静寂が――
今までの殴り合いが嘘だったかのように、
辺りを包み込んだ。
焔の心臓の音だけが、
胸の奥でうるさく跳ねていた。
⸻
爪は――
届いていた。
乱波の分厚いマスクを裂き、
その奥の頬を浅く切り裂いて、
赤い血が焔の目の前にぽたぽたと落ちた。
致命傷じゃない。
だけど――
それでも焔にとっては、
“届いた”だけで全てだった。
⸻
はぁ――はぁ――はぁ――
喉が焼けるように熱い。
口の奥から吐き出される息が、
紫焔の残り火みたいに熱くて苦い。
爪はもう動かない。
足も痺れて震えている。
次が来たら、
もう避けられない。
吹き飛ばされて終わる。
それでも――
焔は目を閉じた。
壊理に、絵本を――
そこまでしか考えられなかった。
⸻
でも――
拳の衝撃は、
いつまで経っても来なかった。
代わりに――
どこか遠くで地響きみたいな声がした。
笑い声だった。
⸻
焔が目を開ける。
見上げた乱波の顔には、
頬を流れる血と、
獣みたいに引きつった笑みがあった。
⸻
「よかったぜェェ!!」
⸻
頭を大きな手が鷲掴みにした。
荒くて分厚い手のひらが、
焔の黒髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
ちぎれるんじゃないかってくらいに、
尻尾まで引っ張られそうだった。
⸻
にゃ――
にゃ、にゃ、にゃにごと!?
焔の瞳がくるくると揺れる。
何が起きてるのかわからない。
爪は届いた。
血は流れた。
それだけのはずなのに――
乱波の笑い声は、
鉄の壁を突き破るみたいにでかかった。
⸻
「お前ェ……やっと……!
俺を楽しませたじゃねェかァ!!」
⸻
乱波の声が部屋の外に響いた。
焔の小さな爪が、
乱波の腕を必死に握り返す。
何も言えない。
何も分からない。
ただ――
黒猫の爪痕だけが、
まだ乱波の頬に赤く光っていた。
**
予想以上――
クロノスタシスは、
訓練室の無機質な扉の前で
小さく目を伏せた。
扉の向こうからは、
乱波 肩動の獣のような笑い声と、
小さな尻尾が床を擦る音が
うっすらと漏れ聞こえてくる。
⸻
ただの野良猫が――
人に拾われた百年の猫又が――
ここまで化けるとは。
幻を見せるだけの子猫だと
最初は思っていた。
弱くても、
扱いやすいだけの道具だと。
⸻
だが――
乱波を相手に、
あの爪が届くとは。
クロノスタシスの目には、
焔の顔に残る恐怖も戸惑いも
何一つ映らない。
ただ冷たく、
“道具としての形”だけを確認する。
⸻
若――治崎は、
初めからこうなると分かっていたのだろうか。
訓練を課し、
檻を強く閉ざし、
壊理を焔に与え、
“守るもの”を焔に植え付けた。
⸻
乱波相手にあそこまで動けるなら、
ある程度のヒーローならば――
紫焔に幻を乗せて、
獣の爪で仕留める。
檻の中の駒は、
とうとう檻の外に放つ日が来たのかもしれない。
⸻
クロノスタシスは、
溜息のように声を吐いた。
躊躇はない。
ただ冷静に、
静かにポケットから端末を取り出す。
⸻
「……若。
時期が来たかもしれやせん。」
淡々とした声が、
乱波の笑い声と焔の震える息を
コンクリートの奥で交わらせていった。
**
久しぶりに――
壊理と一緒に開いた絵本は、
何度も何度も読んだはずなのに
不思議と初めてみたいに楽しかった。
部屋の中の湿った空気も、
朝の訓練で擦り切れた爪の痛みも、
全部どこかへ飛んでいった。
⸻
小さな指でページをめくる音。
焔の呂律の回らない声。
それを一生懸命に聞く壊理の赤い瞳。
⸻
「焔ちゃん……なんだか嬉しそう……!」
⸻
壊理が、小さく頬を赤く染めて
焔を見つめて笑った。
その笑顔が、
焔の胸の奥にぽっと灯をともした。
⸻
なんでそんなに嬉しそうなんだろう――?
焔は思わず、
壊理の顔をじっと見つめた。
⸻
焔は知らなかった。
壊理の笑顔は鏡だということを。
焔が“嬉しい”と思えば、
壊理も“嬉しい”を映してくれる。
⸻
焔の口元が自然と綻んだ。
にやけるのを止めようとしても止まらない。
嬉しい――
生きていてよかった。
焔は小さく人の子供みたいに笑った。