普段、外を走ったことなんてない。
普段、運動なんてしたこともない。
壊理の小さな身体は、
もう限界を超えていた。
息は途切れ途切れで、
足取りはふらついて、
いつ転んでもおかしくない。
それでも――
焔の手は、絶対に離さなかった。
前だけを見ていた。
⸻
焔は、壊理の背中を見つめていた。
息も切らさず、
足音も乱さず――
鬼ごっこは得意だった。
実験が始まる前、学校の友達とよく遊んだ。
その話を壊理にしたら、
「いつかしてみたい」って
笑ってくれたのを覚えている。
⸻
だけど、これは本当に鬼ごっこなんだろうか――?
焔の小さな尻尾が不安げに揺れる。
振り返っても、
あの男は追ってこない。
部屋の中みたいに、
範囲は小さくない。
どこまでも遠くに行ける。
でも、それが逆に怖かった。
⸻
「……え、壊理……そろそろ、戻ろう?」
焔の声は小さく震えた。
このまま帰らなければ――
若や組のみんなと、
二度と会えなくなる気がした。
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壊理は、足を引きずりながら
かすかに振り返った。
赤い瞳が揺れていた。
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「……だめ……。」
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小さな唇から漏れた声は、
部屋の鍵を拒むようだった。
焔には、その意味がわからなかった。
繋いだ手は小さく震えているのに――
壊理の声だけは、
あの場所に帰らない道を選んでいた。
**
壊理side
焔ちゃんは――
「戻ろう」って言った。
檻の中のようなあの場所で、
一緒に絵本を読んでくれた焔ちゃんが
わたしに“帰ろう”って言った。
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でもそれが、
わたしにはどうしてもわからなかった。
⸻
焔ちゃんに、
毎日酷いことをする人たち。
焔ちゃんの身体を傷つけて、
痛い思いをさせて、
泣きたいのに泣けないようにして。
⸻
わたしが怖くて震えているとき、
「大丈夫」って言ってくれたのは焔ちゃんだけだったのに。
焔ちゃんは知ってるはずなのに――
外の光を、空気を、
少しだけでも知っているはずなのに。
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なんで――
なんで暗くて痛い、
あの場所に戻りたがるの……?
⸻
わたしは、
嫌だ。
もう嫌だ……!
痛いのも、悲しいのも、苦しいのも、
焔ちゃんが傷つくのも……
ぜんぶ嫌だ……!
⸻
誰か――
誰か……
おねがい、だれか……
⸻
わたしたちを――
たすけて……!
⸻
壊理の心の奥から絞り出された声は、
誰にも届かない空に吸い込まれていった。
小さな手は焔の手を、
壊れそうなくらい強く握りしめていた。
壊理side 終
**
ザッザッ――
逃げる小さな足音とは別に、
地面を踏み鳴らす重たい足音が迫る。
焔の耳が、
檻の奥の音を思い出す。
⸻
「……若だ……。」
猫の耳はとてもいい。
血の匂いと同じように、
足音だけで“主”を聞き分けられる。
すぐそこまで来ていた。
⸻
壊理の手は必死に焔を引いた。
焔は一瞬だけ振り向いた。
乱波のような重たい足音――
⸻
どんっ――!
振り向いたその瞬間。
焔の視界の端で、
壊理が誰かにぶつかった。
⸻
路地裏を抜け、
二人はいつの間にか
車の音が響く大通りへ飛び出していた。
⸻
ぶつかったのは、
普通の人間――
そう思った。
でも倒れたのは壊理だけだった。
相手は、
路地から飛び出してきた小さな体を
何でもないように受け止めた。
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尻餅をついた壊理の瞳が揺れる。
焔の心臓が跳ねた。
――目を逸らしたせいだ。
焔は声をかけようとした。
「……え、えり……!だ……」
大丈夫か――
そう言おうとした。
でもその声より先に、
目の前の“誰か”が膝をついた。
⸻
少年だった。
見慣れない服装をしていた。
暗いあの場所では聞いたことがない、
柔らかく透き通る声が壊理に降りた。
⸻
「ごめんね、痛かったよね。」
⸻
あまりに優しかった。
焔の猫の耳が、
“若”の足音と、
目の前の少年の声を同時に捕まえた。
胸の奥の鎖が小さく軋んだ。