意識が浮上する感覚は、まるで深い水底から、わずかな光を目指してゆっくりと上昇していくかのようだった。重く、冷たく、そしてどこか遠い。最初に感じたのは、鼻腔を刺激する消毒液のツンとした匂いと、微かに耳に届く、規則的な機械音。瞼は鉛のように重く、わずかな光を遮断しようと抵抗する。懸命に力を込めてそれを押し上げると、ぼんやりとした白い天井が、視界の端で揺らめいた。
病院だ。
鈍い頭痛がズキズキと響き渡り、体は信じられないほど重い。指先一本動かすのも億劫で、全身の感覚が膜一枚隔てられているかのように鈍い。どうやら、俺は柔らかいベッドに横たわっているらしい。右腕には点滴が繋がれ、液体が規則的に滴り落ちているのが見える。左手首には、ピッ、ピッ、という微かな音を立てる脈拍計が巻かれていた。
「……ん」
掠れた声が、喉の奥から小さく漏れた。その小さな音に、すぐ近くで何かが動く気配がした。
「ユウキ……!」
聞き慣れた、けれど、どこか安堵と、かすかな震えを含んだ母の声が、耳に飛び込んできた。ゆっくりと顔を声のする方へ向ける。視界の端に、白いベッドサイドテーブルと、そこに置かれた見慣れない花瓶が映る。その先に、ベッドサイドの椅子に座り、泣き腫らした目で俺を見つめる母がいた。その隣には、父が腕を組み、心配そうに俺を見下ろしている。二人とも、顔には深い皺が刻まれ、明らかに徹夜明けの疲労と、憔悴の色が濃く滲んでいた。
「母さん……父さん……」
俺の掠れた声に、母が素早く俺の左手を掴み、強く握りしめた。その温かい手のひらの感触が、俺を冷たい病院の現実へと引き戻す。
「ユウキ、良かった……本当に、良かった……!」
母は声を詰まらせながら、何度も何度もそう繰り返した。そのたびに、母の指先が、俺の手の甲に押しつけられる力が強まる。父は何も言わず、ただ優しく俺の頭を撫でてくれた。その大きな手から伝わる温かさは、彼の言葉にならない心配と、俺の無事への深い安堵を雄弁に物語っていた。
「ごめん……俺、どれくらい寝てたんだ?」
そう尋ねると、母は涙声で答えた。「丸二日よ……。急に倒れて、意識が戻らないから、本当に心配したのよ……」
丸二日――。そんなにも眠っていたのか。 ミキを助けた代償は、俺が思っていた以上に大きかったらしい。頭の奥が未だにズキズキと痛み、全身は鉛のように重く、関節という関節が軋むような感覚だ。しかし、命に別状はないことに、まずは安堵の息を漏らした。
その後の医者の説明は、俺にとっては何の意味もなさないものだった。 「特に異常は見られません。極度の疲労と、精神的なストレスによるものかと……」 中年の男性医師は、カルテに目を落としながら、まるで教科書を読み上げるように淡々と告げた。どんな精密検査をしても、俺の体には何の異変も見つからなかったという。当然だ。彼らは、「境界線」という概念も、それを操作する能力も知らないのだから。
家族は俺の無事を心から喜んでくれたが、同時に、俺が突然倒れた原因をひどく心配していた。 「ユウキ、何か悩んでいることでもあるのかい? 何かあったら、なんでも話してくれ」 父が優しい声で尋ねてくる。母も、不安そうな顔で俺を見つめる。 俺は、もちろん、能力のことを話せるはずがない。話したところで信じてもらえるはずもないし、それどころか、精神的に異常をきたしたと思われるのがオチだろう。何より、家族に心配をかけたくなかった。これ以上、母の顔を曇らせたくなかった。
「ううん……なんでもないよ。たぶん、夏バテしてただけだから」
苦し紛れにそう答えると、母はさらに顔を曇らせた。
「でも、あんなに突然倒れるなんて……ミキちゃんのお見舞いに行って、家に帰ってきた途端に、急に意識を失ったって、ハルキ君が……」
ミキの名前が出て、俺の胸がチクリと痛んだ。そうだ、ミキ。彼女は無事だったのか? 俺が倒れたのは、彼女の病の境界線を操作したからだ。彼女が助かっていなければ、俺がこんな思いをした意味がない。俺は、その一点だけが気になった。
「ミキは……ミキは、大丈夫だったのか?」
恐る恐る尋ねると、父と母は顔を見合わせた。何かを言い淀むような沈黙が、病室に満ちる。俺の心臓は、不安に締め付けられた。まさか、俺の能力が、ミキを傷つけてしまったのだろうか。
「ああ、それがな……」父が口を開きかけた時、病室の扉がノックされた。
コン、コン。
「ユウキ、いるかー!?」
聞こえてきたのは、少し掠れた、けれど、はっきりと俺を呼ぶ声。ハルキだ。そして、もう一人、聞き覚えのある女子の声も聞こえる。
「ユウキ君、大丈夫ですかー!?」
それは、クラスメイトで、俺が密かに好意を抱いているサクラの声だった。サクラも来てくれたのか。動揺が走る。こんな情けない姿を見せたくなかったのに。
父が扉を開けると、そこに立っていたのは、少し焦ったような顔で花束を抱えたハルキと、心配そうな表情を浮かべたサクラだった。二人の顔を見て、家族は少し驚いたようだったが、すぐに表情を緩めた。
「ハルキ君、サクラちゃん、わざわざありがとうね」母が優しく声をかける。 「ユウキ、大丈夫か!?」
ハルキは、俺の顔を見るなり、目を見開いてベッドに駆け寄ってきた。その表情には、友を心底心配する真剣な色が滲んでいる。彼の心に広がっていた妹の病気への不安の境界線は、すでに晴れ渡り、今は俺への心配が大きく占めているのが、俺にははっきりと見えた。
「おう、なんとか、な」
俺は、精一杯の笑顔を作って答えたが、声が震えるのを止められなかった。
