プロローグで俺が「普通じゃなくなった」と書いたが、それは決して大げさな表現じゃない。いや、むしろ控えめすぎたかもしれない。境界線が見えるようになって、それを操作できると気づいてから、俺の毎日はまるで、常に解像度の低い、グイッとしたフィルター越しに世界を見ているような、奇妙な感覚に支配されていた。
最初は単純な実験から始めた。 例えば、コップの縁と水の表面の境目。そこに指をそっと近づけると、水面がわずかに盛り上がり、コップから溢れそうになる。慌てて指を離すと、何事もなかったかのように水面は落ち着く。 あとは、ノートの罫線。線に沿って鉛筆を滑らせると、線がわずかに太くなったり、細くなったりする。まるで、その線の存在自体が揺らいでいるかのようだ。
もっとも、これらの遊びはすぐに飽きた。本当に面白いのは、もっと複雑な、「目に見えない」境界線だった。
一番最初に試したのは、テストの解答だ。どうしても思い出せない英単語があった時、問題文と解答用紙の境目に触れ、心の中で「思い出せ」と強く念じる。すると、脳裏にその単語のスペルが、まるで霧が晴れるように鮮明に浮かび上がった。それはカンニングとは違う。あくまで「自分の記憶の境界線」を越えて、忘れていた情報にアクセスする感覚だ。心臓がドクンと鳴り、全身にゾワリとした悪寒が走るが、その効果は絶大だった。結果は当然、満点。普段の俺ならありえない点数に、担任の先生も首を傾げていたが、誰も俺が不正をしたとは思いもしないだろう。だって、何も証拠はないのだから。
この能力を使えば、俺の人生はいくらでも好転させられる。そう思った。 運動神経の境界線をいじって、体育の成績を上げる。人気者になるための会話の境界線を操作して、クラスメイトの評価を上げる。ゲームで負けそうになったら、時間の境界線を巻き戻してやり直す。 しかし、同時に、この能力には明確な代償があることも分かっていた。能力を使えば使うほど、頭の奥がズキズキと痛み、全身に鉛のような疲労感がのしかかる。まるで、俺自身のエネルギーが、目に見えない形で吸い取られているような感覚だ。
特に、人の心や時間の境界線のような、複雑で大きな境界線を操作した時は顕著だった。先日、ハルキの悩みを解決しようとした時も、彼の心の境界線に触れた途端、まるで脳味噌を直接かき混ぜられたような激痛が走った。幸い、その時は彼が本音を吐き出してくれたことで、痛みはすぐに引いたが、俺はすぐに理解した。この力は、使い方を誤れば、俺自身を蝕む。
夏休みに入り、俺の能力の実験はさらにエスカレートした。家にいる時間が長くなったことで、より自由に能力を試す機会が増えたのだ。
ある日の夜、俺は家族のことで能力を使ってみた。 父と母は、最近、些細なことで言い争いをすることが増えていた。食事中の沈黙、お互いを避けるような視線。それは、夫婦関係の「不和」という境界線が、目に見えるように広がっているかのようだった。 俺は、二人が寝静まった後、リビングのソファに座り、壁の時計を見つめた。時計の針が刻む「現在」と「過去」の境界線に意識を集中させる。そして、心の中で強く願った。「夫婦仲が良かった頃に戻れ」。
すると、視界が歪んだ。時計の針が逆回転し、リビングの空気そのものが、巻き戻されるビデオのようにざらついていく。頭の中に、父と母が楽しそうに笑い合っていた昔の記憶が、鮮明に、しかし、現実感を伴って流れ込んできた。 体が激しく震え、吐き気に襲われる。全身の血管が浮き上がるような感覚に、俺は思わずうめき声を漏らした。この力は、今までで一番の消耗だった。
翌朝。 リビングに降りていくと、驚くべき光景が広がっていた。父と母が、食卓で楽しそうに会話しているのだ。母が焼いた目玉焼きを見て、父が冗談を言っている。以前のような、険悪な雰囲気は微塵もない。 「ユウキ、おはよう! 今日は良い天気ね」 母が優しい笑顔で俺に語りかける。父も「よく眠れたか?」と声をかけてきた。 俺は思わず、二人の顔と顔の「境目」に目を凝らした。そこには、以前見えていた「不和」のひび割れはなく、温かい光が満ちていた。
