壊理とぶつかったその少年――
彼の名は、緑谷出久。
雄英高校ヒーロー科一年生。
多くのヒーローを輩出してきた名門校で、
その名を刻み始めている若きヒーロー候補。
幼い頃からヒーローに憧れ、
己を磨き、努力を積み重ね、
今はかつての憧れの“力”を継承し――
その責任の重さと共に日々を駆けている。
⸻
この日、彼はインターン活動の一環で
街の安全確認をしていた。
事件の兆候もなく、
人々の生活が穏やかに続くその通り。
――だったはずが。
視界の隅に、
突然飛び出してきた小さな影。
⸻
軽くぶつかる程度だった。
怪我はない。
でも、視線を落とした瞬間、
出久の身体は自然と膝をついた。
⸻
目の前にいたのは――
小さなツノを額に生やした女の子。
白いワンピースの上から包帯を巻かれ、
その目に浮かぶ不安はただ事ではなかった。
⸻
「ごめんね、痛かったよね」
優しく声をかけながら、
出久の視線は自然と彼女の隣へ向いた。
そこにいたのは――
彼女より少しだけ年上の、
フード付きの半袖と包帯を巻いた少女。
猫のような耳、
二股に分かれた尻尾。
その姿は――
明らかに“普通”じゃなかった。
彼女もまた、
檻の中から逃げてきたような目をしていた。
⸻
心臓が、跳ねた。
これはただの迷子じゃない。
どこかから――
何かから逃げてきた二人。
二人の運命が大きく動き出す。
**
「ダメじゃないか。
ヒーローに迷惑をかけちゃ。」
⸻
――その声で、
焔の耳がぴくりと動いた。
振り返った先にいたのは、
もちろん焔の“主人”。
治崎廻――オーバーホール。
⸻
何度も聞いてきた声のはずなのに――
今、焔の耳に届いたその声は、
どこか知らない人の声に聞こえた。
優しさを演じた、
嘘みたいな声色。
自分にも、壊理にも、
組の誰にさえ使わない声色。
背筋の奥を氷でなぞられるように、
不気味だった。
⸻
「帰るぞ、二人とも。」
若の声に、
焔の体は自然と動いた。
頭で考えたわけじゃない。
それはもう焔の骨に染みついた“服従心”。
そもそも――
焔には“逃げる”つもりなんてなかった。
だから、当然のように――
壊理の肩に、そっと手を置いた。
⸻
「……壊理、帰ろ?」
⸻
帰ろう。
あの場所に帰ろう。
絵本を読もう。
当たり前のように紡いだ言葉。
⸻
でも、その瞬間――
焔の手は、
壊理の小さな肩から振り払われた。
パシン――
小さな音が、檻の鍵を叩いた。
⸻
「……っえ……?」
⸻
壊理に拒絶されたのは、
初めてだった。
焔の黄色の瞳が揺れる。
何も言えなかった。
⸻
けれど――
壊理の赤い瞳の方が、
もっと深く揺れていた。
⸻
“唯一の友”の手を――
振り払った。
二人で助かりたい。
たったそれだけの願いが、
焔の鎖を断ち切ってしまった。
⸻
二人の時間が、止まった。
大通りの喧騒も、
若の冷たい目も、
ヒーローの優しい声も――
何も聞こえなかった。
ただ、
繋がれたはずの小さな手だけが、
遠くで震えていた。
**
力なく――
焔の尻尾は垂れていた。
さっきまであれほど揺れていた
二股の先の小さな焔は、
もう微かにゆらめくだけだった。
⸻
壊理はそんな焔から、
視線を外した。
焔の手から逃げるように、
小さな両腕を別の誰かに伸ばす。
⸻
ガシッ――
彼女の小さな手が掴んだのは、
一度も触れたことのない“あたたかさ”だった。
⸻
壊理がしがみついたのは、
さっきぶつかったヒーロー――
緑谷出久。
緑谷の服の袖を、
小さな爪が必死に握る。
⸻
2人の傍らで、
オーバーホール――治崎と、
雄英のもう一人のヒーローインターン生が、
静かに言葉を交わしていた。
探るように、探られるように。
⸻
「お二人とも初めて見るヒーローだ。新人ですか?随分と若い。」
「…そうです!まだ新人なんで緊張しちゃって!」
「さ!立てよ相棒、まだ見ぬ未来に向かおうぜ」
彼らは知っている。治崎という男の危険性を…だからこそ、先輩であるヒーローが緑谷へ声をかける。
すぐにこの場所から離れるべきだと。
⸻
けれど――
壊理を抱きしめたヒーローは違った。
⸻
出久の腕が、
小さな壊理の背中をそっと支える。
逃げたくて逃げられなかった
檻の中の子供に向けるには、
あまりにも眩しい手。
その手つきは、
誰かを守ろうとする手。
誰かを助けようとする手。
焔が一度も見たことのない光だった。
⸻
「この子達に、
何してるんですか?」
⸻
出久の声が、
強く、優しく響いた。
⸻
若の冷たい瞳と、
ヒーローの澄んだ瞳が交わる。
焔の小さな耳は――
その音を捕まえながら、
ただ尻尾を垂らしていた。