……いよいよ、この日がやってきた。
今、私の目の前にはトレセン学園の重厚な門構えがそびえ立っている。朝の光を受けて輝く校舎、その前をウマ娘たちが駆けていく姿は、まるで非日常の中にある日常のようだった。
周囲の空気はいつも通り、軽やかに流れている。でも、私の胸の内だけがざわついていた。普段なら流されるままぼんやりしている私も、さすがに今日ばかりは緊張している。目に映るものすべてが、どこか遠く感じられた。
——今日が、用務員採用試験の面接日だ。
「落ち着け、私。いつも通り、いつも通り……」
そう口にして、胸に手を当てる。ゆっくりと息を吸い、そして吐く。
呼吸のリズムを取り戻すたびに、頭の中に浮かぶのは、出会ってきた彼女たちの顔。
彼女たちと交わした、たわいもない言葉や、どこかでそっと結ばれたような約束たち。どれも、私の中ではもう「大事なもの」になっていた。それを裏切るなんて、絶対にできない。
(よし……)
意を決し、私はゆっくりと足を踏み出した。今日ばかりは、正門から——堂々と入ることにした。
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(えーっと……受付はどこだっけ)
きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、壁に目立つ張り紙が貼られているのが見えた。
『トレセン学園 各種採用試験受付はあちらまで!→』
ありがたいことに、めちゃくちゃ親切な案内だった。
張り紙に従って歩いていくと、少しずつ視界に広がる学園内の光景が、以前よりも賑やかに感じられた。
(……気のせいかな。なんか、前に潜入したときより人が多い……)
もしかして……この人たち、みんな用務員志望だったり……?ありえなくはないけど、そんなに人気の職種だっけ。
ちょっとした不安を抱きつつ、案内の通りに歩いていくと、ほどなくして受付会場に到着した。想像以上に人がいて、いろんな列がずらっと並んでいた。
(えーっと、私は用務員志望だから……)
視線を走らせると、「トレーナー志望」「教員志望」「警備員志望」など、各職種ごとに列が形成されている。そんな中で、ようやく見つけた「用務員志望はこちら→」の案内。
(あった!用務員志望の方はこち……ら……?)
……ん?
他の列はどこも混雑しているというのに、用務員志望の列だけ、やけに——いや、誰も並んでいない。
肩透かしを食らったような気分で、ぽつんとその列に並ぶ。当然、次の瞬間にはもう私の番になっていた。
「えっと……用務員志望の、佐藤鈴理です……」
受付の人に名前を伝えつつ、鞄から運転免許証を取り出して差し出す。
「はい、ありがとうございます。こちらの受験票をお持ちになって、張り紙の案内に沿って待機室までお進みくださいね」
手際よく免許証と受験票を交換され、私はそれを両手で受け取る。……おお、受験票ってなんかこう、かっこいいな。
ちょっとした緊張感が、ようやく実感に変わってきた気がする。
受験票を手に持ち、軽く見つめながら歩を進める。ふと気になって後ろを振り返ると、さっきと変わらず、用務員志望の列には誰一人として並んでいなかった。
(……ていうか……)
もっとよく見てみたら、さっき対応してくれた受付の人も、もうその場にいなかった。
……え? まさか、私で最後……?
不安になって腕時計を見れば、現在時刻は朝の8時半。面接は10時からだから、時間的にはまだまだ余裕がある。
——なのに、誰もいない?
私の胸の奥に、ひとつの考えがよぎる。まさかとは思うけど……でも、その「まさか」が現実味を帯びていく。
バクバクと高鳴る鼓動を抑えながら、待機室のドアをそっと開けた。そして、目に映った光景に、私は静かに言葉を漏らす。
「……やっぱり、誰もいない……」
悲報:今年度のトレセン学園、用務員志望者、わずか1名。
(……マジか……)
肩を落とし、頭を抱えながら待機室の椅子に沈み込む。列に誰もいない時点で予想はしていたが、改めて目の当たりにすると、なんとも言えない気分になる。
……まあでも、冷静に考えればライバルがいないってことは、合格率100%ということでは?いや、そもそも比較対象がいないから「率」ですらないかもしれない。
私は思わず脱力しながらスマホを開いた。画面には、メッセージアプリの未読通知がひとつ。
(誰だろう……)
通知をタップすると、真っ赤なスポーツカーのアイコン。マルゼンスキーからのメッセージだった。
『おはようスズちゃん!採用試験は今日かしら?スズちゃんなら大丈夫よ!ファイト~♪』
……ふふっ。彼女らしい明るさと気遣いが、文章からも伝わってくる。
それだけで、すっと肩の力が抜けていくのを感じた。不思議と元気が湧いてくるのは、マルゼンの声を思い出したからだろうか。
(……でも、私、マルゼンに用務員試験の話って……してたっけ?)
