソールの剣を使わないのかい? そんな半端な覚悟でいつまで持つかな。君は本当に、何もできないんだね。ルナに時間を貰っても習得できたのは紛い物。雷鳴剣は形にすらならず、人を殺す覚悟もできない半端者……。それが君という存在だ」
――強い。
分かってはいたけど、全ての力が僕の遥か上。
もし、ここで自分が死ねば、こんな奴がルナの隣に立ってしまう。
――それのどこがいけないの?
その問いが胸を打った。
奴は強い。少なくとも、僕より遥かに。
僕の模倣をしたということは、少なくともルナに危害を加えようとはしないはずだ。
そうだよ、僕は充分頑張った。頑張ったけど、届かなかった。それだけなんだ。
認めてしまえば、するすると硬く縛られていた紐が解けるように胸のつかえがとれていく。
――だ。
もう疲れた。
旅を始めてから今日まで禄に休めてない。身体中は傷だらけ。血も足りないし、痛みも酷い。
もう休みたい。
――や
僕よりも彼が隣にいた方が、ルナだって幸せだ。
それが、真実の筈なのに。
――嫌だ!!!
それら全てを否定するほどに、激しい嫌悪感が心の底から叫んでいた。
叫びはやがて黒い炎となって思考を焼き尽くしていく。
ふざけやがって……!
自分と同じ顔。同じ声。なのに、自分の理想を軽々と演じて見せる化け物。
奴に勝ちたい。
ルナの幸せが第一だと、そう自分に言い聞かせてきた。
ルナが幸せでいてくれさえすれば、そう以上は何も望まないと。
けれど、それは違う。
ルナの幸せの中に、僕がいたい。
彼女の隣に立つのは、誰でもない僕でなければならないんだ。
彼女の隣に立つのは僕だ。
そのためなら、魂だって売ってやる。
強くなりたい――!
その時、かつて魔王が口にした言葉が、鮮烈に蘇った。
『誰かを大切に思う心。愛こそ強さの源なんじゃよ』
愛。
確かにそうかもしれない。
僕は今、ルナの隣に立ちたいと強く願っている。その思いがイメージとなって限界だと思っていた身体から力を引き出していた。
「死ね」
泥人の放つ、ルナの剣技。
ウィルは死力を尽くし、ソールの剣技で応戦する。
想いが定まり、覚悟が決まる。
彼女の隣に立つならば、もう形振りは構わない。
奴の剣技だって使ってみせる。
想いが剣に伝わり、元々の適性と合わさってルナの剣技を紙一重で防いでいく。
だが、技の練度は未だ及ばない。危機的な状況に変わりはなかった。
「どうした、どうした。嫌だったソールの剣を使ってもその程度?」
「っ……」
やっぱり強い。
伝説の魔物の一つとして数えられるのも納得だ。対象者の強さの一つ上をいく模倣。
こんな奴どうやって。
待て……愛が強さの源なら、こいつの大切なものは何だ?
ふと湧き上がる疑問。
こいつは僕の「理想」だ。あらゆる面で僕を上回っている。弱点もない。
それなのに、どうして僕程度をすぐに殺せないんだ?
いや、もっと言えばコイツは何のために戦っているんだ?
思考と行動のズレ。
そこには、何か奴の目的が、大切なものが隠れているはず。
奴の『愛』は何だ?
カチリ、と何かが嵌った気がした。
そうだ、僕にも大切な物があるように。敵にだって大切な物が、目的がある筈。敵の弱点だけじゃなく、その感情を計算に入れて戦えたなら、さらに強い敵にだって勝てるかもしれない……!
蝶が羽化するように。
花が朝日を受けて開くように。
これまでの違和感が情報の断片となって急速に組み上がっていく。
スネイルさんに止められていた加速思考を使用するなら、ここしかない。
――魔力操作さえ緻密に行えば、効率よく運用は可能なのさ
――
不自然なまでの優越感。過剰なまでの煽り。
違和感の正体が、氷解していく。
……そういうことか。作戦は決まった。
ぶっ潰してやる。
※
(……なんだ、この感情は?)
泥人は、目の前のウィルから溢れ出した黒いモヤのような感情に、初めて不気味さを覚えた。
これまで手に取るようにその全てを理解できていた相手の心が全く見えない。
何か、大きな変化が奴に起きているのか……?
「そっか。――だもんな」
「……今、何て言った」
不意に、ウィルの口から言葉が漏れる。
吐息のように小さく漏れ出た言葉。けれども、その言葉は他の何よりも泥人には看過できないものだった。
ウィルは、怒りに震える泥人を見て、今度こそ大きな声ではっきりと告げた。
「所詮は、偽物だもんな。……そう言ったんだよ」
カッと頭に血が上るのを感じた。
思考の全てが、目の前の「本物」という名のガラクタを殺せと咆哮する。
「死ね……ッ!」
ルナの剣技を嵐のように叩きつける。だが――。
「なっ……!?」
ウィルは、ソールの剣技で、その猛攻を紙一重で凌いでいた。
その剣には、先ほどまであった迷いが一片も感じ取れない。強い覚悟に裏打ちされた重い剣だった。
「弱いね。確かに形はルナの剣技だけど、魂が入ってない。そんな粗末な真似事で、よく自分が完璧だなんて言えたね」
「黙れ! その粗末な技にも及ばない癖に!」
さらに魔力で身体を強化し一撃、二撃と剣を叩きつけていく。
けれど――
攻撃が当たらない。風のように受け流されていく。
いや、それどころかそのわずかな剣戟の間にウィルの剣技はどんどんと磨かれ、洗練されていった。
「馬鹿な……どうして!」
「君は確かに僕を上回る理想の存在だ。だからこそ――これ以上ない、最高の手本になるんだよ」
……は?
