壁を駆け上がり軽々と同じ高さに上がってこようとするネルに対し、惑わすように広く跳び回っていたイツキが突然自身の眼前へ急降下。
相手の出方を窺っていては、その間にこの高さでの戦いに適応されてしまうという判断からの即断。
(叩き落しにきたな!)
奇襲を冷静に認識したネルはSMGで反撃の弾幕をばら撒き削りついでの牽制後、強化ガラスの壁を駆け距離を離そうとする。
当然のように重力を無視したような"横"への疾駆を行い、追ってきているであろうイツキに更なる迎撃を加えようと壁を蹴った勢いで空中で振り返ったネルは、
(…………お、い……っ)
掴まれれば一巻の終わりとなる五指が、50センチにも満たない距離に迫っている事実を目の当たりにする。
勢いあまって千切れることも厭わないばかりに腕を伸ばし、此方を凝視するイツキの形相は【鬼】としか形容しようがないものだった。怖いものの象徴としての安直な形容ではない。
厄除けの鬼瓦の如く。口を限界まで開き、瞳が三白眼になるまで丸くなるほど見開かれた、無い筈の角と鋭い牙を幻視するほどの――
(――当然のように、このあたしについてきやがって……!!)
ネルは首を強引に背中側へ折り曲げるも、中心へと神速で収束するイツキの五指から完全に逃れることは敵わなかった。
目の下の頬の皮膚を爪先が掠り、皮膚を捲り上げ血を噴出させる。
その間もネルの動きは止まらず、二丁の愛銃を襲撃者の腹目掛けて掃射。
狙い通り大量の弾幕を食らったイツキもまた怯まず、握り潰そうとした手と反対側の腕を背後のショットガンに回していた。
強引に一撃でも撃ち込むつもりか、とそれを見たネルは既に脆い側面や背後に回り込む算段をつけている。
空中で振り向けるほどの勢いで壁を蹴れば、壁側に吸い込む力が働いていない以上そちらには戻れないが、それを想定して足場となるオブジェクトがある方に跳んでいる。
ショットガンを構えられるまでには余裕を持って着地できる――
(……っ!?)
一方の肩に激痛が迸ったまま、斜め下へと落下していく己の状態を認識したネルは、コンマ一秒にも満たない位の遅れの後何が起きたのか認識する。
こうなる直前に見えた光景は、歯を食いしばった鬼が銃身を掴み、"そのまま振りかぶった"というものだった。
手が届かない距離は銃の弾丸で埋める、そんな思い込みなどと笑う余地など無い筈の当然の理が、眼前の気のふれたような行動への反応を鈍らせた。
(……こいつ、てめえの愛銃を……!!)
戦車の装甲板を易々と引き剥がしたという筋力、それを加減抜きに振りかぶり何かに叩きつければ銃そのものが折れるか、良くても作動不良を免れることなど有り得ない。
銃撃戦の経験を積んでいた体がそう無意識に判断していたことも、反応が間に合わなかった原因だった。
否、かろうじて狙われた頭への直撃だけは避けられた。
この現状は、鈍器のように振りかざされたイツキの銃身が、叩き潰すように肩へと沈み込んだ結果だ。
(腕の感覚は有る! 折れてはいねえ! ――が、握力は未だ……!!)
落ちながら、肩を伝い指先まで痺れている現実と向き合い、次なる最善の行動を模索する。
この奇行ともとれる一撃で、相手の銃が使い物にならなくなっている等とネルは露ほども考えていない。
イツキの愛銃「WAS」は彼女の為にリオが設計しているという事実も、彼女と古い付き合いであるネルはイツキ本人より早い段階で把握している。間合いを瞬時に詰める脚力を有する彼女の為、鈍器としての扱いに耐えうる程頑丈に作るぐらいやりかねないし、出来るという信頼があった。
見上げた先で、両足を折り曲げてガラスに着地、縋るようにも見える必死の形相でこちらを凝視するイツキと目が合う。
対応する為に極限まで集中力を研ぎ澄ませたネルの思考は、全ての音が消えたように錯覚させた。
あの両足がガラスを蹴り伸び切った瞬間、イツキは追いついてくる。――こちらが地面に落下するより速く。
着地する足場のない今、そこから逃れる術はない。
(このあたしを、早々に窮地に追い込みやがったな……!)
この状況を脱する手段は唯一つ。
神速で迫るイツキの顔面に、使える方の腕で引き金を引いて弾丸を直撃させ、此方が着地するまでの時間を稼ぐ事――失敗すれば、恐らく組み付かれて四肢の何れかを壊されるか、銃を掴まれ握り潰される。前者は機動力、後者は攻撃力を大きく奪われ、敗北の色が濃厚になる事は避けられない。
しかもイツキはそんな考えなどお見通しだとばかりに、己の顔の前で両腕を斜めにクロスさせ盾にしている。
(――どんなとんでもねえ光景を見せつけてんのか、分かってんだろうな!? あたしと、これを観ている奴らに!!)
両腕の僅かな隙間を穿つか、肉薄した瞬間そのガードを引き剥がすか……考える余裕も与えられない中、ネルは笑顔だった。吊り上がった狂暴な目と対照的な、何処か幼さすら感じる柔らかな笑みを口元に浮かべて。
苦しい時ほど笑う、というような誤魔化しの笑みではない。
心から楽しくてたまらないのだ。ハンデも容赦もなく戦い抜いて尚「ただ一人」に追い詰められることなど、コールサインダブルオーを名乗って以来、片手の指でも余る程にしか覚えがない。
その相手が目にかけ育てていた、己が直弟子ともなれば猶更だ。
久しく味わっていなかった「挑戦者となった自分」に高ぶり、脳内に快楽を引き起こす物質が湧きだし、更に集中力が研ぎ澄まされていく――