おそらく、目の前の男――乱波 肩動。
あの大きな体の動きは、
個性という“人の力”を使ってのものだ。
まだ本気じゃない。
猫が虫で遊ぶように、
彼も焔で遊んでいる。
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焔の胸の奥に、
紫焔がゆらりと息をする。
背中を覆うように、
焔の体に焔が纏う。
そして――
焔の焔が、分かれる。
部屋に“焔”が数人、数匹。
いないはずの影が壁を這い、乱波を囲む。
⸻
焔の声が、獣の喉で囁いた。
「……げ、んぇ…い、ゆう、えい(
乱波の目が血の気を帯びて笑う。
「いいなァ……!
お前、楽しませてくれよ!!」
⸻
紫焔の幻が部屋を満たす。
いるはずのない焔が笑い、
幻の尻尾が絡みつく。
焔は初めて、自分から踏み込んだ。
床を滑る影――
鋭い爪――
狙うは、獲物の首。
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気がつけば、
焔はただ無防備に天井を見上げていた。
コンクリートの匂いが鼻を突く。
湿った鉄の味が口の奥に残る。
身体中が痛む。
爪も尻尾も力なく床に投げ出されていた。
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一体、何があったのか――
思い出せない。
幻焔を纏って、幻の影を遊ばせたはずだ。
乱波を惑わせて、喉元を狙ったはずだ。
なのに。
覚えていない。
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焔の目の前に、
ぶっきらぼうな笑みが落ちてきた。
乱波 肩動――
さっきまで焔を叩き潰していた男が、
焔の顔を覗き込んでいる。
焔は動かない。
乱波が立ち、焔が横たわる。
それだけで、勝負の結果はわかる。
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悔しさはない。
けれど、胸の奥がぐずぐずに引っかかる。
なぜ負けた。
なぜ覚えていない。
焔の中の獣はそう唸っていた。
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痛む腹を押さえ、
ぎし、と音を立てて身体を起こす。
息が一度だけ熱く漏れた。
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「よく生きてたもんだ。」
乱波が豪快に笑って、
乱暴に焔の腕を掴んだ。
ずるりと尻尾が引きずられ、
立ち上がる足元がぐらつく。
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「ケンカってのはいいもんだろう……
何度しても飽きねェ。」
乱波の声は底の方で楽しそうだった。
焔にはまだ理解できない。
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乱波の背後。
ドアの向こうから足音が近づく。
ヒールの音が冷たい床を叩く。
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「加減ってものを知らないんでやすか?」
少し呆れたような声が、
焔の耳に届いた。
乱波が大袈裟に肩を竦めると、
コートの裾を揺らして現れたのは――
クロノスタシス。
焔にとっての“クロさん”だった。
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クロさんの冷めた視線が、
焔の傷だらけの頬をすっと撫でる。
「今日はここまでです。」
クロさんが、
呆れたように乱波を見て告げた。
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「はァ!? まだやれるよなァ!?
なあ、黒猫ァ! もう一回いけるだろォ!?」
乱波の声は大きいのに、
その奥は子供みたいだった。
まだ遊び足りない子供。
それが焔には、
どこか昔の“猫の喧嘩”に似ているようにも見えた。
でも、
焔に決定権なんてない。
自分の爪を出すのも、焔を燃やすのも、
誰かが鍵を開けてくれない限りはできないのだ。
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クロさんは肩を竦めるだけだった。
「初日ですよ?
明日また連れてきやす。」
乱波の額に青筋が浮かぶ。
「はあァ!? 明日だとッ!?
ふざけんな! 今させろッ!!」
けれどクロさんは涼しい顔で言い放った。
「貴方、どうせ暇でしょう?」
一拍、沈黙。
乱波の顔が崩れた。
「……暇だけどよォ……。」
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クロさんの指先が、
焔の傷だらけの服の裾を掴む。
「なら決まりです。」
⸻
乱波がまだ何か言いたげに叫んでいた。
けれど焔はもう、
クロさんに荷物のように持ち上げられていた。
足は宙に浮き、
尻尾だけが寂しく垂れた。
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灰色のコンクリートの部屋に、
まだ遊び足りない乱波の声だけが残る。
焔は振り返らなかった。
振り返る理由なんて、
焔には与えられていなかった。
**
焔がクロノスタシスに連れられて去った後――
広いコンクリートの部屋は静かだった。
さっきまで響いていた殴り合いの音も、
紫焔が揺れる熱気ももうない。
乱波 肩動は一人残り、
己の拳をじっと見下ろしていた。
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分厚い右腕の皮膚に、
引っ掻かれたような細い跡。
かすり傷。
かすり傷にもなり切れない、
ただの爪の筋。
それでもそこに、
確かに焔の爪が届いていた。
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「フンッ……」
乱波は鼻を鳴らした。
あんなガキの一撃など、
血がにじむどころか痛みもしない。
けれど、
ほんの一瞬――
思い出すだけで胸の奥が微かに熱くなる。
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「ちっとだけ……
ムキになっちまったじゃねェか。」
⸻
乱波は拳を握り直した。
本気じゃない。
それは確かだ。
けれど――
いつもの“遊び”よりは
少しだけギアを上げたのもまた確かだった。
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紫焔の幻が脳裏をかすめる。
猫が影を分けて、
幻をまとい、
喉元を狙ったあの目。
あれは人の目じゃなかった。
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乱波の口元が小さく歪む。
それは、
肉の奥底で血の味を想う獣の笑いだった。
⸻
「面白ェな……
次は、もっと本気出せや……
猫又ァ。」
⸻
コンクリートの奥にまだ漂う
獣の気配が、
乱波の背中をかすかに熱くした。