だから今日はまだ、私の世界は終わらない。
大好きな君が幸せならわたしも幸せだよ!
そんな頭お花畑という言葉がまったく過言ではない女の愛情が、まさか世界を滅ぼすことになるなんてきっと誰も予想していなかっただろう。
だってその愛情の矛先にいた私でさえ、想像もしていなかったからだ。
「君が幸せになれない世界なら、わたしはいらないな」
いつも馬鹿みたいにけらけら笑っていた幼馴染は今日も変わらない笑みを浮かべて、そんな風にひどいことをのたまった。まるで世界の終わりみたいに真っ赤な空の下。植物も育つことができない黒の荒野を踏みしめて。
冗談だと聞き流すことはできなかった。だってこの子はそう言ったなら本当にそう思っている。嘘をつけない子なのだ。
「ばかね。リチカは。幸せよ、私」
我ながら感心するほど、答えた声はちっとも震えなかった。だって私は彼女と違って噓をつくのが得意だったから。なのにその嘘は一刀のもとに切り捨てられる。
「わたしは馬鹿だけど、それが嘘だっていうことくらいわかる。わかっちゃうんだな、これが」
にこにこと笑う少女リチカは血まみれだった。自他の区別もつかない量の血と汚泥と土煙に汚れて、それでもなおその紫いろの瞳は溌溂とした光を宿していた。
血まみれなのは当たり前だ。ここは魔物の群れのその中心。私のもとに辿り着くためにはきっと100や200では桁が足りないくらいの魔物を屠ってこなければならなかっただろう。
リチカが払った犠牲を考えるとくらくらとめまいがして、今にもその場に倒れてしまいそうだった。
私がここにいて無事なのは、この身体にかつての魔王の魂が、小さなかけらとはいえ眠っているからで。
そうしてその魂のかけらが2度とよみがえることのないよう、聖なるひかりによって焼き尽くされるために、歩いてきたのだ。
この”おわりの地”へ。少しでも多くの魔物を引き付けて。
もうじきここには流星が降る。そういう風に決まっている。なのに。
「なんでこんなところにいるの」
「なんでって、一緒にいたいからだよ」
「どうして、あきらめてくれないの」
「どうしてあきらめろなんてひどいこと言うの? ──ねぇ、スゥちゃん」
話をする無防備な背中を狙って飛び掛かる魔物を大斧で文字通り片手間にさばきながら、リチカは私の手を取った。
ごつごつした鱗に覆われた手が胼胝の目立つこどもの手に、昔と同じように優しく握られ。かと思うと彼女は私を軸にぐるぐると回りながらステップを踏み始める。
「世界のために死のうとなんてしないでよ。スゥちゃんがいない世界なんてわたしにとっては星のない空とおなじだ」
「それでも、月も太陽も空にはあるわ」
「星のない空には希望がないよ」
びっくりするくらい即答だった。しかも、しごく当然という顔をしてそう返される。その躊躇のなさが怖かった。生まれたばかりの赤ちゃんの方がまだ、ためらいというものを知っている。
私の手をとってくるくると踊る少女の姿は、もう片方の手に握られた斧を除けば、村で過ごした日々で飽きるくらいに見たそれと変わらない。
色の抜けた茶色の髪。菫の花みたいな紫の目。手入れが面倒だと言いながらも伸ばされていた髪は今はところどころ不揃いに切り裂かれている。
けれどその姿は、この短い旅の途中、私がずっと見たかった姿だった。
もう一度、なんて望んでしまったからこんなことになってしまったのだろうか。
でも、だって、仕方ないじゃないか。つい半年前まで私は、私たちはただの小さな村の村娘だった。この胸の下に魔王の魂のかけらなんてものが眠っているとわかるまでは。
「あのね、大好きな君が幸せならわたしも幸せだよ」
いきなり回ることをやめたリチカのせいで、おとなしくぐるぐる回されていた私は急に止まることができなくてたたらを踏んだ。そうやってバランスを崩した体を引き寄せられて抱きしめられる。
「やめて!」
慌てて突き放そうとした。のに、思いのほか強いちからで抱きしめられていたせいで身動きがとれない。あるいは、体が魔物に変わり始めてから全力を出すことが怖くて、満足に力を入れることができなかったということもあるかもしれない。
「だから、君が幸せじゃないならわたしはさびしい」
