ゲヘナ風紀委員会本部、風紀委員長室。
ヒナは事務処理を行う自分の机に肘を突き、書類の束を持って印字された情報に目を通していた。
ゲヘナでもペーパーレス化は進んでいるものの、共有する必要性の低いデータ等についてヒナは今も紙媒体を指定している。
場所を取ってしまい特定のワードの検索も難しい等のデメリットこそあるが、眼精疲労のような健康上のリスクは液晶よりも軽い。
趣味が睡眠、と公言する程の激務を捌くヒナにとって、こういった身体への負担を減らす小さな工夫は見た目以上に重要なものであった。
「ヒナ委員長、アコです」
「入って」
ノックの音の直後に続く入室許可を求める声に、書類の紙束から目を離さないままヒナは二つ返事で促す。
直後、緩くウェーブのかかったセミロングの青い髪の少女が扉を開け、バインダーを片手に背筋を伸ばして入ってきた。
ノースリーブの白いシャツに紺色のダブルジャケットを羽織り、ジャケットの裾より短いタイトスカートを履いた姿。締め付けるような服装で上下を纏めた、秩序側の風紀委員会らしいコーディネート。
だが豊満な乳房の横半分近くが、シャツにもジャケットにも覆われておらず素肌を外気に曝している。
首元には手の平サイズのカウベルをネックレスのように付け、左手首には短い鎖のついた鉛色の枷が嵌っている……等と偏ったセンスの目立つ装いだが、本人やヒナがそれを訝る様子は見られない。
「失礼します。こちら、急ぎで頼まれていた追加の資料です。日没までお時間を頂ければ、より精度の高いデータの提供も可能です」
「ありがとう、作り直しは不要よ。次は通常の業務をお願い」
風紀委員会のNo.2、天雨アコは整然と用件を述べながら書類をヒナの机に置く。
ヒナの秘書のような立場でその補佐を担い、同じく膨大なゲヘナの業務を日夜捌き続けている行政官としては慣れたやり取りであった。
「分かりました。コーヒーのおかわりも、すぐにお持ちしますね」
「暫くはいい。少し飲み過ぎた気分だから」
空になったカップを見たアコの申し出を、ヒナは無難な理由をつけて断った。
彼女の入れるコーヒーはお世辞にも美味しくない、というのが本人以外全員からの評なのだ。
眠気覚ましにその不味さが欲しい場合もあるが、まだ空は明るく、今のところ需要はない。
「……昨日はシャーレに行ってこっちを空けてしまったけど、業務は間に合いそう?」
「お気遣いありがとうございます。今晩には一段落出来る見込みですよ。……相変わらず困った連中ばかりで、てんやわんやですけどね」
忠誠を誓った相手である委員長が気に掛けてくれている、それを察したアコの顔が綻んだ。
その後、背後の扉が閉まっているのを見、自分たち二人しかこの場にいないのを確認してアコは切り出す。
「ところで、ご要望通り『天童アリス』の情報をご用意しました件。差支えなければ、理由をお伺いしても?」
「ええ。近々行われる『大会』に関して気になることがあって、その関係でね」
「大会……対戦相手に関わることですか」
その内容を察したアコの表情が露骨に険しいものとなり、激務で刻まれた目の下の隈の色が濃くなった。
「心配してくれてる?」
「当然です。ヒナ委員長の勝利を疑ってはおりませんが」
ヒナが直前まで目を通していた書類も、その『対戦相手』の全ての戦闘データをまとめた資料である。
ゲヘナの驚異的な情報網と、アコの行政官としての情報収集能力は『全て』という表現を誇張では終わらせなかった。
ミレニアム学区内での自警紛いの辻ヒーロー、C&Cとシャーレからの任務、病院脱走後の「ツチブタの怪異」と称された無法地帯における破壊活動の記録まで、何もかも手元の紙束に反映されている。
語るまでもなく、『死闘の00』の詳細も。
「なら、今ここで情報のすり合わせをしてもいい? 戦闘データは見せてもらったけれど、あなたの口からも聞いておきたい」
「承りました」
アコは頷くと傍らに差し込むようにして所持していたタブレットを取り出し、必要な情報を画面上へと展開する。