いつの間にか知ってくれていたことに驚きつつも、どこか嬉しい。こういうのって、ほんの些細な気遣いのはずなのに、どうしてこんなにあたたかいんだろう。
『ありがとう。頑張るね』
短く返信を送る。友達からは「塩対応」と評されるけれど、私にとってはこれが普通だ。むしろ、伝えたいことが凝縮された良い文章だと思うんだけどな。
スマホを閉じ、時計を見れば、時刻はまだ9時。面接開始までは時間がある。
何があるかわからない面接に備えて、今のうちに心と頭を整えておこう。
大丈夫。私は——ちゃんと、ここまで来たのだから。
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(……そろそろ、かな)
時計の針は、9時50分を指していた。私は姿勢を正し、改めて背筋を伸ばす。心なしか、空気が一段と張りつめたような気がした。
もしかしたら、この沈黙もすでに「面接」の一部かもしれない。そんな気がして、思わず手のひらに力が入る。
——ガララッ。
突然、扉が開く音が響いた。私はびくりと肩を震わせ、反射的に音の方を振り返る。
そこに立っていたのは、帽子を目深に被り、凛とした眼差しをこちらに向ける小柄な女の子だった。右手には、どこか威厳を感じさせる扇子。
私はその人を知っている。彼女こそ——日本トレセン学園中央校の理事長、秋川やよいだ。
(え……理事長、本人……!?)
案内係か誰かが来ると思っていた私にとって、まさかの理事長直々の登場は、予想の遥か斜め上だった。
さらにその後ろには、前に学園で出会ったことのある職員さんの姿。落ち着いた雰囲気と緑の帽子が印象的だった彼女は、微笑を浮かべながら私を見つめていた。
「歓迎ッ! ようこそ、我がトレセン学園へ!」
「本日は、トレセン学園の採用試験にお越しいただきありがとうございます。理事長秘書の駿川たづなと申します」
理事長の快活な声のあと、たづなさんが丁寧にお辞儀をする。この堂々たるコンビに面食らいながら、私は小さく会釈を返すしかなかった。
「お久しぶりですね、鈴理さん。今日はちゃんと正門からお越しいただけて良かったです♪」
「……あー、はは……当然じゃないですか……」
顔どころか名前までバッチリ覚えられている。ちょっと気まずくて、思わず視線を外した。
「……そして、鈴理さんにご相談があるのですが……」
不意に向けられたたづなさんの言葉に、私は再び視線を戻す。
(相談……?)
「鈴理さんもご存じの通り、今回、用務員試験の面接を受けに来たのは鈴理さん一人のみです」
(……やっぱり、私だけだったんだ)
「もちろん、書類選考の時点では、用務員枠にも多数の応募者がいました。しかし、多くの方々が“高待遇”や“ブランド力”に惹かれただけで、ウマ娘たちへの熱意はほとんど感じられませんでした」
その言葉に、私は自然と背筋を伸ばす。
「そんな中、鈴理さんの応募書類からは、ウマ娘や学園に対する純粋な興味と、地道な作業への誠実さが滲み出ていました」
「称賛ッ! 鈴理用務員の志望動機は、マニュアル通りの薄っぺらな文章とは一線を画していたッ!」
(……ええと、それってつまり……)
「——そこで今回、特別措置として、鈴理さんの用務員面接を免除とさせていただきます」
「………え?」
「適任ッ! 鈴理用務員の人間性ならば、安心して我が校の用務員を任せられると確信している!」
……あれ。えーっと。つまり、これは——
「合格ッ! トレセン学園中央校は、佐藤鈴理を学園の正式な用務員として雇用することを、ここに誓うッ!」
「詳細な手続きについては、後ほどメールでご説明いたしますね」
怒涛の展開に、私の思考は完全に停止した。これが、学園のスピード感……?