「幸せ、とかどうだっていいじゃない……世界が滅んじゃうんだから」
「いいじゃん、別に。世界なんて滅んじゃってもいい、そう思おうよ」
「思えないわよ!!」
「えーーー?? だってスゥちゃんが死んだら君の世界は終わっちゃうじゃんか。一緒だよ。そうして、スゥちゃんがいなくなったら、あー想像したくもなかったけど……わたしの世界も終わるんだ。生きていても、いや──希望のない世界で息をすることは生きるって言えるのかな」
「そ、んなことない……っ! 希望なんていくらでも見つかる、私が死んだって、あなたの世界は続くの!!!」
「続かない。君が旅に出てから、たくさんたくさん考えたんだよ。わたしなりにね」
リチカは、笑っていた。いつもみたいに、村で見せてくれていた笑顔とまったく同じように。
怒ったり泣いたり、とにかく普通じゃなく取り乱してくれていた方がいくらもマシだと思った。いつものリチカにそういうことを言ってほしくない。
世界が滅んでもいい、なんてそういう悪者みたいなことを。でも、もうそんな言葉は間に合わないんだとわかってしまった。
「あんね、朝起きて、まず最初にスゥちゃんにおはようをするでしょ。ご飯食べたら一緒に羊のお世話とか畑のこととかして、まぁこっそりさぼって昼寝なんかしちゃうよね、それで夜ごはん食べておやすみなさいを言って、寝て起きたらまた変わらない明日が来る。どれだけ考えたってこれ以上の幸せって、なかったよ。なかったんだ」
そんなの、私だってそうだった。
死ぬことをちゃんと受け入れられるように、村を出てしばらくのあいだは夢みたいな暮らしをさせてもらったのだ。これまで魔王の魂のかけらを持ったひとみんながそうしてもらっていたように。豪華なご飯を食べさせてもらった。きれいなドレスを着せてもらった。村ではできないような贅沢な暮らしだった。
でも、そんなのはぜんぜん幸せじゃなかった。
「わたしにとって生きるっていうのはスゥちゃんと一緒にいることだ。だって離れたら死んじゃったからね。だからここまで来れたんだよ、一回死んだらなんだってできたんだもん」
あたりはすっかり死屍累々で、魔物たちも同属の死骸を恐れてか近づいてこない。その様子を見てもリチカは大斧を離さなかった。血まみれのそれをいつ何時でも振るえる姿勢を崩さない。この子はそういう風に成ってしまったのだ。
「それで、スゥちゃんはどう? どうだった? ここに来るまで何を考えた? 誰を考えて、こんな世界の果てまで歩いたの?」
それ、を言うつもりは神様に誓って、なかった。だって言ったら終わりだったからだ。
「…………あなたよ」
だけど、こちらをまっすぐ見つめるすみれ色の瞳に、私はいつだって勝てない。
他の誰でもないリチカに幸せになってほしかった。村という小さな小さな世界で、私の全部は彼女だった。
魔王の魂のかけらが私を魔王に変えてしまう前に。その日が来るまでにちゃんと死のうって決められたのは、顔も知らない世界中の誰かのためじゃなくて。
いま目の前にいるたったひとりの友達に生きていてほしくて、ただそれだけのためで。
私がいなくなった世界だとしても、そこにリチカがいるなら続いてほしかっただけだった。
「あなたに、しあわせになってほしかっただけ」
「知ってたよ。でもごめん、それだけはどうにも叶えてあげられそうにないんだ」
眉を下げて笑う顔はなんだか少し寂しそうだった。そんな風に笑う彼女を私はたぶん初めて見た。黒い荒野に風が吹いて、リチカの髪を揺らしていく。
「だから、一緒に世界の終わりを見に行こうよ。どうせなら特等席でさ」
「…………いいの?」
「うん」
わかっている。きっと今日ここで聖なるひかりから逃れたってそう遠くないいつかの日に追いつかれる。それに、私の体はもうほとんど魔物に変わってしまっていて、もしかしたら頭の中や心でさえ吞まれてしまう日が来るのかもしれない。
でも、どうせ私の世界が終わるならそのときは隣にリチカがいてほしい。
だから、それでもいい、と思ってしまったからこれは私の負けなのだ。
「スゥちゃん。わたしたち一緒にいようね、ふたりでいようね」
そしたらそれ以上ってないでしょ?
思えば、この大馬鹿ものの幼馴染に私が勝てたことなんて、これまで一度だってなかったのだった。