The Ash Eater   作:メイユエ

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十話

 

静寂が――

今までの殴り合いが嘘だったかのように、

辺りを包み込んだ。

 

焔の心臓の音だけが、

胸の奥でうるさく跳ねていた。

 

⸻

 

爪は――

届いていた。

 

乱波の分厚いマスクを裂き、

その奥の頬を浅く切り裂いて、

赤い血が焔の目の前にぽたぽたと落ちた。

 

致命傷じゃない。

 

だけど――

それでも焔にとっては、

“届いた”だけで全てだった。

 

⸻

 

はぁ――はぁ――はぁ――

 

喉が焼けるように熱い。

口の奥から吐き出される息が、

紫焔の残り火みたいに熱くて苦い。

 

爪はもう動かない。

足も痺れて震えている。

 

次が来たら、

もう避けられない。

吹き飛ばされて終わる。

 

それでも――

焔は目を閉じた。

 

壊理に、絵本を――

そこまでしか考えられなかった。

 

⸻

 

でも――

拳の衝撃は、

いつまで経っても来なかった。

 

代わりに――

どこか遠くで地響きみたいな声がした。

 

笑い声だった。

 

⸻

 

焔が目を開ける。

 

見上げた乱波の顔には、

頬を流れる血と、

獣みたいに引きつった笑みがあった。

 

⸻

 

「よかったぜェェ!!」

 

⸻

 

頭を大きな手が鷲掴みにした。

 

荒くて分厚い手のひらが、

焔の黒髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。

 

ちぎれるんじゃないかってくらいに、

尻尾まで引っ張られそうだった。

 

⸻

 

にゃ――

にゃ、にゃ、にゃにごと!?

 

焔の瞳がくるくると揺れる。

 

何が起きてるのかわからない。

 

爪は届いた。

血は流れた。

 

それだけのはずなのに――

乱波の笑い声は、

鉄の壁を突き破るみたいにでかかった。

 

⸻

 

「お前ェ……やっと……!

俺を楽しませたじゃねェかァ!!」

 

⸻

 

乱波の声が部屋の外に響いた。

 

焔の小さな爪が、

乱波の腕を必死に握り返す。

 

何も言えない。

何も分からない。

 

ただ――

黒猫の爪痕だけが、

まだ乱波の頬に赤く光っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

予想以上――

 

クロノスタシスは、

訓練室の無機質な扉の前で

小さく目を伏せた。

 

扉の向こうからは、

乱波 肩動の獣のような笑い声と、

小さな尻尾が床を擦る音が

うっすらと漏れ聞こえてくる。

 

⸻

 

ただの野良猫が――

人に拾われた百年の猫又が――

ここまで化けるとは。

 

幻を見せるだけの子猫だと

最初は思っていた。

 

弱くても、

扱いやすいだけの道具だと。

 

⸻

 

だが――

乱波を相手に、

あの爪が届くとは。

 

クロノスタシスの目には、

焔の顔に残る恐怖も戸惑いも

何一つ映らない。

 

ただ冷たく、

“道具としての形”だけを確認する。

 

⸻

 

若――治崎は、

初めからこうなると分かっていたのだろうか。

 

訓練を課し、

檻を強く閉ざし、

壊理を焔に与え、

“守るもの”を焔に植え付けた。

 

⸻

 

乱波相手にあそこまで動けるなら、

ある程度のヒーローならば――

 

紫焔に幻を乗せて、

獣の爪で仕留める。

 

檻の中の駒は、

とうとう檻の外に放つ日が来たのかもしれない。

 

⸻

 

クロノスタシスは、

溜息のように声を吐いた。

 

躊躇はない。

 

ただ冷静に、

静かにポケットから端末を取り出す。

 

⸻

 

「……若。

時期が来たかもしれやせん。」

 

淡々とした声が、

乱波の笑い声と焔の震える息を

コンクリートの奥で交わらせていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

久しぶりに――

壊理と一緒に開いた絵本は、

何度も何度も読んだはずなのに

不思議と初めてみたいに楽しかった。

 

部屋の中の湿った空気も、

朝の訓練で擦り切れた爪の痛みも、

全部どこかへ飛んでいった。

 

⸻

 

小さな指でページをめくる音。

焔の呂律の回らない声。

それを一生懸命に聞く壊理の赤い瞳。

 

⸻

 

「焔ちゃん……なんだか嬉しそう……!」

 

⸻

 

壊理が、小さく頬を赤く染めて

焔を見つめて笑った。

 

その笑顔が、

焔の胸の奥にぽっと灯をともした。

 

⸻

 

なんでそんなに嬉しそうなんだろう――?

 

焔は思わず、

壊理の顔をじっと見つめた。

 

⸻

 

焔は知らなかった。

 

壊理の笑顔は鏡だということを。

 

焔が“嬉しい”と思えば、

壊理も“嬉しい”を映してくれる。

 

⸻

 

焔の口元が自然と綻んだ。

 

にやけるのを止めようとしても止まらない。

 

嬉しい――

生きていてよかった。

 

焔は小さく人の子供みたいに笑った。

 

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