The Ash Eater   作:メイユエ

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七話

 

おそらく、目の前の男――乱波 肩動。

 

あの大きな体の動きは、

個性という“人の力”を使ってのものだ。

 

まだ本気じゃない。

猫が虫で遊ぶように、

彼も焔で遊んでいる。

 

⸻

 

焔の胸の奥に、

紫焔がゆらりと息をする。

 

背中を覆うように、

焔の体に焔が纏う。

 

そして――

焔の焔が、分かれる。

 

部屋に“焔”が数人、数匹。

いないはずの影が壁を這い、乱波を囲む。

 

⸻

 

焔の声が、獣の喉で囁いた。

 

「……げ、んぇ…い、ゆう、えい(幻焔遊影(げんえいゆうえい))。」

 

乱波の目が血の気を帯びて笑う。

 

「いいなァ……!

お前、楽しませてくれよ!!」

 

⸻

 

紫焔の幻が部屋を満たす。

いるはずのない焔が笑い、

幻の尻尾が絡みつく。

 

焔は初めて、自分から踏み込んだ。

 

床を滑る影――

鋭い爪――

狙うは、獲物の首。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

気がつけば、

焔はただ無防備に天井を見上げていた。

 

コンクリートの匂いが鼻を突く。

湿った鉄の味が口の奥に残る。

 

身体中が痛む。

爪も尻尾も力なく床に投げ出されていた。

 

⸻

 

一体、何があったのか――

思い出せない。

 

幻焔を纏って、幻の影を遊ばせたはずだ。

乱波を惑わせて、喉元を狙ったはずだ。

 

なのに。

 

覚えていない。

 

⸻

 

焔の目の前に、

ぶっきらぼうな笑みが落ちてきた。

 

乱波 肩動――

さっきまで焔を叩き潰していた男が、

焔の顔を覗き込んでいる。

 

焔は動かない。

乱波が立ち、焔が横たわる。

それだけで、勝負の結果はわかる。

 

⸻

 

悔しさはない。

けれど、胸の奥がぐずぐずに引っかかる。

 

なぜ負けた。

なぜ覚えていない。

 

焔の中の獣はそう唸っていた。

 

⸻

 

痛む腹を押さえ、

ぎし、と音を立てて身体を起こす。

 

息が一度だけ熱く漏れた。

 

⸻

 

「よく生きてたもんだ。」

 

乱波が豪快に笑って、

乱暴に焔の腕を掴んだ。

 

ずるりと尻尾が引きずられ、

立ち上がる足元がぐらつく。

 

⸻

 

「ケンカってのはいいもんだろう……

何度しても飽きねェ。」

 

乱波の声は底の方で楽しそうだった。

 

焔にはまだ理解できない。

 

⸻

 

乱波の背後。

ドアの向こうから足音が近づく。

 

ヒールの音が冷たい床を叩く。

 

⸻

 

「加減ってものを知らないんでやすか?」

 

少し呆れたような声が、

焔の耳に届いた。

 

乱波が大袈裟に肩を竦めると、

コートの裾を揺らして現れたのは――

 

クロノスタシス。

 

焔にとっての“クロさん”だった。

 

⸻

 

クロさんの冷めた視線が、

焔の傷だらけの頬をすっと撫でる。

 

「今日はここまでです。」

 

クロさんが、

呆れたように乱波を見て告げた。

 

⸻

 

「はァ!? まだやれるよなァ!?

なあ、黒猫ァ! もう一回いけるだろォ!?」

 

乱波の声は大きいのに、

その奥は子供みたいだった。

 

まだ遊び足りない子供。

それが焔には、

どこか昔の“猫の喧嘩”に似ているようにも見えた。

 

でも、

焔に決定権なんてない。

 

自分の爪を出すのも、焔を燃やすのも、

誰かが鍵を開けてくれない限りはできないのだ。

 

⸻

 

クロさんは肩を竦めるだけだった。

 

「初日ですよ?

明日また連れてきやす。」

 

乱波の額に青筋が浮かぶ。

 

「はあァ!? 明日だとッ!?

ふざけんな! 今させろッ!!」

 

けれどクロさんは涼しい顔で言い放った。

 

「貴方、どうせ暇でしょう?」

 

一拍、沈黙。

 

乱波の顔が崩れた。

 

「……暇だけどよォ……。」

 

⸻

 

クロさんの指先が、

焔の傷だらけの服の裾を掴む。

 

「なら決まりです。」

 

⸻

 

乱波がまだ何か言いたげに叫んでいた。

 

けれど焔はもう、

クロさんに荷物のように持ち上げられていた。

 

足は宙に浮き、

尻尾だけが寂しく垂れた。

 

⸻

 

灰色のコンクリートの部屋に、

まだ遊び足りない乱波の声だけが残る。

 

焔は振り返らなかった。

 

振り返る理由なんて、

焔には与えられていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

**

 

焔がクロノスタシスに連れられて去った後――

広いコンクリートの部屋は静かだった。

 

さっきまで響いていた殴り合いの音も、

紫焔が揺れる熱気ももうない。

 

乱波 肩動は一人残り、

己の拳をじっと見下ろしていた。

 

⸻

 

分厚い右腕の皮膚に、

引っ掻かれたような細い跡。

 

かすり傷。

かすり傷にもなり切れない、

ただの爪の筋。

 

それでもそこに、

確かに焔の爪が届いていた。

 

⸻

 

「フンッ……」

 

乱波は鼻を鳴らした。

 

あんなガキの一撃など、

血がにじむどころか痛みもしない。

 

けれど、

ほんの一瞬――

思い出すだけで胸の奥が微かに熱くなる。

 

⸻

 

「ちっとだけ……

 ムキになっちまったじゃねェか。」

 

⸻

 

乱波は拳を握り直した。

 

本気じゃない。

それは確かだ。

けれど――

いつもの“遊び”よりは

少しだけギアを上げたのもまた確かだった。

 

⸻

 

紫焔の幻が脳裏をかすめる。

 

猫が影を分けて、

幻をまとい、

喉元を狙ったあの目。

 

あれは人の目じゃなかった。

 

⸻

 

乱波の口元が小さく歪む。

 

それは、

肉の奥底で血の味を想う獣の笑いだった。

 

⸻

 

「面白ェな……

次は、もっと本気出せや……

猫又ァ。」

 

⸻

 

コンクリートの奥にまだ漂う

獣の気配が、

乱波の背中をかすかに熱くした。

 

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