「――ミレニアムサイエンススクールの東戸イツキ。その脅威度ですが、基本的にはヒナ委員長に制圧できない相手ではなく、格下と言ってもいい程度です。しかしながら……非常に危険な状況も、有り得ると言わざるを得ません」
概要を述べ終えたアコは、何かを堪えるようにタブレットを持つ手を強く握りしめる。
「射撃の命中率が著しく低い点が、大きく脅威度を下げています。通常であれば、この弱点を突いて立ち回ることが出来れば負けることは無いでしょう。怪力で機動力も高いですが、同等に動けて技巧で大きく勝るヒナ委員長なら対応できる範囲と愚考いたします」
「異存はない。でも、不確定要素がある」
「はい。先の通りの脅威度なら、ミレニアム最大戦力である美甘ネルに迫ったことへの説明がつきません。特定の2つの条件下でのみ、跳ね上がっているのです。戦闘能力と……破壊する事への執念とでもいう、常軌を逸した執着が」
アコが眉を潜めているのは、ヒナが敗北する可能性があると恐れているのではない。
勝利は揺るがないが、取り返しのつかない傷を負う可能性について、あり得ないと断じきれなかったのだ。
――あのイカれた改造人間が万が一、己を犠牲を厭わない突撃をヒナ委員長に仕掛けでもしたら――
「一つは機械を相手にした場合。もう1つは、己以上の戦闘能力を持つ敵と相対した場合」
「読み込んで頂き感謝します。分析の結果、条件を絞り込む事は出来ましたが、その理由まで解析することは出来ず……申し訳ありません」
「別に難しいことではないわ。あの子はただ、怯えているだけ」
「……委員長?」
敵にかける言葉とは思えない発言を耳にし、聞き間違えたのかとアコは思わず呼びかける。
「ありがとう、すり合わせはこの位でいいわ。業務に戻って貰える?」
しかし、ヒナはそれに答えることなく礼を述べて退室を促した。
「……はい、それでは失礼します。何かあれば、いつでもお呼び下さい」
今のは一体、どういう意味なのか。
そう問い質したい気持ちを飲み込んでアコは一礼し、空のカップを下げつつ風紀委員長室を後にした。
(――逆ね。2つの条件に当て嵌まる場合だけは、脅威度が下がらない。……あの子は、自分に怯えているだけ。命を容易く壊せる力に)
命の存在しない機械であれば、心置きなく破壊できる。
全力を出しても勝てない相手なら、誤って死なせてしまう心配はいらない。
ただそれだけのことなのだと察しはついたが。普段の縮こまったような態度のイツキを見た事のないアコ達が、気づけないのも仕方がないというものだ。
戦績だけを見れば、特定の獲物を好んで襲い、それを仕留められる実力を備えた狂戦士同然なのだから。
《アリスを見る目だけが、変わってしまったんです》
ヒナはあの日出会った少女の発言を思い出しながら、アコが先程持ってきたばかりの資料を手に取る。
(荒唐無稽だけど、もしもそうなら辻褄が合ってしまう)
ヒナは仮説を立てていた。
イツキにとって、アリスが2つの条件の一方に当て嵌まる存在なのではないか。だからあの時、アリスを見た途端怯えたように逃げ出したのではないかと。
手元の資料の所々から読み取れる、単なる一生徒にしては不自然な要素、挙動。
それらが『命のある機械』と仮定した途端奇妙なほど噛み合っていく。
(……なんて。何をやっているのかな、私は)
ここまでして、ヒナはあまり意味のないことをしている自身を嘲る。
大会の対戦相手と無関係でないのは事実だが、だから何だと言うのか。
彼女の正体が本当に機械だったとして、それを餌にミレニアムを強請る理由も今の自分には無い。
当時偏見なく接してくれた一時の『戦友』が、暗い顔をしているのを放っておけなかったのかもしれない。
(……あの子は、あなた自身に怯えたり、嫌っているわけじゃない。いつか、これを教えてあげられる機会が来ればいいのだけれど)
ヒナは浅く息を吐くと、アリスに関する資料をファイルに収納する。