The Ash Eater   作:メイユエ

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三話

部屋に戻ると、

壊理はもう戻っていた。

 

小さな体を毛布にくるんで、

焔の気配に気づくと、

壊理の赤い瞳が大きく揺れた。

 

 

「……おかえり……!」

 

その声は、泣き出しそうに震えていた。

 

部屋の鍵が閉まる音と同時に、

壊理は毛布から飛び出して焔にしがみつく。

 

まだ小さな腕は力なくて、

でも必死に焔の服を掴んで、

顔をぎゅうぎゅうと胸に擦りつけてきた。

 

 

焔は壊理の白い髪に自分の顔を寄せた。

頬と頬をすり合わせて、

小さく喉を鳴らすみたいに。

 

猫は、愛情をこうやって伝えるものだ。

焔が猫だったころ、母猫にしてもらったように。

 

焔はもう母猫の顔を思い出せないけど、

壊理にはしてあげたいと思った。

 

 

「……ま、て、させて…ごめ…

がんばった、ね…」

 

焔の呂律はまだ拙くて、

言葉の形が少しだけ崩れる。

 

でも壊理には、

その声がちゃんと届いていた。

 

 

焔はそっと、

袋から切ってもらったりんごを取り出した。

 

赤くて、甘い匂い。

 

部屋の中では味わえない色だ。

 

壊理の小さな手のひらに一切れをのせてあげると、

壊理はびくっと指を震わせて、

小さく口に運んだ。

 

 

「……あまい……」

 

そう呟いて、

壊理は焔を見て笑った。

 

 

焔は小さく尻尾を揺らすと、

今度はりんごの隣に、

分厚い海の写真集を置いた。

 

 

「これ…みせ、たかった……

きれい…海。」

 

壊理は目を丸くして、ページをめくった。

 

知らない波の青さ。

知らない空の広さ。

 

部屋の中の冷たい空気の中で、

りんごの甘さと波の音だけが二人を包んだ。

 

 

「ここ……行ける…かな……」

 

壊理が小さく呟いた。

 

焔は頷いた。

部屋の外に、壊理と一緒に出られる日が来ると信じて。

 

 

その時、焔の紫焔の尻尾が、

波の写真に映るように揺れた。

 

部屋の中でだけ、

二人の夢は静かに波打っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

俺がいない所で個性を使うな。

 

若からは何度もそう言われていた。

声のトーンは優しくなかったし、

約束を破ったら、どうなるかも聞かされていた。

 

だから私はずっと守ってきた。

紫焔は、若の役に立つためだけに使うものだから。

 

 

でも――

隣で写真集を見つめる壊理を見た時、

ちょっとだけなら……いいかな、って思ってしまった。

 

ほんの少しだけ。

部屋の中で泣いていた壊理に、

海の匂いを教えてあげたかった。

 

 

私は壊理の髪に尻尾を巻きつけて、

そっと笑った。

 

「若には……ないしょ、ね?」

 

壊理の小さな瞳が不安そうに揺れたけれど、

すぐに小さく頷いてくれた。

 

 

私は息を吸って、

胸の奥の紫焔を呼び覚ます。

 

ゆらり。

紫の火が滲んで、部屋の冷たい床を溶かすように広がった。

 

部屋の隅まで焔が満ちて、

壊理の小さな肩を優しく抱き込む。

 

 

眩しい光が瞼をすり抜けて、

足元の感触が変わる。

 

ザザッ――

 

冷たいはずの床が、

砂の柔らかい粒に変わっていた。

 

 

気づけば、

私たちは大海原の前に座っていた。

 

空は高くて、海は青くて、

波の音が檻の鉄の軋む音をかき消していく。

 

隣で壊理が小さく声を上げて、

私の肩に顔を埋めてきた。

 

私は笑った。

 

猫は、痛みを隠すのが上手いから。

 

だから、こういう夢だけは隠さない。

 

 

「これが……焔の、紫焔の夢見。」

 

壊理の瞳にだけ、

誰にも奪えない海の色が映った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

壊理のあんな笑顔を見たのは、

初めてだったかもしれない。

 

紫焔の海を見ながら、

壊理は波に手を伸ばして笑った。

 

寂しさも、

痛みの痕も、

その時だけは全部、波の音が連れ去ってくれた。

 

 

波打ち際にしゃがみ込んだ壊理が、

振り返って私を見る。

 

赤い瞳が、いつもよりずっと澄んでいた。

 

 

「ありがとう……!

今度は……絶対、本物の海を、

2人で、見に行こうね……!」

 

 

普段の壊理なら、

そんな風に声を張ることなんてなかった。

 

あの部屋の中では、

声を小さくするのが生きる術だったから。

 

でもあの時だけは違った。

紫焔の夢見が見せた“海”が、

壊理に部屋の外の光を触れさせてしまった。

 

 

私は「うん」と頷いた。

猫は嘘をつくのが下手だから、

心から嬉しかった。

 

こんなに喜んでもらえるなら、

紫焔を使ってしまったことは、

きっと大丈夫だって思った。

 

 

けれど――

 

その笑顔を見た直後、

部屋の外から鈍く鍵の開く音が響いた。

 

扉が軋む。

いつもと同じはずの足音が、

この日は少しだけ重かった。

 

壊理の手を握る私の指先が、

ほんの少しだけ冷たくなる。

 

 

もしかしたら、

これが良くなかったのかもしれない――

 

 

そう思った時にはもう遅かった。

 

若の黒い影が、私たちの夢見を踏みつぶすように

夢の中へと差し込んできた。

 

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