「急に倒れたって聞いて、本当にびっくりしたんだぞ! ミキがさ、ユウキに会ってから、急に元気になったって言うから、もしかしてユウキが何かしてくれたんじゃないかって……」
ハルキが、少し興奮したような口調でそう言った。彼の言葉に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。やはり、ミキの病気は回復したらしい。そして、ハルキも、俺が原因だとは気づいていなくても、何か関係があるのではないかと勘づいているようだ。
「ミキは……ミキは、本当に良くなったんだな……?」
確認するように尋ねると、ハルキは深く頷いた。その瞳には、安堵と、俺への感謝が混じっていた。
「ああ! 病院の先生もビックリしてたぞ。『奇跡だ』って。昨日、退院したんだ。ユウキ、本当にありがとうな!」
ハルキは心の底からの感謝の言葉を口にしたが、俺は返す言葉が見つからなかった。ミキを助けられたことには、心底安堵した。しかし、同時に、この能力の危険性を改めて突きつけられた気がした。誰かを助けるたびに、俺はこんな状態になるのか。そして、この秘密を、誰にも話せないまま抱え続けるのか。
その時、サクラが、花束をベッドサイドのテーブルに置きながら、優しい声で尋ねてきた。
「ユウキ君、顔色が悪いわよ? 本当に大丈夫?」
サクラの澄んだ瞳が、俺をまっすぐに見つめる。彼女の周りには、「心配」という境界線が、優しく、しかし確実に広がっているのが見えた。その温かい視線に、俺は胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼女に心配をかけていることが、何よりも辛かった。
「ああ、大丈夫だよ。もう、元気だから」
俺は努めて明るく振る舞ったが、サクラの表情は晴れない。
「でも、学校の友達も、みんな心配してるのよ? 早く元気になって、また一緒にゲームしようね」
サクラの言葉に、ハルキも力強く頷いた。
「そうだぞ! 早く元気になって、夏休み、遊びまくろうぜ!」
二人の優しさが、痛いほど心に染みた。この能力の秘密を抱えたまま、彼らと「普通」の日常を続けることができるのだろうか。 俺の周りには、家族や友人の「心配」という境界線が、目に見えるように広がっていた。そして、その裏には、彼らが俺の「秘密」を知らないという、分厚い「無知」の境界線が存在している。
沈黙が、病室に満ちる。俺の心には、重い問いが横たわっていた。 この能力を、俺はこれからどうしていくべきなのか。 俺の人生の、この先の「境界線」は、一体どこへ向かっていくのだろうか。 窓の外から差し込む、夏の強い日差しが、白いシーツの上で淡く揺らめいていた。
退院の日。
ミキは、すっかり元気になっていた。病室の廊下を歩く俺を見つけると、ハルキの背後から「ユウキお兄ちゃん!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「ユウキお兄ちゃん! ありがとう! 私、もう全然苦しくないよ! ご飯もいっぱい食べられるし、外で遊べるようになったんだ!」
ミキは、以前のような血色の良い顔で、満面の笑顔を浮かべている。その瞳はキラキラと輝き、彼女の周りに見えていた「病」の境界線は、完全に消え去り、「健康」という力強い光が満ちていた。
「よかったな、ミキ。元気になって」
俺は、ミキの頭を優しく撫でた。正直なところ、この手の平の感触が、ミキを苦しめていた「病」を吸収した時の痛みを思い出させ、少しだけ震えた。しかし、何よりも、彼女が元気になったことへの安堵と喜びが勝った。
「ユウキが来てくれてから、本当に急に良くなったんだよ。医者も『奇跡だ』って言ってたけど、俺はユウキが何かしてくれたんだと思ってる。……ありがとう、本当に」
ハルキが、少し照れたように、でも真剣な眼差しで俺に感謝の言葉を述べた。彼の言葉には、何の疑いもなかった。ただ純粋な感謝だけが込められている。
俺は、何も言えなかった。ハルキの妹を助けられたことに、確かに達成感と喜びはあった。だが、同時に、この力がもたらす「代償」の大きさを改めて痛感していた。もし、次にもっと大きな境界線を操作することになったら? その時、俺は、今度こそ本当に取り返しのつかない状態になるのではないか。
俺は、ハルキとミキの間に引かれた、「兄妹の絆」という境界線に目を向けた。それは、暖かく、強く、何よりも美しい光を放っていた。俺がミキの病を消したことで、この絆の境界線はより一層強固になったように見えた。
俺の力が、彼らにとっては「奇跡」であり「希望」だ。 だが、俺にとっては、それは同時に「謎」であり、「恐怖」でもあった。
「ユウキお兄ちゃん、早く元気になって、また遊んでね!」 ミキが屈託のない笑顔でそう言った。
その笑顔を見るたびに、俺の心は揺れる。 この力は、誰かを救うために使うべきなのか。それとも、自分自身を守るために、決して使わないと誓うべきなのか。
病院の玄関を出ると、夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。俺の目の前には、無数の境界線が、これまでと変わらずきらめいている。 空と雲の境目。道と建物の境目。そして、俺の心の中に広がる、「普通」の日常への憧れと、能力を持つ「非日常」の自分との境界線。
俺は、この境界線を、どう乗り越えていけばいいのだろうか。 その答えは、まだ見えない。