東戸イツキは、強い嫉妬心というものを抱いたことが無い。
否、抱いたことがあるのを忘れてしまったのかもしれない。
例えば「先生と一緒になるのに相応しい能力を持った女性」は何人も知っているのだが、それに対し「なぜ自分は」「何故あの子だけ」という気持ちになれないのだ。
これは「己の分を弁え正しく他者を尊敬できる」美点である一方で、「一番を目指す為に貪欲になれない」向上心の薄さという欠点にもなっていた。
そんな彼女の性分を見抜いていたネルは、『死闘の00』で戦う際に条件をつけた。
『詫びとして』『本気で殺しに来い』と。
もし、そのように命じていなければ。
イツキは本来の実力の何割かを無自覚に発揮できないまま、あっさり敗北していた。
己の手が届く世界であるわけがない、という考えに、自ら望んで閉じ込められたまま。
そして今。
イツキはまたも、己が雲の上の存在と疑わぬ相手へと牙を剥こうとしている。
「先生」と出会わなければ一生関わる筈の無かったであろう、ゲヘナの最終兵器へと。
普段の任務時と同様にメイド服を纏ったイツキは、既に所定の位置について対の所定位置に立ったヒナと対峙していた。
(障害物の一切ない、広い空間。ネル先輩と戦った時の特殊なオブジェクトのようなギミックもない)
陸上競技の聖地であるアスレチックスタジアムの場内は、徹底的に整地されている。
グラウンド上を駆け抜ける選手が、最高のパフォーマンスを披露できるように。
(身を隠し、盾に出来るものを一切持てない中で、対峙するのは最高峰の射程と威力を誇るミニガンの使い手。笑える程勝ち目がない状況)
長距離攻撃手段を持たない自分は、まず遮蔽抜きで弾幕を潜り抜けて何としても接近戦に持ち込む他なく、この時点で圧倒的不利だ。
名目上は交流を目的とした「親善試合」であり、勝たなければならない明確な理由はない。
しかし不利な状況という言い訳があろうと、かつての『死闘』は、無様な敗北を喫する己を許さなかった。
(……ここで一方的に負ければ、こんな私に全力で向き合ってくれたネル先輩まで軽んじられることになる)
――(「己の価値を己で見出せないなら、誇りを持ちなさい」)
矜持を持つことが苦手だった自分への
尊敬する師匠に、勝利へ後一歩まで迫れたことへの誇り。
師匠が外付けの未知の力ではなく、『根性』を評価してくれた事への誇り。
1つ1つの「誇り」を思い出す度に、競技場のざわめきや、撮影を続ける飛行ドローンの駆動音が消えていく。
(ネル先輩を倒す為にコッソリ練習してたあの技も、ここで出し切る)
格上だと認識している相手へ抱いていた恐怖心が、極上の獲物を見つけた歓喜へと変じていく。
怖い位に強い相手なら、ちょっとやそっとで壊れる心配はないのだ、と。
(――そうすれば、かすり傷の1つくらい。こんな私だって――)
地面に手をついた、獣のような『四つ足』の体勢へと変わっていったのは無意識だった。
自分の顔がどれほどおぞましい形相になっているかなど、考えてもいない。
口の端から漏れ出している粘りを纏う汚物に、気づいても居なかった。
(――怯えが、消えたわね)
試合開始が迫る中、ヒナは微動だにしないまま冷静に眼前の相手の変化を見つめていた。
(それはつまり、美甘ネルを喰らわんとしたあの殺意が、私に向けられるということ)
本音の所で、ヒナがイツキに向ける感情は「上から目線」であり、自身もその自覚があった。
強力な兵器や兵力を手にして増長した輩は山のように相手してきたし、敵としての彼女もその延長線上のものでしかない、と。
これは無法地帯たるゲヘナの鎮圧に長年尽力してきた経験からの冷静な判断であり、驕りは無い。
経験値の面で、ヒナがイツキを大きく上回っているのも事実なのだ。
だから余裕をもってあしらえると判断できたなら、なるべく傷つけない形で決着をつけようと考えていた。
これまで鎮圧してきた、他の問題児達と同じように。
(あの顔――)
四つ足の体勢を取るイツキは、おぞましい形相でこちらに目を合わせている。
だが、その方向性はネルに向けていた「狂気を孕んだ笑顔」とは異なっていた。
限界まで見開かれた眼と、呆けたように薄く開いた口が表す感情は「無」。
(――視られている)
開いたままの口からは、尋常ではない分泌量の唾液が溢れ、整地されたグラウンドに零れ落ちつつあった。
見た目だけなら戦意を喪失しているようにも映るその実態を、ヒナは経験から的確に見抜く。
(常軌を逸した集中力で、こちらの一挙手一投足を全て分析されている)
それは如何に自分から逃げるかを考えてばかりの問題児達とは勿論、己が強敵と認識する小鳥遊ホシノとも大きく異なる挙動。
列車砲シェマタを巡って衝突した際、ホシノは己が逃げ切る為の戦いを徹底していた。
互いに目的の為全力だったとはいえ、共に相手を壊すことが主目的だったわけではない。
――しかし、今此方を分析している「獣」はその誰とも違う。
(何時ぶりかしら。"私自身"に殺意を向けられたのは)
痛い目に遭わせた輩から、山ほど恨みは買っている。
だが彼女らの殆どは恐れが恨みを大きく上回り、ヒナ自身に苦痛を与えてやろうという感情を向ける者は殆どいない。
僅かな例外も、薬で理性を失った輩程度のものだった。
(この単純な地形、地の利は射程距離で上回る私にある。でもここは陸上競技の聖地……己が脚で駆ける者が、実力を出し切る為の場所)
フィールドを形成する大地は、完璧に整備されている。まだ見ぬ世界記録の礎となる為に。
これはイツキが、情報以上のスピードで走る可能性を示唆している。
(『死闘の00』を上回る速度が出るのなら、上り幅次第では射程距離を維持した戦闘の継続は困難。そして、今の彼女との近接戦闘は非常に危険)
最早、無傷で制圧できる相手ではない。
元ゲヘナ情報部としての勘と経験、ここまで積み上げてきた過去と現在の情報全てが警報を鳴らしている。
"これ"に容赦をする余裕など無い、と。
(四肢を潰し、顎を砕いて終わらせる。あの子が私の喉笛を、食いちぎる前に)
――試合開始、三十秒前。