乱波 肩動――
人呼んで“天蓋”。
死穢八斎會でも数少ない、“力”だけで生きる化け物のような男。
どうしてあの男が若に従うのか――
それは単純だ。
“若に勝つため”
乱波の信条はそれだけだった。
治崎の冷たい目の奥に潜む“強さの歪み”が、
乱波には退屈しないスリルだった。
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広いコンクリートの部屋の真ん中で、
焔は乱波に睨まれていた。
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「何だ、本当にガキじゃねェか!」
ゴツい腕を組んだ乱波が、
焔の小さな体を上から下まで舐めるように見た。
その瞳には、期待も興味もない。
ただの“つまらなさ”だけが滲んでいた。
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強いものは好きだが、
弱いものには一切興味がない。
それが乱波 肩動だ。
この時点で、
乱波の中で“猫又 焔”という存在は
“弱いもの”に分類された。
焔自身も、その評価に何も感じなかった。
だってそれは事実だから。
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けれど――
どうして若は私をここに連れてきたのだろう?
焔の心の奥に、
ほんの小さな疑問が浮かぶ。
それを教えてくれるのは、
目の前で溜息をついたこの男だけだった。
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「俺は乱波。お前に興味はねェが、
オバホがお前を鍛えろってんだ……
はぁ、簡単に……」
乱波は頭をガシガシと掻いて、
目を細めて焔を真っ直ぐ見下ろした。
その瞳は氷のように冷たく、
同時にどこか獣の飢えた光が混ざっていた。
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「死ぬんじゃねェぞ……?」
乱波の笑いは、
焔にとって“試される”という意味の
檻の鍵の音に聞こえた。
焔の黄色の瞳が、
まっすぐに乱波を映した。
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若――治崎が、焔を乱波の前に連れてきたのは
ほんの一言のためだった。
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「壊し切るなよ。」
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それは優しさではない。
焔を“道具”として生かしておくための、
ただの制御の言葉だ。
部屋の鍵と同じだ。
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焔は若の背中を目で追った。
扉が閉まる音が、
遠くの檻の錠前みたいに重く響いた。
次の瞬間――
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乱波の腕が唸った。
大きな手が拳になり、
焔の小さな顔面を真正面から撃ち抜く勢いで迫る。
いきなりのことで、
焔の心臓がバクンと鳴った。
一瞬、足がすくんだ。
けれど――
身体の奥に刻まれた本能が、
焔の頭をコンクリートの外へ滑らせた。
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拳は空を切り、
乱波の分厚い指先が焔の髪をわずかにかすめて止まる。
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焔の瞳が瞬いた。
心臓がうるさく跳ねて、
呂律の回らない口は何も言葉を生まない。
息だけが小さく漏れる。
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けれど焔は、
自分がどれほど自然に避けたのかに気づいていなかった。
猫として百年生き延びた鋭敏さ、
どんな地面でも爪を立てて生き延びた瞬発力。
焔にとっては当たり前のこと。
だけど――
それを治崎だけは、誰よりもわかっていた。
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乱波の口角がニヤリと持ち上がる。
一度“弱い”と分類された焔が、
一瞬で“面白い”存在へと変わる。
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「おっ!?
ちょっとは楽しめそうだなァ!」
乱波の腕が再び振り上がる。
焔の小さな尻尾が、
コンクリートの上を擦って小さく揺れた。
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これが――
焔にとっての“鍛えられる”ということ。
これが――
若が“壊し切るな”と言った意味。
檻の鍵はもう、
焔の目の前にはなかった。
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迫り来る乱波の拳。
焔は何度も何度も必死に避けた。
避けて、回って、すり抜けて、
乱波の分厚い腕の隙間を猫のように滑る。
尻尾が床を払うたびに、
コンクリートの上に小さく焔の気配が散った。
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その動きは、
並のプロヒーローでも追えないほど鋭かった。
けれど焔自身は、
自分がどれだけ獣じみているかに気づいていない。
若に“役に立て”と言われたから――
ただそれだけで、
焔の身体は百年分の野生を剥き出しにしていた。
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「おお! おお! おお!?
お前ェちったぁやるなぁ!
……けどなァ……これじゃ、ケンカになんねェ!!」
乱波の声が檻のような部屋に響く。
乱波は笑っていた。
焔の中の“猫”だけを引きずり出して、
壊す瞬間を心待ちにしているように。
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乱波の拳が、
焔の視界をかすめて真横から迫る。
ほんの一瞬、
焔の足が滑った。
鋭い勘も本能も、
ただの人間の床では発揮できない。
次の瞬間、
焔の身体は殴られた弾みで、
小さな黒い玉のようにコンクリートを転がった。
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ゴンッ――!
壁に当たって、
尻尾の先まで痺れる痛みが走る。
昔を思い出す。
あの頃の声が、遠くから響く。
⸻
『黒猫なんて、不吉だ!』
『きったねぇ猫~!』
人の足音、石の投げられる音、
冷たい雨の匂い。
人にとって、
黒猫なんて“厄病神”でしかなかった。
⸻
焔はゆっくりと立ち上がる。
怒りはない。
憎しみもない。
ただ――
“生き残る”。
役に立つために、
若に信じてもらうために、
…まだ終わらないために。
⸻
乱波の気配をまっすぐ見据えた焔の瞳は、
もう人のものではなかった。
油断なく、
恐れもなく、
ただ喉の奥で静かに唸る猫の目。
紫焔の奥に眠る、
百年生きた黒猫の獣性だけが、
焔の心を支えていた。