泥人は戦慄した。相手の理想を読み取り模倣する泥人は、言い換えれば奴の剣技の到達点とも言える。
それを模倣し返すことで、この短時間の内に剣技を洗練させたというのか?
焦りが泥人を蝕む。
早く仕留めなければ。
だけど……だけど!!!
――コイツ、弱すぎる!
ここにきてウィルという「弱者」を模倣したツケが回ってきた。
基礎能力や技がウィルに準拠している以上、この状況を打破しうる決定打がない。
唯一雷鳴剣という必殺技があるにはあるが、あれは奴の心を折るために見せつけただけで、実際は消費魔力が激しく放つタメも必要であり、実用性の低い欠陥技だった。
あと一発放てば、魔力が底を突く。
だが、膠着状態が続くほどに、ウィルはこちらの力を盗み、自分のものへと変えていく。
持久戦に持ち込めば……いや。
泥人の脳裏に、月の光の中で微笑むルナの姿が浮かぶ。
たとえこの身は偽物であっても、その隣にいたいという願いだけは本物だった。
改めて、ウィルを見つめる。
認めたくはないが、奴の成長速度は危険だ。放っておけば、次はどんな手に出るか分からない。
ならば、彼女の技で奴を葬る。
「はぁっ……!」
泥人は剣を押し込み、ウィルとの距離を取った。
残る全魔力を、剣に注ぎ込む。制御を誤れば自滅するほどの高密度の雷。
雷と一体化し、緻密な魔力操作で剣を形作る。これこそが「本物」にはできなかった、理想の剣技。
「死ね、雷鳴――がはっ!?」
剣を振り下ろす直前。
ウィルの姿が、光を放ってかき消えた。
背後に凄まじい衝撃。
心臓を、鋭い刃が貫いていた。
「……確かに、雷鳴剣を待っていたよ」
耳元で囁くウィルの声は、氷のように冷たかった。
「でも、盗むためじゃない。君の魔力を枯渇させるためでもない」
「どういう……ことだ? 今の……速度は……」
「昔スネイルさんに貸してもらった本に、身体に雷の魔力を利用することで筋肉の収縮速度や反射速度を飛躍的に向上させる可能性があるという研究を読んだことがあった。でも、僕には雷の魔力を制御するためのイメージも、繊細な魔力操作も持っていなかった」
「まさか、雷鳴剣を待っていたのは――」
「そう。魔力の足りない僕でも雷鳴剣を可能にするほどの魔力操作、そして雷の力を使いこなせるというイメージをつけるためだ。まあ、ぶっつけ本番で使いこなせるかは賭けだったよ。魔力も体力も限界だったからね」
「クソ、雷鳴剣を使わなければ勝っていたのか」
雷鳴剣に頼らず持久戦に持ち込めば、勝てたのだと後悔する泥人。
しかし、ウィルは首を振って否定した。
「そうだね。でも、君は雷鳴剣を使うだろうと思っていたよ」
「どういうことだ?」
「君は言った。泥人は、対象者を完璧に模倣しそのあらゆる能力を超えた理想の存在だって。けど、それはおかしい」
「何がおかしい?僕は姿形や記憶、技術。果ては思考まで完璧に模倣しお前を上回ったはずだ」
「確かに能力や技術は君の方が上だ。でも、もし完璧に思考まで模倣しているなら――僕が君なら、最初に剣技や雷鳴剣を見せつけて煽ったりしない。確実に初手で殺す。でも、君はそうしなかった。思考と行動がズレている。なら、君の真意がそこにある」
「……」
「君の目的は、ただ僕を殺すことじゃない。なら何か?そう考えた時、改めて君が僕の
「……」
「君の目的はルナの隣にいることだ。そのためには、僕を完璧に
「……そんなことしなくても、泥人は対象を完璧に模倣できる」
「勿論、それだけじゃない。君が煽った理由。それはコンプレックスだよ。君、悔しかったんだろ。自分より遥かに劣る人間が本物で、全てにおいて優れている筈の自分が偽者だっていうことが。だから、僕を煽ることでその憂さ晴らしをしようとした。逆を言えば、雷鳴剣のように僕よりも明確に優れている点は君にとって拠り所だ。だからこそ、最後には雷鳴剣を選ぶと思った」
「……ムカつく奴だ」
「よく言われる」
こちらを見下ろしているウィルに、先ほどまでの黒い感情は見当たらない。
そこには強くなった自身への誇らしさも、憎い泥人を倒した達成感もない。あるのは、戸惑い。
自分では理解しきれない感情に戸惑う幼い子供のようだった。
「初めて人を殺した感想はどうだ……?」
それに気づいたせいだろうか。
泥人の中にも、あれだけ燃え盛っていた
残ったのは、ただ燃え滓のように残った感情だけ。
結局、会うことすら出来なかったルナへの想い。
そして、もう一人の自分をもっと知りたい。模倣ではなく、言葉で。人間と同じように理解してみたいという願いだけだった。
「僕は――」