でも、それでも——確かに、私は今、言葉としてそれを聞いた。
(……私、トレセン学園の、用務員になるんだ……)
ふわふわとした実感のない浮遊感の中で、私の視界には、微笑みをたたえた理事長とたづなさんの顔があった。
「それでは、私たちは引き続き、採用試験の業務に向かいます。鈴理さん、お疲れさまでした」
そう言って、二人は扉へと向かう。その途中でたづなさんが振り返り、やわらかく声をかけてくれた。
「この後はご自由にしていただいて大丈夫ですよ。学園の散策も、もちろんOKです♪」
「用務員ですからね」と、冗談めかして言いながら彼女は扉を閉めた。
(……そうか。私が、用務員か……)
まだどこか現実感がないけれど、でも、確かに私は選ばれた。
だったら、やるしかない。期待に応えられるように。
「……引き続き、頑張ろう……!」
小さく呟いて、私は新たな決意を胸に、待機室の扉を開いた。
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……とはいえ、嬉しいものは嬉しい。形は違えど、幼い頃に憧れていた“トレセン学園で働くこと”という夢が、今こうして叶ったのだから。
(……顔には出てないけど、めちゃくちゃ嬉しい)
そんなことを思いながら、私は学園内をふらふらと散策していた。
(トレーナーの採用試験は午後から、か……)
掲示板には、今日の採用スケジュールが記載されている。トレーナーは筆記試験もあるらしい。書類審査に面接に筆記って、まるでフルコンボだ。用務員に筆記試験がなくてよかった……。
(……お腹、空いたな)
時刻は11時前。昼食にはまだ少し早いけれど、せっかくだし先に食べておこう。今日は前回利用したカフェテリアではなく、別の場所——学園食堂に向かうことにした。
カフェテリアはキャッシュレス専用だったけれど、食堂は現金もOKらしい。時代の波に乗れていない私には、こういう場所の方がありがたい。
「……けっこう混んでるな」
平日も休日も関係ないウマ娘たちに加え、今日は採用試験もあるせいか、学園全体が賑わっている。
人の波を縫うようにして、私は列に並んだ。
ショーケースに並ぶ食品サンプルの数々はどれも美味しそうで、自然と目移りしてしまう。
でも今日は決めていた——私の好物、うどんにしようと。トッピングはもちろんマシマシで。
運ばれてきたうどんは、見るだけで幸せになれるボリュームだった。ネギ、天かす、おろし生姜、えび天にごぼう天。
まさに“今日の自分”をねぎらうための、ささやかな贅沢。
食券を手に会計を済ませた私は、空いている席を探した。カウンター席はすでに満席。テーブル席もほとんど埋まっていたが——
(……あった)
食堂の隅に、二人がけのテーブルがひとつだけ空いているのを見つけた。うどんをこぼさないよう細心の注意を払いながら、私はその席へと急いだ。
「よし……」
無事に席を確保し、私は手を合わせてからうどんをすすった。
コシのある麺と、旨味の詰まったつゆ。天ぷらはサクサクで、どこを食べても手抜きのない味。
さすが、天下のトレセン学園。こんなうどんが学食で食べられるなんて……ここに就職して本当に良かったかもしれない。
どんぶりの三分の一ほどを平らげた頃、ふと顔を上げる。時計は12時を指していて、食堂はほぼ満席だった。——早めに来ておいて、本当に正解だった。
そんなふうに思っていた矢先。トレーを持った女の子がひとり、私の席に近づいてきた。
(……え?)
彼女は迷いなく私の前に立ち止まり、瞳をまっすぐこちらに向ける。
「すみません、相席してもよろしいでしょうか…?」
……どうしてわざわざここに? 空いている席は他にもあるのに。
でも、特に断る理由もない。
「……うん、いいですよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべて、彼女は私の正面に腰を下ろす。……知らない人との相席なんて、慣れてないからちょっと緊張する。
彼女は、紺色の髪をヘアピンで留め、後ろで小さく結ったポニーテール。どこか礼儀正しくて、でも近寄りやすい雰囲気をまとっている。
「すみません!もし差し支えなければ、お名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
(……グイグイくるな、この子……)
「……佐藤鈴理。スズって呼んでいいよ」
「……!! 分かりました、スズさん!私は桐生院葵といいます!」
名前を名乗っただけで、ぱあっと嬉しそうに笑う彼女。桐生院——どこかで聞いたことがあると思ったら、そうだ。
(桐生院家……トレーナー界の名門)
まさか、こんなところで出会うなんて。
「スズさんも、トレーナーの試験を受けに来たんですか?」
「ううん。私は用務員の試験。……さっき終わっちゃったけど」
「用務員!裏からウマ娘たちを支える職種に就くなんて、素晴らしいです!」
