ゲヘナ学園、万魔殿執務室。
「……出させる為のサブプランは用意していたが、もう必要が無くなるとはな」
万魔殿議長、羽沼マコトはプロジェクターで展開された映像を眺め、冷めた口調で呟いた。
映像にはアスレチックスタジアム、その中に出現した「セトの腕」の静止画像が浮かび上がっている。
元よりヒナを出場させての試合の意図は、相対するイツキにこれを呼び出させる為のものだった。
これに崇拝と変わらぬ執着を抱く輩を、此方が用意した盤面で炙り出す為の。
「サツキ、現場の首尾はどうだ?」
マコトがそう言って目を遣った執務用机の1つで、複数のPCを含む情報端末を操作する長身の少女がいた。
一対の赤黒いねじれ角を生やし、桃色の髪は左右の肩口から腰まで流れている。
豊満な胸元に態と誘うように前を開けられた服と、己へのやましい視線を逃さず手玉に取りそうな鋭い眼差し。
角と尻尾の生えた者が多いゲヘナ生徒の中でも、一段と女悪魔らしい妖艶な容姿である。
「もう少し時間が欲しいわねえ。……けれど、観客がそれほど多くないお陰で、第一段階は超えたわよ」
情報部長、京極サツキはその尊大そうな外見と真逆の、ゆったりとした口調で報告した。
「現場の観客、スタッフ関係者諸々……アレに干渉し得る位置にいる皆の素性は全て割れたわ。今はアレに関心を向けていた者達を選別しているところね。現場の議員も、その為に頑張ってもらってる所よ」
あちらさんにバレても構わないなら、もっと早く動けるんだけどねえ? と囁くように付け加える。
「その調子で頼む。急く必要はない。――急いて、仕損じるわけにはいかん」
「……マコトちゃん」
親しみを込めた呼び方をする仲であるサツキには、一見冷徹な生徒会長としての居住まいを崩さない彼女の事を容易に見透かせていた。
言葉と裏腹に、気が急いた感情を必死に押し殺していることが。
「頭を失った残党だからとこれまで泳がせていたが、一網打尽に出来る時が来たとなれば話は別だ。……我々の後始末を、イブキに……次世代に、押し付けるなど言語道断」
失敗すればより奥深くに潜伏され、イブキが自分達の立場になる頃に再び暗躍されるかもしれない。
この場に居ない生徒会の一員、皆が溺愛する天才少女の天真爛漫な笑顔をマコトは思い浮かべる。
これが何のための戦いか、今一度決意を改める為に。
「ええ。泥を被るのは、私達だけで沢山よ」
スクリーンの上に踊る膨大なテキストを捌きながら、サツキはやや声を強張らせて相槌を打つ。
再び仕事に専念しようとしたサツキは、この後続くとは思っていなかったマコトの言葉を耳にした。
「今の変わり果てたヒナを、私は到底認める事など出来ない」
呼吸音と変わらぬ囁きのようなその声は、まるでなにかに疲れ果てた弱音のようであった。
「だが、あの日ヒナが"宣教師"を、」
「風紀委員長が手を汚した責任は、私達皆のものよ。マコトちゃん一人が抱える事じゃないって、言っているわよね?」
明らかに遮ろうと被せられたと分かるサツキの声。
そこに滅多なことで声を荒げはしない彼女の静かな怒気を感じ取り、マコトは目が覚めたように声色を元へ戻す。
「……そうだったな。ああ、分かっているともさ。だが、撃鉄を上げたのがこのマコト様であったなら、もう少しマシな……」
この期に及んでまた口を滑らせたと自覚したマコトが、唇を閉じ歯を食いしばる。
「……すまない、たらればを言っている場合では無いな。計画を進めるぞ」
そう謝罪して見つめるのは、最も大きく映し出された「親善試合」で膠着状態となり対峙する二人の光景。
例えヒナでも、通常業務で相手取る有象無象のように容易く制圧はできない。
事前の情報収集でそれは分かっていて、織り込み済みで今まで動いてきた筈だった。
だが、いざ始まってみればヒナは早々に片翼を折られ、イツキは無傷でないとはいえ健在。
とてもどちらかに一方的な試合とは言えず、勝負の行方も未だ見えない。
(お前は役割を果たしたぞ、空崎ヒナ。もう長引かせなくてもいい)
セトの出現を誘う目的で、ヒナが手加減をしていたわけではないのは分かっていた。
例え目的を果たせない一瞬の決着になったとしても、ヒナは最初から全力で叩き潰しにかかった筈だ。
この状況の想定は出来ていた筈なのに、冷静でいられない自分がいる。
(ミレニアムの狂人一匹如き、お前なら容易く屠れる筈だ……いつまで、怠惰を気取るつもりなんだ)
本当は自覚出来ていた。
代えが利かない切り札として、ヒナを頼りにしていること。
贔屓のヒーローの勝利を信じる子供のような自分を。
その自分を、今のヒナを認められないもう一人の自分が否定することの繰り返し。
どちらにも振り切ることが出来ない己への苛立ちばかりが膨らみ、嫌がらせとなってヒナや彼女を慕う者たちの集う風紀委員へと吐き出される。
こんな事を続けても、例えば理不尽な仕打ちに対する憤りから、あの時のヒナが戻って来ることなどない。
そう頭では分かっていて、マコトは大人げない八つ当たりを止められずにいる。
権力欲に憑かれたトラブルメーカー、そう振舞ってばかりいる彼女のそんな複雑な内面を知る者は、長い付き合いであるサツキを含めても数えるほどしかいない。
(マコトちゃんも、――恐らく、空崎ヒナも。この私も。あの日から私達の時間は、ある意味で止まったままになってしまった)
思い出したくもないのに、サツキの脳裏にはあの日の光景が、音や匂いすらも含めてこびりついている。
震える手で、紫煙の上る銃を握りしめ立ち尽くす少女。
彼女の足元に広がる、自分の角とよく似た色の水。
その中心に四肢を投げ出し倒れ伏す、ゲヘナ制服姿の少女――