適温の湯で体を洗い流すと、どす黒い気分も少しは晴れた気がする。
部屋の断熱性能は高いようで、タオルで水滴を拭いただけの裸でも寒さに鳥肌が立つことはない。
選ばれた生徒しか入居できない高級アパートなだけはある、ということか。
その後淡々とイツキが袖を通していくのは、模様のようにリアルタッチ寄りの小さな蝶々が描かれた若葉色のルームウェア。
Vネックの広めの襟の縁にフリルがあしらわれている「フリルカラー」の襟。
V字の先端に暗い緑のリボンが蝶結びで飾られており、総じて女の子らしさ満載ながら大人びた色遣いと演出に彩られていると言えるデザインである。
深めに切り込まれた襟元から豊かな胸の谷間が覗いていて、服全体のガーリーな雰囲気がその一点の色艶を目立たせている。
(同居人がいるわけじゃあるまいし、パジャマでこんなに気合入れる必要あるのかな……って言ったらまた怒られるんだろうなあ)
かつてのイツキは、中学時代のジャージや体操服を無理やり寝巻にしていた。
よく伸びて手入れも楽だし、そのまま外に出て買い物にも行けるからと。
イツキは、既に何度目かになる三人で遊びに行った時の一騒ぎを回想する。
(あの時はミカが、パジャマに着替えた後で化粧品を切らしてた事に気づいて困った、とかそんな話をして。私は前の学校の体操服とかで寝てるしそのまま外にも出られて便利だよ、って話したらおかしくなったんだ。ワカモにはドン引きされて、ミカが何故か凄く怒り出して……)
何か気に障るようなことを言っただろうかと戸惑うイツキは、引き攣った只ならぬ笑顔のミカに胸倉を掴み上げられた。
こちらを捕獲する手の甲の血管が浮き出て、輝かんばかりに見える笑顔の眼輪筋が痙攣しているという凄まじい形相――あのミカを前に折れずにいられる者がキヴォトスにどれだけ居るだろうか。
そして、週末にレディース向けのセレクトショップへ行く約束をさせられたのだ。
この可愛らしいルームウェアはその時に買ったもの。
総じて一時間近くの試着をミカに強要された末、彼女に見立ててもらったのだ。
どうにか金欠の彼女にレジへ持っていかれる事だけは阻止して自分で支払った後……何故あの時怒ったのか、何故ここまでしてくれるのか分からないイツキは恐る恐る尋ねたのだが、
『……あのねぇイッちゃん? 好きな人がいる女の子は……ううん、いつか素敵な誰かと一緒になりたい女の子はね、部屋着も可愛くするのが当たり前なの。本当に見られるかどうかは関係なく、ね。イッちゃんはさ、見えない所まで努力する女の子と、外側だけ飾ってる女の子。どっちが可愛くなると思う?』
困っているようにも見える、眉の下がった笑顔。
ミカは既に怒ってはおらず、逆に質問するようにそう言った。
そう言われて初めて、イツキは「また」彼女に、自分がスタートラインに立たせて貰えたのだと気づいた。髪色と目の色が変貌して間もない頃、似合う髪型や化粧を教えてもらった時と同じように。
最初だけはミカのイツキに対するお節介に疑問を呈することのあったワカモも、今は呆れながらも教えてくれる側だ。
その行動の根底にあるのは、先生を巡る恋の好敵手としての矜持。
負けるつもりはないが、相手が勝負の場にすら立てていない不戦勝は許さないという思想。一流アスリートのスポーツマンシップにも通ずる誇り高さだ。
(……そんな、誇り高い人達に、また私は甘えようとしている……)
ドライヤーで髪を乾かし終えたイツキは、スマホでモモトークを開く。
続けて1つのグループトークを開くと、躊躇なくフリック入力を行った。
一分が過ぎた位で、通知音が鳴る。
【ワカモ】
◀≪新手のミレニアムのノロケですか?≫
狐耳の大和撫子然とした少女が呆れているのが、文字からも伝わってくるようだ。
しかし、こちらの趣向を理解していなければ出てくる筈の無い軽口じみた言葉が、イツキには嬉しかった。
【ミカ】
◀≪また極端だね。何があったの?≫
トリニティのお姫様が割り込み、三人グループトークの全員が揃う。
この時間なら、あのフリフリが可愛らしいワンピース型の就寝着姿なのだろうな。と、イツキは想像する。
ビデオ通話機能で見た事があるのだ。お姫様のように柔らかい美貌の活きた着こなしで、同じ人種なのかと慄く位綺麗で可愛かったのを覚えている。
≪何とか何もしないで済んだけど≫▶
「もの」呼ばわりするのは心苦しいが、信頼できるとはいえアリスの正体に関することを学外の二人に話すのは不味いと考え、こう表現するに止めた。
以前の自分なら、このことを誰にも話せず抱え込んでいただろう。
でもそれは、話を聞いてくれようとする人達にとって失礼な事だと今なら分かる。
己の情けない部分を打ち明けられることこそが、信頼の証なのだと。
【ワカモ】
◀≪心で思っているだけに止められることと、実際に手を出してしまう事には天地以上の差があります≫
何があったのか伝えただけで、どのように悩んでいるのか察したワカモからすぐにこのような反応があった。
【ワカモ】
◀≪自身が後者と同じ人種等と、思い詰めてはなりません。今は止められたことを喜ぶべきです≫
【ミカ】
◀≪やろうと思えば本当に壊せちゃうのって怖いよね、分かるよ≫
割って入ったミカも、牢獄の壁に素手で穴を開けられる怪力の持ち主だ。
その実態も、かつて実際に真正面から戦ったイツキはよく知っている。
【ミカ】
◀≪この流れなら言えそうだからぶっちゃけるけど、シャーレのガラス扉変わってるの私の仕業≫
冒頭の自分の発言と渡り合えるな、と感じてしまう爆弾発言が飛び出し、イツキはたまらず食いついてしまう。
助言と同情で寄り添ってくれる二人の温かみに、目頭に感じていた熱さが吹き飛んだ。
【ワカモ】
◀≪つまり、アレが経年劣化ではなく故意によるものだったと。何をしでかしたんですか≫
【ミカ】
◀≪わざとじゃないよ! バットを振ったら後ろでピシイッて! 当ててないのに!≫
【ワカモ】
◀≪割っておいて当ててない、は流石に言い訳として無理がありますわ≫
【ミカ】
◀≪一緒に来てたセイアちゃんが病欠だったから、やりたかったかなって≫
【ワカモ】
◀≪運動に誘ったのはいいとして、何故そこでやったのですか≫
【ミカ】
◀≪もーっ! 本当に一回素振りしただけなんだってーっ!!≫
その後のトークは30分以上も長引いた。
最初に相談した事等何処へやら、という有様である。
しかし、「おやすみ」を言う頃には、イツキの胸の中の曇りも消えていた。
相談ごと暗い気持ちを遠くに投げ飛ばして貰えたようだった。
ミカがわざと自らがイジられるだろう話題を投げてきた、その気遣いが分からない程イツキも鈍くはない。
(……話を聞いてもらえるのって、こんなに凄いことなんだね)
悩みの原因そのものが無くなったわけではなく、解決策も思いついていない。
しかし、それを吐露する先があるだけでこんなにも違うのだなと、イツキは感謝する。
そもそも己の衝動や感情には、自分自身が向き合わなければならないのだ。
その「支え」を感じられただけで十分だった。