The Ash Eater   作:メイユエ

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六話

乱波 肩動――

人呼んで“天蓋”。

死穢八斎會でも数少ない、“力”だけで生きる化け物のような男。

 

どうしてあの男が若に従うのか――

それは単純だ。

“若に勝つため”

乱波の信条はそれだけだった。

 

治崎の冷たい目の奥に潜む“強さの歪み”が、

乱波には退屈しないスリルだった。

 

⸻

 

広いコンクリートの部屋の真ん中で、

焔は乱波に睨まれていた。

 

⸻

 

「何だ、本当にガキじゃねェか!」

 

ゴツい腕を組んだ乱波が、

焔の小さな体を上から下まで舐めるように見た。

 

その瞳には、期待も興味もない。

ただの“つまらなさ”だけが滲んでいた。

 

⸻

 

強いものは好きだが、

弱いものには一切興味がない。

それが乱波 肩動だ。

 

この時点で、

乱波の中で“猫又 焔”という存在は

“弱いもの”に分類された。

 

焔自身も、その評価に何も感じなかった。

だってそれは事実だから。

 

⸻

 

けれど――

どうして若は私をここに連れてきたのだろう?

 

焔の心の奥に、

ほんの小さな疑問が浮かぶ。

 

それを教えてくれるのは、

目の前で溜息をついたこの男だけだった。

 

⸻

 

「俺は乱波。お前に興味はねェが、

オバホがお前を鍛えろってんだ……

はぁ、簡単に……」

 

乱波は頭をガシガシと掻いて、

目を細めて焔を真っ直ぐ見下ろした。

 

その瞳は氷のように冷たく、

同時にどこか獣の飢えた光が混ざっていた。

 

⸻

 

「死ぬんじゃねェぞ……?」

 

乱波の笑いは、

焔にとって“試される”という意味の

檻の鍵の音に聞こえた。

 

焔の黄色の瞳が、

まっすぐに乱波を映した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

若――治崎が、焔を乱波の前に連れてきたのは

ほんの一言のためだった。

 

⸻

 

「壊し切るなよ。」

 

⸻

 

それは優しさではない。

焔を“道具”として生かしておくための、

ただの制御の言葉だ。

 

部屋の鍵と同じだ。

 

⸻

 

焔は若の背中を目で追った。

扉が閉まる音が、

遠くの檻の錠前みたいに重く響いた。

 

次の瞬間――

 

⸻

 

乱波の腕が唸った。

 

大きな手が拳になり、

焔の小さな顔面を真正面から撃ち抜く勢いで迫る。

 

いきなりのことで、

焔の心臓がバクンと鳴った。

 

一瞬、足がすくんだ。

 

けれど――

身体の奥に刻まれた本能が、

焔の頭をコンクリートの外へ滑らせた。

 

⸻

 

拳は空を切り、

乱波の分厚い指先が焔の髪をわずかにかすめて止まる。

 

⸻

 

焔の瞳が瞬いた。

 

心臓がうるさく跳ねて、

呂律の回らない口は何も言葉を生まない。

 

息だけが小さく漏れる。

 

⸻

 

けれど焔は、

自分がどれほど自然に避けたのかに気づいていなかった。

 

猫として百年生き延びた鋭敏さ、

どんな地面でも爪を立てて生き延びた瞬発力。

 

焔にとっては当たり前のこと。

 

だけど――

それを治崎だけは、誰よりもわかっていた。

 

⸻

 

乱波の口角がニヤリと持ち上がる。

 

一度“弱い”と分類された焔が、

一瞬で“面白い”存在へと変わる。

 

⸻

 

「おっ!?

ちょっとは楽しめそうだなァ!」

 

乱波の腕が再び振り上がる。

 

焔の小さな尻尾が、

コンクリートの上を擦って小さく揺れた。

 

⸻

 

これが――

焔にとっての“鍛えられる”ということ。

 

これが――

若が“壊し切るな”と言った意味。

 

檻の鍵はもう、

焔の目の前にはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

迫り来る乱波の拳。

焔は何度も何度も必死に避けた。

 

避けて、回って、すり抜けて、

乱波の分厚い腕の隙間を猫のように滑る。

 

尻尾が床を払うたびに、

コンクリートの上に小さく焔の気配が散った。

 

⸻

 

その動きは、

並のプロヒーローでも追えないほど鋭かった。

 

けれど焔自身は、

自分がどれだけ獣じみているかに気づいていない。

 

若に“役に立て”と言われたから――

ただそれだけで、

焔の身体は百年分の野生を剥き出しにしていた。

 

⸻

 

「おお! おお! おお!?

お前ェちったぁやるなぁ!

……けどなァ……これじゃ、ケンカになんねェ!!」

 

乱波の声が檻のような部屋に響く。

 

乱波は笑っていた。

焔の中の“猫”だけを引きずり出して、

壊す瞬間を心待ちにしているように。

 

⸻

 

乱波の拳が、

焔の視界をかすめて真横から迫る。

 

ほんの一瞬、

焔の足が滑った。

 

鋭い勘も本能も、

ただの人間の床では発揮できない。

 

次の瞬間、

焔の身体は殴られた弾みで、

小さな黒い玉のようにコンクリートを転がった。

 

⸻

 

ゴンッ――!

 

壁に当たって、

尻尾の先まで痺れる痛みが走る。

 

昔を思い出す。

あの頃の声が、遠くから響く。

 

⸻

 

『黒猫なんて、不吉だ!』

 

『きったねぇ猫~!』

 

人の足音、石の投げられる音、

冷たい雨の匂い。

 

人にとって、

黒猫なんて“厄病神”でしかなかった。

 

⸻

 

焔はゆっくりと立ち上がる。

 

怒りはない。

憎しみもない。

 

ただ――

“生き残る”。

 

役に立つために、

若に信じてもらうために、

…まだ終わらないために。

 

⸻

 

乱波の気配をまっすぐ見据えた焔の瞳は、

もう人のものではなかった。

 

油断なく、

恐れもなく、

ただ喉の奥で静かに唸る猫の目。

 

紫焔の奥に眠る、

百年生きた黒猫の獣性だけが、

焔の心を支えていた。

 

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