夜のホグワーツの図書館の片隅で、少年は息を潜めながら杖先を灯し、そっと棚から棚を歩いていた。
その表情は不安そうだったが、微かに期待が見え隠れしている。そろそろと歩いていた少年は、薄暗い中でふわりと光を放つ本を見つけ息を呑んだ。
──これだ。
少年は震える指先で、そっと本を引き出し、胸にしっかりと抱き走り出した。
野生の梟がほうほうと鳴く夜。
埃っぽい空き教室にそっと忍び込む。月明かりだけが少年を照らしていた。
彼の表情は本を勝手に持ち出した罪悪感はあまりなく、かわりに興奮で頬が赤くなっている。
机の上に羊皮紙と本を広げ、何度も確認しながら魔法陣を写していく。震える手で丁寧に書き切った後「できた」と小さく呟きごくり、と生唾を飲み込んだ。
そして蝋燭に火を灯し、本の言葉通りの呪文を口にした。
魔法陣が淡く光り、蝋燭の炎が揺れる。
次の瞬間、空気が軋むような音がして、そこにそれは現れた。
それは十七歳ほどに見える中性的な人の姿をしていた。
腰まで届くまっすぐな黒髪が重力を無視するようにさらりと流れ、瞳は濃い葡萄酒のように深く鮮烈な紫。
白磁のように滑らかな肌に長いまつげが影を落とし、微笑めばその口元はどこか気怠げで、挑発するように笑う。
黒の執事服のような漆黒のコートをまとい、シャツの首元には古風な銀のブローチが光る。
それは優雅に片手を胸に当てて一礼し、唇にわずかな笑みを刻んだ。
「はじめまして、呼び出していただき光栄にございます。私はしがない上級悪魔でございます」
少年が声を詰まらせると、悪魔は小さく笑った。
「おや、ご新規様でございますね?──本日は契約の手順をお伝えいたしましょう」
柔らかながらも抑揚のある声が、夜の空き教室に響いた。
「契約の法は単純明快にございます」
悪魔は宙を歩きながら、にっこりと微笑んだ。
「対価は──甘美なるスイーツ」
悪魔は長い背を曲げ、少年の目を覗き込むように顔を寄せる。紫の瞳が炎を映してきらめいた。
「まず、その辺の店で買える板チョコ、駄菓子レベル。これらは髪をさらさらにするとか無くした筆記用具を見つける程度でございます。
次に、街の人気店のケーキ、タルト、焼き菓子レベル。小テストで満点を取らせる、気になる相手と偶然出会う、失くしたペットが戻る──この程度まで可能でございます。
また、百年物の妖精の蜂蜜入りのケーキや幻の湖で作られたシャーベット──こうした希少スイーツになりますと、不可能を可能へと書き換えることができます。
そして最後に……伝説級スイーツ!巨人族の涙で煮詰めた糖蜜菓子、不死鳥の羽で練った飴細工、流星群のドロップ──」
悪魔は軽く肩を竦める。
「──こうしたものを用意できるのであれば、世界のことわりを歪ませ、国の転覆すら支援いたしましょう」
紫の瞳が冗談めかして細められる。
「そして──忘れてはならぬ特別な条件が一つ。強い想いが込められたスイーツは、格を超えて力を持ちます。
母が死ぬ前に焼いてくれた最後のクッキー。貴方が初恋相手に初めて作った不格好なケーキ。大切な人から贈られた思い出の手作りチョコレート……それらは、時に全てを凌駕する対価となるのです」
悪魔は立ち上がり、ひらりと指を鳴らした。
「──理解されましたかな?」
少年は小さく頷く。その様子を見て、悪魔は片目を閉じるようにして笑った。
「では──あなたの『願い』と『スイーツ』を見せていただきましょうか」
これが、ホグワーツに密かに伝わる悪魔とスイーツの契約の法則である。
強い願い、強い思いを持つ者だけが、悪魔が宿る本を見つけ出すことができる。悪魔の対価は、ただのスイーツ。悪魔は今日もスイーツと引き換えに、小さな願いを叶える。
──ただし、その願いがどんな結末を迎えるかは、誰も知らない。