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「……使うなと言ったはずだ。」
若の声は冷たかった。
壊理が小さく息を呑む気配がした。
焔の尻尾を握りかけた小さな指が、
怯えて震えるのが分かる。
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焔の胸の奥で、
あの大海原の青が、
ゆっくりと黒く滲んでいった。
壊理があんなに笑ってくれたのに。
私は壊理のためにしただけなのに。
でも若にとっては、
私の焔は“役に立つため”以外に使ってはいけないものだ。
私は――
裏切ってしまったのか。
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「ご、ごめ……なさい……。」
声が震えた。
猫は本来、こんなに弱い声を出さないのに。
でも若は何も言わなかった。
ただ焔の頭を荒々しく掴んで、
そのまま床へと押しつけた。
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ゴンッ――
鈍い音が部屋に響いた。
鉄の匂いが、
焔の鼻先に滲んだ。
壊理の小さな悲鳴が遠くで滲んだ。
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私は抵抗しなかった。
尻尾を巻きつけることも、
爪を立てることもできたのに。
でもしなかった。
猫は、家族に牙を向かない。
それが焔にとっての掟だった。
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若の手のひらが、焔の頭を押さえつける。
熱くなった鉄が頬に張り付く。
部屋の外の夢なんて――
見なければよかったのかもしれない。
でも後悔はしたくなかった。
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だって、
壊理が笑ってくれたから。
私の紫焔の夢見で、
あの子が初めて「行きたい」って言ってくれたから。
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若の靴音が遠ざかる。
鍵が閉まる音が、
波の音の代わりに部屋を満たした。
私は小さく目を閉じた。
紫焔はもう、
部屋の中では揺れなかった。
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壊理は泣きながら、
焔の手に小さな手を重ねて、何度も何度も謝った。
「……ごめんね、ごめんね……
わたしのせいで……ごめんね……!」
焔の頭に残る痛みよりも、
床に押さえつけられた時の冷たさよりも、
壊理の震える声の方がずっと重かった。
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でも、壊理は何も悪くない。
紫焔を使ったのは私だ。
若の言いつけを破ったのも私だ。
だって、壊理があんなに笑ってくれたから。
部屋の中でしか笑えないその顔を、
焔はどうしても見たかっただけだ。
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壊理の涙で濡れた頬を、
焔は尻尾の先でそっと拭った。
自分の傷ついた手じゃ、
余計に壊理を怯えさせてしまいそうだから。
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「だいじょうぶ、だいじょうぶ……
泣か、ないで……」
呂律が少しだけ絡まって、
声が部屋の壁に跳ね返って、寂しく響いた。
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壊理の小さな背中を撫でる。
震える肩を、何度も何度も尻尾で包む。
焔の瞳の奥には、
若に謝らなくちゃという言葉が
波の底に沈んだように揺れていた。
悪いのは私だ。
私が謝れば、きっとまた許してもらえる。
だって私は――
部屋の中で生かしてもらっている猫だから。
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焔は壊理に笑いかけた。
猫は痛みを隠すのが上手だから。
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頭に巻かれた白い包帯は、
まだ少し血を滲ませていて、
髪の奥がひんやりしていた。
包帯を巻いてくれたのは、
死穢八斎會 若頭補佐――
クロノスタシスだった。
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私には、
クロノスタシスなんて長い名前はとても言えない。
だから、
「クロさん」って呼んだ。
呂律が回らない焔の声でも、
それだけはずっと上手く呼べた。
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クロさんはいつもと変わらない顔で、
私の頭にくるくると白い包帯を巻いてくれた。
「言葉が理解できないわけじゃないでしょう…
お前は若の、この組の役に立たなければならない。」
焔は、小さく尻尾を揺らして頷いた。
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『壊理に見せてしまった紫焔』
それがどれほど許されないことか、
焔にもわかっている。
でも壊理が笑ってくれたから、
焔は謝らなくちゃいけないのだ。
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クロさんの声は冷たくも優しくもない。
ただ淡々としていて、
それが逆に焔には心地よかった。
彼は最後に、
焔の頭をポンとこずいた。
「その力は、役に立つ時に使え。」
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包帯の下で少し痛んだけど、
焔は尻尾をふわりと揺らして笑った。
「……ありが、とう……クロ、さん……」
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壊理のいる部屋を一度だけ振り返ってから、
焔は若の待つ部屋へと向かう。
扉の鍵が閉まる音が、
また波のように背中を押していく。
これからまた実験だ。
若に謝って、
ちゃんと役に立たなくちゃ。
焔の紫焔が小さく、
包帯の奥で鈍く灯った。