部屋に戻ると、
壊理はもう戻っていた。
小さな体を毛布にくるんで、
焔の気配に気づくと、
壊理の赤い瞳が大きく揺れた。
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「……おかえり……!」
その声は、泣き出しそうに震えていた。
部屋の鍵が閉まる音と同時に、
壊理は毛布から飛び出して焔にしがみつく。
まだ小さな腕は力なくて、
でも必死に焔の服を掴んで、
顔をぎゅうぎゅうと胸に擦りつけてきた。
⸻
焔は壊理の白い髪に自分の顔を寄せた。
頬と頬をすり合わせて、
小さく喉を鳴らすみたいに。
猫は、愛情をこうやって伝えるものだ。
焔が猫だったころ、母猫にしてもらったように。
焔はもう母猫の顔を思い出せないけど、
壊理にはしてあげたいと思った。
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「……ま、て、させて…ごめ…
がんばった、ね…」
焔の呂律はまだ拙くて、
言葉の形が少しだけ崩れる。
でも壊理には、
その声がちゃんと届いていた。
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焔はそっと、
袋から切ってもらったりんごを取り出した。
赤くて、甘い匂い。
部屋の中では味わえない色だ。
壊理の小さな手のひらに一切れをのせてあげると、
壊理はびくっと指を震わせて、
小さく口に運んだ。
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「……あまい……」
そう呟いて、
壊理は焔を見て笑った。
⸻
焔は小さく尻尾を揺らすと、
今度はりんごの隣に、
分厚い海の写真集を置いた。
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「これ…みせ、たかった……
きれい…海。」
壊理は目を丸くして、ページをめくった。
知らない波の青さ。
知らない空の広さ。
部屋の中の冷たい空気の中で、
りんごの甘さと波の音だけが二人を包んだ。
⸻
「ここ……行ける…かな……」
壊理が小さく呟いた。
焔は頷いた。
部屋の外に、壊理と一緒に出られる日が来ると信じて。
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その時、焔の紫焔の尻尾が、
波の写真に映るように揺れた。
部屋の中でだけ、
二人の夢は静かに波打っていた。
**
俺がいない所で個性を使うな。
若からは何度もそう言われていた。
声のトーンは優しくなかったし、
約束を破ったら、どうなるかも聞かされていた。
だから私はずっと守ってきた。
紫焔は、若の役に立つためだけに使うものだから。
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でも――
隣で写真集を見つめる壊理を見た時、
ちょっとだけなら……いいかな、って思ってしまった。
ほんの少しだけ。
部屋の中で泣いていた壊理に、
海の匂いを教えてあげたかった。
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私は壊理の髪に尻尾を巻きつけて、
そっと笑った。
「若には……ないしょ、ね?」
壊理の小さな瞳が不安そうに揺れたけれど、
すぐに小さく頷いてくれた。
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私は息を吸って、
胸の奥の紫焔を呼び覚ます。
ゆらり。
紫の火が滲んで、部屋の冷たい床を溶かすように広がった。
部屋の隅まで焔が満ちて、
壊理の小さな肩を優しく抱き込む。
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眩しい光が瞼をすり抜けて、
足元の感触が変わる。
ザザッ――
冷たいはずの床が、
砂の柔らかい粒に変わっていた。
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気づけば、
私たちは大海原の前に座っていた。
空は高くて、海は青くて、
波の音が檻の鉄の軋む音をかき消していく。
隣で壊理が小さく声を上げて、
私の肩に顔を埋めてきた。
私は笑った。
猫は、痛みを隠すのが上手いから。
だから、こういう夢だけは隠さない。
⸻
「これが……焔の、紫焔の夢見。」
壊理の瞳にだけ、
誰にも奪えない海の色が映った。
**
壊理のあんな笑顔を見たのは、
初めてだったかもしれない。
紫焔の海を見ながら、
壊理は波に手を伸ばして笑った。
寂しさも、
痛みの痕も、
その時だけは全部、波の音が連れ去ってくれた。
⸻
波打ち際にしゃがみ込んだ壊理が、
振り返って私を見る。
赤い瞳が、いつもよりずっと澄んでいた。
⸻
「ありがとう……!
今度は……絶対、本物の海を、
2人で、見に行こうね……!」
⸻
普段の壊理なら、
そんな風に声を張ることなんてなかった。
あの部屋の中では、
声を小さくするのが生きる術だったから。
でもあの時だけは違った。
紫焔の夢見が見せた“海”が、
壊理に部屋の外の光を触れさせてしまった。
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私は「うん」と頷いた。
猫は嘘をつくのが下手だから、
心から嬉しかった。
こんなに喜んでもらえるなら、
紫焔を使ってしまったことは、
きっと大丈夫だって思った。
⸻
けれど――
その笑顔を見た直後、
部屋の外から鈍く鍵の開く音が響いた。
扉が軋む。
いつもと同じはずの足音が、
この日は少しだけ重かった。
壊理の手を握る私の指先が、
ほんの少しだけ冷たくなる。
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もしかしたら、
これが良くなかったのかもしれない――
⸻
そう思った時にはもう遅かった。
若の黒い影が、私たちの夢見を踏みつぶすように
夢の中へと差し込んできた。