まっすぐな瞳と、純粋な言葉。彼女のまとう空気は、まるで太陽のようにきらきらしていて、まぶしい。
「……じゃあ、桐生院さんは今から面接?」
「はい。私は第二グループなので、まだ時間はありますが……やっぱり緊張しますね」
頬をかきながら笑う仕草が、自然体でかわいらしい。ああ、この子は本当にいい子なんだろうなって、すぐにわかる。
ちゅるん、と最後のうどんをすすりながら、私はふと思った。今日はもう帰ってもいいけれど、せっかくだし、もう少し学園を歩いてみてもいいかもしれない。……というか…
「……桐生院さん、なんでずっと私の顔見てるんですか」
「……えっ!? ああ、すみません!お顔が可愛らしいなーっと、つい……」
(またか……この学園の人、距離感おかしい……)
つゆをすすりながら、顔がほんのり熱くなるのを自覚する。私は、つゆも全部飲む派だ。
そしてふと彼女の手元に目をやると、料理が綺麗さっぱり消えていた。……早すぎる。
「…ちなみにスズさんは、この後予定などは……」
「……ないけど」
そう答えた瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなって、私の手をとった。
「もしよろしければ、試験までの間、私の面接練習の相手役になってくださいませんか?」
「……私、面接官の役とかやったことないけど」
「全然構いません!むしろスズさんだからいいんです!」
あまりに無邪気でまっすぐな瞳に、私はつい微笑んでしまった。褒められて悪い気はしない。
だから私は、彼女の頼みを聞き入れて——ラウンジへと、ふたり並んで歩き出した。
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「……なぜ、トレセン学園のトレーナーを志望しましたか?」
「私がトレセン学園のトレーナーを志望する理由は——ウマ娘の秘めたる可能性を最大限に引き出し、トゥインクル・シリーズという最高の舞台で輝かせたいという、強い情熱があるからです。貴学園は……」
「あなたの専門分野で、ウマ娘の育成にどう貢献できますか?」
「私の専門分野は、スポーツ科学におけるバイオメカニクスです。この知識を活かし、走行フォームを詳細に分析。個々の骨格や筋肉の特性に応じて、より効率的で、かつ故障リスクの低いトレーニングを設計できます。また、最新の……」
目の前で凛とした声を響かせているのは、桐生院葵さん。現在私は、学園内のラウンジで彼女の面接練習の相手役を務めていた。
彼女が持参した『トレーナー白書』とやらの分厚いノートを頼りに、私はそこから順番に質問を投げている。
それにしても……質問の予想パターン、多っ。しかも、彼女の回答が模範的すぎる。まるで教科書を読み上げるような完璧さだ。
「凄いね、桐生院さん。バッチリだよ」
「ありがとうございます! これもスズさんのおかげです!」
(……いや、完全にあなたの努力の賜物だよ)
ツッコミたい気持ちは山々だが、訂正するのも面倒だし、彼女のテンションに水を差すのも忍びなくて黙っておいた。
ただ——この“模範的すぎる”回答の数々に、私は少しだけ引っかかっていた。
(……理事長の秋川さん、どう考えても普通の面接じゃないこと聞いてきそうなんだよな……)
ついさっき、自分も理事長の“イレギュラー采配”を受けた身だ。その経験があるからこそ、型通りすぎる受け答えには一抹の不安が残っていた。
「次の質問をお願いします!」
「……おっけー。じゃあ、ちょっと変化球……」
私はノートを閉じて、少し意地悪な笑みを浮かべる。
「もし、あなたがウマ娘として生まれ変わるとしたら——どんなウマ娘になりたいですか? 理由も添えて、どうぞ」
我ながら意表を突いたアドリブ質問だった。
(これならさすがに動揺するでしょ……)
「もし私がウマ娘として生まれ変われるとしたら、“多くの人々に夢と希望を与える、唯一無二のエンターテイナーウマ娘”になりたいと願います。理由は二つあります。一つ目は——」
……返ってきたのは、驚きの即答だった。むしろ私の方が驚かされている。彼女の笑みは柔らかく、それでいてどこか誇らしげで。
「ふふっ、分かってますよ、スズさん」
「……え?」
「確かに、“トレーナー白書”を万能視するのは、良くないと思います。でもだからこそ私は——トレセン学園のトレーナーとして、“私のトレーナー白書”を作りに来たんです」
彼女の言葉には、真っすぐな強さがあった。私が少しだけ不安に思っていたことを、ちゃんと彼女は見透かしていて、そしてもう答えを出していた。
「心配してくださってありがとうございます、スズさん♪」
……恥ずかしい。
すごく、恥ずかしい。
(なんか、見透かされてる……)
ぽつりと視線を逸らす。心の奥がくすぐったくて、妙に落ち着かない。
「……あっ、そろそろ時間です!」
