治崎side
猫又 焔――
百年生きた化け猫が人になっただけの“厄介物”。
最初に会った時、
正直言って何の興味も湧かなかった。
何の役に立つ?
せいぜい“組長のお気に入りのペット”だろうと。
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だが、
あの焔が組員一人の個性を、
イタズラみたいに紫焔で焼き消した時――
俺の中で焔の価値は一気に跳ね上がった。
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焔の紫焔は、人を焼き、幻を見せる。
だがそれだけじゃない。
あの焔は“記憶”も“個性”も焼き消す。
つまり、
壊理の“巻き戻し”と焔の“紫焔”を合わせれば――
個性社会を根こそぎ分解できる。
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焔を縛るな、
壊理を怯えさせるな、
人として生かせ――
くだらない情だ。
組長が倒れた今、
もう誰も俺を止められない。
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壊理は恐怖で縛ればいい。
部屋の外が怖いと思わせておけばいい。
あの子供は何度でも従う。
焔は――
あの猫は“依存”で縛る。
優しくしてやれば尻尾を振る。
俺という“家族”から絶対に離れられない。
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あいつらは計画の要だ。
絶対に逃がさない。
あの紫焔も、壊理の巻き戻しも――
全部、俺が使い尽くす。
・・・・
謝る焔の姿は、
俺がずっと欲しかった“形”そのものだった。
頭を低くして、声を震わせて、
傷ついた尻尾を揺らしながら、
自分が悪いと信じて疑わない。
こんなにも都合のいい化け猫はいない。
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だが、まだ足りない。
甘い餌をやるだけでは、
あの猫はいつか野に還る。
飴と鞭――
よく言ったものだ。
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俺は手袋を外す。
焔の前髪を掴んで額に触れた。
分解。
ひび割れた骨も、割れた皮膚も、
血の痕も何もかも壊す。
修復。
組の“道具”は傷ついていてはいけない。
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焔の瞳が微かに揺れる。
痛みが消えたことに、
あの猫は安堵のような顔を見せる。
滑稽だ。
自分を踏みつけた手で治されることが、
あの猫にとっては“愛情”だとでも思っている。
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俺は焔の頬を指先で撫でる。
「俺は、お前を信じるぞ……?」
思ってもいないことを口にしても、
焔は疑わない。
檻の中で与えられる言葉が、
そいつにとってすべてだからだ。
⸻
紫焔の奥に隠した猫の瞳が、
俺を見上げて揺れる。
いい顔だ。
もう少しだ。
完全に檻の鎖で心を巻き取れ。
⸻
…お前は、俺のものだ。
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頭に巻かれた包帯が取れて、
じんわりと沁みていた痛みが全部なくなった。
焔の額に残っていた、
床に叩きつけられた痕はもうどこにもない。
治崎が手袋を外してくれた。
分解して、壊して、もう一度きれいにしてくれた。
それは焔にとって、
ただの能力じゃなかった。
⸻
「俺は、お前を信じるぞ……?」
その声が、
焔の胸に落ちた。
部屋の外の光より、
あの幻の海より、
壊理の笑顔よりも、
その言葉が焔の心に一番深く溶けた。
⸻
――私は、信じられてるんだ。
若に。
治崎に。
部屋に閉じ込められたって、
痛みで血が滲んだって、
ちゃんと役に立てば、
自分は必要とされる。
“必要とされている”という確信が、
焔の胸をふわりとあたためた。
⸻
紫焔を使って裏切ることなんて、
もう二度としない。
今度は絶対、若を困らせない。
壊理のためにも、組のためにも、
何でもやる。
⸻
焔は治崎をまっすぐ見上げた。
猫の瞳が、
小さく笑った。
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「……焔、がんばる……
若のため……
なんでも……。」
小さな尻尾が床を撫でる音だけが、
檻の外の冷たい空気に滲んだ。
焔にとって治崎は、
檻の鍵を握る“家族”だった。
壊理も、若も、
私の大切な家族なんだ――
だからこそ。
焔は疑わなかった。
頭を押さえつけられても、
紫焔を禁じられても、
傷を分解されても、
全部“必要だから”だと信じてきた。
若の言葉を信じるのは、
焔にとって家族を信じることと同じだった。
⸻
だから――
次に連れて行かれる場所が、
今までの“実験”とは違う空気を纏っていても、
焔は歩みを止めなかった。
コンクリートの床に靴音が響く。
鉄と血の匂いが混ざり合って、
奥の暗がりに何かが待っている。
部屋の鍵が閉まる音とは違う、
もっと大きくて重い扉が背後で閉まった。
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広い。
壁も床も冷たい灰色。
焔の紫焔の光さえ吸い込んでしまいそうな空気。
何が始まるのかはわからない。
でも若のためなら、
それがどんな地獄でも大丈夫だ。
そう思って、
焔は前を向く。
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そこに立っていたのは――
⸻
初めて見る男だった。
灰色の壁の一部みたいに、
広い背中をゆっくりとこちらに向けたまま、
焔を見下ろした。
空気が張り詰める。
焔の尻尾が小さく震えた。
この男は、
“只者ではない”と本能が告げていた。
それでも――
焔の瞳は揺れなかった。
⸻
必要だから。
役に立つから。
家族のためだから。
焔の信じる“檻の鎖”は、
まだ断ち切られなかった。