成功だ。俺は、家族の「不和」という境界線を、「円満」へと操作することに成功したのだ。 しかし、その代償は大きかった。 朝食を終える頃には、俺の頭痛はガンガンと響き渡り、全身は鉛のように重く、動かすのが億劫になった。まるで、徹夜でマラソンをした後のような疲労感だ。額には冷や汗がにじみ、吐き気も収まらない。 俺は、慌てて自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
「やりすぎた……」
後悔の念が押し寄せる。しかし、家族の笑顔を見た時の安堵感も、同時に胸に広がっていた。この力は、確かに「良いこと」にも使える。俺は、そう信じたかった。
数日後。 俺は、夏休みで暇を持て余していたハルキから、ある相談を受けていた。 「なあ、ユウキ。聞いてくれよ」 ハルキは、いつもと違う真剣な顔で、俺の目の前に座った。 「実はさ、俺の妹が、最近ずっと具合悪いんだ。病院に行っても、どこも異常がないって言われて……でも、どんどん痩せていってるんだよ」
ハルキの妹は、ミキ。俺も何度か会ったことがある、明るくて元気な女の子だ。それが病気だなんて、信じられない。 「精神的なものだって、医者は言うんだ。でも、ミキ、本当に辛そうで……」 ハルキの表情は、心底心配しているのが見て取れた。彼の心の境界線には、「妹の病気への不安」という、重苦しい影が大きく広がっていた。
俺は、一瞬ためらった。家族の件で能力を使った時の消耗は、まだ完全に回復していなかった。しかし、親友の妹が苦しんでいると聞いて、俺は何もしないわけにはいかないと思った。 「……ミキに、会わせてくれ」 俺はハルキにそう告げた。
ハルキの家に着くと、ミキはベッドに横たわっていた。顔色は青白く、呼吸も浅い。本当に、見るからに弱っていた。 ミキの体を覆う、病と健康の境界線。それは、まるで今にも千切れそうなほど細く、か細い光を放っていた。 俺は、そっとミキの額に手をかざした。指先が、病と健康の境界線に触れる。 「健康になれ」 心の中で、強く念じた。
その瞬間、稲妻が走ったような激痛が、俺の頭を貫いた。 視界が白く点滅し、体が痙攣する。ミキの体から、薄い霧のようなものが俺の指先を通して吸い取られていくのが見えた。それは、ミキの体を蝕む「病」という境界線のエネルギーだったのだろうか。 「う……あぐっ……!」 俺は歯を食いしばり、痛みに耐えた。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、心臓が異常な速さで脈打つ。この痛みは、これまで経験したどんなものよりも強烈だった。 時間が、ひどくゆっくりと流れるように感じられた。俺の意識は朦朧とし、このままでは自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖が、脳裏をよぎった。
それでも、俺は手を離さなかった。ミキを助けたい。その一心で、耐え続けた。 数分が、数時間にも感じられた。 そして、ようやく、痛みが少しずつ引いていくのを感じた。ミキの体の境界線は、以前よりも太く、力強い光を放っている。その光は、ゆっくりとミキの顔色を血色良く変え、呼吸も穏やかになっていくのが分かった。
「……ミキ!」 隣で見ていたハルキが、驚いたように叫んだ。ミキが、ゆっくりと目を開けたのだ。 「お兄ちゃん……? あれ……私、なんか、体が軽い……?」 ミキは戸惑いながらも、その瞳には力が戻っていた。
「ミキ! 良かった……!」 ハルキは涙を流しながら、ミキの手を握りしめた。 その光景を見て、俺は安堵の息を漏らした。ミキは、助かった。俺の力が、ミキを救ったのだ。 だが、その安堵も束の間だった。
先ほどまで耐えていた疲労感が、一気に俺の体を襲った。 視界が、今度は真っ黒に点滅する。耳鳴りがひどく、平衡感覚が失われる。 まるで、俺の全身から、力が、命が、ごっそり抜け落ちていくような感覚。 「あ……」 立っていることができず、俺の体はゆっくりと傾いた。ハハキの驚く声が聞こえるが、もう、何も意識できない。 脳裏には、ミキの健康になった笑顔が、ぼんやりと浮かんでいた。
俺の意識は、そこで途切れた。