「……ふう……
全く、ヒーローは人の機微に敏感ですね。
わかりました。」
若――
治崎廻の口元に滲んだ笑みは、
いつも焔に向ける
「役に立て」という声とはまるで違っていた。
鉄より冷たくて、
どこまでも滑らかだった。
⸻
焔は何も言わずに、
ただ若を見上げた。
二股の尻尾の先が、
ほんの少しだけ揺れた。
⸻
「恥ずかしい話です。
人目につくし……
こちらに来てもらえますか?」
振り返った若の指先が、
ヒーローたちを路地裏へと誘導する。
「お悩み相談」――
そんな風に聞こえるような声色だった。
でも焔の耳は知っていた。
若が“さっき”吐いた呼吸の重さを。
⸻
焔は治崎の横を一歩遅れて歩いた。
薄暗い路地裏に足を踏み入れた瞬間――
空気の匂いが変わった。
コンクリートの湿り気に混じって、
どこか鉄と血の匂いがした。
⸻
親が子育てに悩んでいるみたいな声。
焔は昔、
檻の奥で人間たちが
“黒猫は不吉だ”と囁きあったのを思い出していた。
言葉は優しいのに、
爪の奥だけが鋭い。
あれと同じだ。
⸻
ビリビリ……
背中を走る嫌な気配。
焔だけが察していた。
この路地の奥で、
若は――
このヒーローたちを殺すつもりだ。
⸻
焔は知っている。
あの目の奥に、
何も躊躇いがないことを。
この人の“家族”として繋がれた
自分の鎖の冷たさを。
⸻
尻尾の焔が小さく跳ねた。
焔はただ一人、
若の“殺気”に気がついていた。
その先に何をするつもりなのか――
誰を守るべきなのか。
獣の勘が、小さく軋んだ。
**
路地裏の奥で――
空気がピキリと軋んだ。
誰の耳にも、
殺気の匂いが伝わった瞬間だった。
⸻
壊理の小さな肩が震えた。
緑谷の優しい腕の中から、
その震えは外に出た。
⸻
出久の声がかすれた。
「え……!?」
だが、壊理の小さな手は
もう少年の服を掴まなかった。
⸻
「……もう駄々は済んだのか?」
響く治崎の声。
壊理は怯えた瞳の奥で、
静かに小さく頷いた。
⸻
焔はそれを黙って見ていた。
壊理が戻ってくるのを、
何も言わずに見ていた。
それが当たり前だと
言い聞かせるように。
⸻
治崎が背を向けた。
檻の鍵が開いたわけじゃない。
ただ、
誰も檻から逃げられなかっただけ。
⸻
焔は一歩遅れて、
若の背を追った。
小さな尻尾が路地裏の闇に消えていく。
⸻
その時――
焔はふと、
肩越しに振り返った。
小さく光る黄色の瞳が
二人のヒーローをまっすぐに捉えた。
⸻
路地裏に取り残された
ヒーロー二人の目と、
焔の目が合った。
何かを言うわけじゃない。
尻尾の焔も、声も揺れない。
⸻
ただ――
二人の“光”を
確かに目に焼き付けた。
**
「明日からお前は、
壊理とは別の部屋だ。」
⸻
若の声はいつものように冷たく淡々としていた。
でも、
焔の耳には
雷鳴のように轟いた。
心臓の奥がビリビリと震えて、
尻尾の焔が小さく消えかけた。
⸻
あの日――
ヒーローに会ったあの日から、
二日が経っていた。
壊理と同じ部屋にいるはずなのに、
二人は一言も声を交わしていなかった。
背を向け合って座り込んで、
ただただ時間だけが通り過ぎた。
⸻
もう、明日には部屋が分かれる。
もう壊理と絵本を読むことも、
尻尾を握って励まし合うこともできなくなる。
考えれば考えるほど――
焔の胸の奥が、
絞り出せない声で詰まっていった。
⸻
でも、
何もしないまま離れたら――
何も残らない。
⸻
夜、実験の後の冷たい部屋。
部屋の隅、
毛布を抱えて小さくうずくまる壊理の背中。
焔は、
自分の尻尾をぎゅっと握った。
声が震えた。
でも、
この声だけは止めちゃいけなかった。
⸻
「……かえ……り……。」
焔の呂律の回らない声が、かすかに響いた。
お互いの心を確かめるために。
外を夢見た
あの“鬼ごっこ”の続きを、
もう一度繋ぎ止めるために。