髪は野良猫の毛並みのように少し跳ねるクセのあるショートカット。
瞳は夜目の猫のように縦長で、灯りを映すたびに獣めいた光を宿す。
その姿には、人とも獣ともつかない妖しさと儚さが漂っている。
部屋の鍵が開く音がした瞬間、
壊理の肩が小さく震えたのを、焔は見逃さなかった。
小さな手が、焔の裾をぎゅっと掴む。
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「……行っちゃうの?」
壊理の赤い瞳が不安げに揺れた。
焔の紫焔の尻尾が、壊理の髪をそっと梳く。
くしゃりと小さな音がして、壊理の瞳が潤む。
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本当は、壊理も一緒に行けたらよかった。
部屋の外で一緒にお菓子を食べて、絵本を買って、
学校のときみたいにお日様の下を歩けたらよかった。
でもそれは若が許してくれなかった。
若が言うなら仕方がない。
若が言うことは正しい。
焔の胸の奥で、ほんの少しだけ
猫には似合わない罪悪感が泡みたいに揺れた。
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「すぐ、もど…る、ね?」
焔は笑った。
笑ったつもりだったけど、
口の端が引きつって、少しだけ心が痛んだ。
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今日は壊理が実験を受ける日。
部屋の外に連れて行かれて、痛い思いをする。
だから、焔がいない間、きっと不安だ。
焔は知っている。
それでも「大丈夫だよ」としか言えない自分を。
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「お土産、かってくる…!
ほしいの、なに…?」
焔が壊理の頭を尻尾で撫でながら聞くと、
壊理は下を向いて小さな声で答えた。
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「……りんご……」
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部屋の外に、組員の足音がする。
焔は尻尾をそっと解き、
壊理の小さな手を自分の爪でちょん、と触れた。
「りんご…わかった、
あまいの、えらぶ。」
紫焔がふっと瞬き、
焔は部屋の外へと足を踏み出した。
猫は、部屋の鍵が閉まる音を
振り返らずに聞いた。
すぐ戻る。
必ず。
それが壊理との、小さな約束だから。
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久しぶりに会えた組員さんたちは、
みんな私を見ると優しく笑ってくれた。
焔ちゃん元気か?
痛くないか?
何か欲しいものはないか?
みんな大丈夫かって、何度も何度も聞いてくれる。
でも私は大丈夫。
猫だから、痛みは隠せるし、
若が言ってたみたいに私が頑張れば、
組が救われるんだから。
だから、尻尾をふわっと立てて
「だいじょぶ、焔がんばる」って答えた。
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どうしてみんな、若のすることに
少しだけ不安そうな顔をするんだろう?
不思議だった。
若は組のために頑張ってる。
私も壊理も、そのために実験を受ける。
それが一番良い方法のはず。
でも、組員さんはそれ以上何も言わなかった。
だから私も深くは考えずに「バイバイ」と手を振った。
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外に出ると、空が高くて、雲が流れていて、
ビルの隙間から暖かい風が吹いてきた。
車のクラクションの音。
人が笑いながら歩いてる声。
遠くから漂ってくるパン屋さんの甘い匂い。
部屋の中では絶対に嗅げない匂いがする。
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私は嬉しかった。
外はきれいで、空気は美味しい。
猫の頃は、もっと外にいたんだと思い出す。
組に拾われて、部屋に入って、
外に出るのはご褒美になった。
だから嬉しかった。
けれど、
どこを見ても、何をしても、
“壊理がいたら”って思ってしまう。
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壊理も外の風を嗅いだら、
きっと少しは怖くなくなるかもしれない。
絵本の話みたいに、二人でパン屋さんに行って、
りんごのタルトを選んで、
お日様の下で食べたら、
どれだけ美味しいだろう。
でも部屋の鍵は壊理を外に出してくれない。
若がダメだって言ったから。
だから仕方ないんだ。
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私は尻尾をくるりと巻いて、
商店街の果物屋さんに足を向けた。
壊理のりんごを買ってあげなくちゃ。
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果物屋さんで一番赤くて甘そうなりんごを選んだ。
おじさんが袋に入れてくれて、焔の尻尾の先を見て
「火ぃ気をつけなよ」って笑った。
大丈夫、焔はちゃんと隠せるから。
焔の紫焔は誰も怪我させない。
若のお役に立つ以外は。
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帰り道、本屋さんの前を通りかかって、
焔の足は自然に止まった。
店先に積まれた写真集。
表紙に写っていたのは、見たことのない海。
太陽が反射して、キラキラ光っている。
空も水も全部、部屋の外の青だった。
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焔はページをめくってみる。
波打ち際、船、白い砂浜。
漢字がたくさん並んでいて、
焔には意味が分からない部分も多い。
でも関係なかった。
字なんかなくてもいい。
この海の色を、
部屋の中で泣きそうになる壊理に見せてあげたい。
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壊理が「綺麗だね」って言ってくれたら、
痛いのが少しは消えるかもしれない。
焔の尻尾が写真の青を照らす。
部屋の中にだって、波の音くらいは届くはずだ。
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りんごの袋と、分厚い写真集を抱えて、
焔は少し足早になった。
部屋に戻れば、壊理に会える。
今日は泣かないようにしてあげたい。
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「壊理…よろこぶかな…
あのこ、海 しらない…
きれいだって…
笑うかな…?」
暖かい風の中、
焔の二本の尻尾が嬉しそうに揺れた。
誰も見ていない路地裏に、
焔の紫焔が一瞬だけ瞬いた。
それは、部屋の外では一番小さな、
けれど部屋の中では一番大きな光だった。