毎日――
乱波 肩動は焔とケンカをしていた。
訓練場。
乱波の獣じみた笑い声が、
コンクリートの壁に弾けて響く。
⸻
“この人、毎日暇なのかな……”
焔はそんなことを一瞬だけ思う。
でもすぐに、
正面から唸りを上げて迫る拳が
そんな考えを叩き潰す。
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あの日――
初めて乱波の拳を避けた時よりも、
今日の拳は速くて、重くて、容赦がない。
かすっただけで頬が裂け、
尻尾の毛先に血が飛ぶ。
⸻
それでも焔は、
黄色の瞳を細めて獲物を見据えた。
相手の肩の動き、爪先の角度――
小さな隙間を縫うように、
獣の身体をすべらせる。
百年生き延びた黒猫の本能に、
人としての“戦い”の形が上書きされていく。
⸻
個性をぶつけるだけでは勝てない。
紫焔の幻は一度見切られた。
だから今度は、
もっと深く、獣の勘で“人の隙”を喰らう。
⸻
焔の足が床を蹴った。
乱波の拳が、空気を割って頭のすぐ横を抜ける。
体を捻る。
避けきれないなら、
吹き飛ばされないギリギリで肩を滑らせる。
爪先の爪が床を削る音が、
焔の喉の奥で鳴る小さな唸り声と混ざる。
⸻
訓練――
それは拷問のようで、
確かに焔の力となっていた。
血と汗の匂いの奥で、
焔は小さく牙を剥く。
⸻
「……きょうこそ……
乱波に……
一泡……ふかせる……!」
⸻
尻尾の焔がかすかに揺れた。
今日だけは、
ただの獲物じゃ終わらせない。
百年の黒猫が、
小さく牙を磨いた。
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強くなることは――
若の役に立つこと。
組の役に立つこと。
壊理を守ること。
焔はずっと、そう思ってきた。
⸻
でもそれはとても難しいことだった。
目の前の乱波は強い。
爪も牙も通じない“壁”みたいな獣。
若はきっと、もっと強い。
焔の鼻は知っている。
血と鉄の匂い。
あの人の背中に漂う“壊すための匂い”。
そんな相手に、勝てるはずがない。
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何より――
心がついていかない。
役に立つ。
守る。
言葉にすれば簡単なのに、
心の奥はまだ霧のように曖昧だった。
だから、負けても悔しくない。だから負けてしまう。
ただの訓練、ただの檻の中のケンカ。
それだけのはずだった。
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何が足りない?――本当に守りたいものは、何だ?
焔の中で、
檻の中の声が小さく重なった。
「お前を信じるぞ…」
「役に立て」
若の声。
クロさんの声。
⸻
でも――
その奥に、小さな光が残っていた。
今朝交わした
ほんの小さな約束。
⸻
「……読もう……白い猫の絵本……」
⸻
壊理のか細い声。
震える尻尾を握ってくれた温かさ。
あの声だけは、
嘘じゃなかった。
⸻
焔の尻尾の焔が、
小さく“ボボッ…”と息をした。
紫焔が胸の奥で息を吹き返す。
⸻
帰る。
絶対に帰る。
早く帰って、
壊理と一緒に白い猫の絵本を読む。
それだけだ。
⸻
帰る、帰る、帰る――
絵本を読むッ!!
⸻
それが、
焔が勝つ理由だった。
若に褒められるためじゃない。
乱波を倒すためじゃない。
壊理と一緒に“夢の続きを読む”ためだ。
に”ゃあぁぁぁぁ――!!
焔の声が、
獣の喉を震わせて部屋中に響いた。
百年の黒猫が、
生まれて初めて“生きたい”と叫んだ声。
小さな喉では届かないはずの音が、
檻の奥の夢まで引き裂くほどに、
腹の底から溢れた。
⸻
尻尾の紫焔が、
ゆらりと刃に変わる。
全部、爪に込める。
幻影は子供騙しだ――
今必要なのは、
獣の牙の最後の一撃。
⸻
目の前の乱波は壁みたいに揺るがない。
でも――
小さな隙間が見えた。
肩の筋肉の流れ、
重心のズレ、
空気の歪み――
獣の勘が一瞬だけ、獲物の喉を射抜く線を描いた。
⸻
いけ
いけいけいけ
いけいけいけいけ――!!
⸻
焔の心臓が、
檻の鍵を弾き飛ばすように脈打った。
幻じゃない。
幻よりも速い“牙”だ。
⸻
届けッ――!!
焔の全身が、
黒い稲妻のように乱波の懐に潜った。
爪が、紫焔をまとって閃く。
⸻
⸻
乱波の顔が、
マスクの奥でわずかに歪んだ気がした。
獣の血の匂いが、
焔の鼻をつんと刺した。
部屋に残してきた、
壊理の声が焔の耳で小さく笑った。