時計を見ると13時少し前。第二グループの面接まではあと40分。そろそろ向かう頃合いだ。
「じゃあ、そろそろお別れだね。桐生院さん」
「……はい。……良ければ、その……」
…ああ、分かる。彼女が言いかけた言葉の続きを、私はもう予測していた。
無言でスマホを取り出して、友達追加の画面を開く。
「……!!! ありがとうございます! 初めて、同年代の友達ができました!」
嬉しそうに目を輝かせる彼女の顔を見て、私は少しだけ驚く。
(……今まで、友達いなかったんだ)
それだけ厳しい環境にいたのか。トレーナー界の名門・桐生院家。その重圧は、私にはきっと想像できない。
「……いつでも連絡していいからね」
彼女の背を見送りながら、私は静かに呟いた。
(受かってるといいな……いや、きっと受かる。あの子なら、大丈夫)
(……昼寝でもしようかな)
やることがなくなった私は、以前スカイに教えてもらった“お昼寝スポット”へと足を運んだ。芝生の上は柔らかく、ほんのり温かい。
(スカイは……いないか)
休日だからなのか、彼女の姿はなかった。少しだけ期待していたけど……まぁ、仕方ないか。
ごろん、と寝転がると、思っていた以上に体が重かった。確かに、面接の緊張や学園内の散策で、それなりに疲労が蓄積していたのだろう。
(……桐生院さん、受かってるといいな……)
そんなことを考えながら、私はゆっくりと意識を手放した。
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ブブブ……ブブブ……
(……ん、着信……?)
ぼんやりした頭を擦りながらスマホを手に取り、画面を確認する。
「スズさん! 試験、合格しましたー!」
テンション高めの声が、耳元で弾けた。
さっきまでの眠気が一気に吹き飛ぶ。……ふふ、やっぱり合格したんだ。
「……まだ学園内にいる? 合流するよ」
「はい! 昼に使ったラウンジにいます!」
了解。そう返して、私はのそのそと立ち上がり、軽く背伸びをしてからラウンジへ向かった。
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「スズさん!」
ベンチに座っていた彼女は、私の姿を見つけるなり駆け寄ってきた。そしてそのまま、私の胸元に飛び込むように抱きついて——顔を、そっとうずめた。
「……私の家系は、代々トレーナーの名門で……落ちてしまったらどうしようって、不安で……すごく、怖かったんです」
彼女の声は、いつになく小さく、震えていた。普段は完璧に見える彼女にも、こうして陰の部分がある。そう思うと、なんだか少し愛おしかった。
「……お疲れ。よく頑張ったね」
私は彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。ふわふわの髪が指の間を滑っていく感触が心地いい。
胸元から「えへへ……」という声が漏れてくる。気に入ってもらえたようで何よりだ。
「……それで、スズさんはこれからどうするんですか?」
彼女はまだ私にくっついたまま、今度は上目遣いで問いかけてくる。……声の振動が直接胸に響いて少しくすぐったいんだけど……、まあ、いっか。
「……まあ、電車で家に帰ろうかなって」
私がそう答えると、彼女はパッと顔を明るくし——
「では!私がスズさんの家までお送りします! 面接練習のお礼も兼ねて!」
(……送迎か)
正直、それはかなり助かる。会場まで来たのは徒歩+電車+バスの合わせ技だったし。
「……じゃあ、お願いしていい?」
「もちろんですっ♪」
そう言って、彼女は嬉しそうに案内してくれた。
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「それじゃあ、出発しますね?」
「……お願いします」
彼女が慎重に左右を確認し、アクセルを静かに踏み込む。人が運転する車で助手席に乗るのはあまり得意じゃないのだけど……彼女の運転は驚くほど丁寧で、スムーズだった。
「……運転、上手だね」
「えへへっ、ありがとうございます。今度はスズさんの車にも乗せてくださいね!」
「……機会があればね」
そんな他愛もない会話をしていると、再び眠気が襲ってきた。さっき寝たばっかりなのに……
私が頭をうつらうつらさせていると、それに気づいた桐生院さんが、そっと優しく、私の頭を自身の肩へと誘った。
「眠っていていいですよ。私が、そばにいますから」
彼女の言葉が聞こえた瞬間、私の脳は限界だったのか、喉から『あうぅ……』と情けない声が漏れ、そのまま桐生院さんの肩で深い眠りに落ちた。
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気がつけば、私は自室のベッドで横になっていた。
(……運んでくれたんだ、わざわざ)
スマホを手に取り、彼女に感謝のメッセージを送る。通知欄には、学校の友人や、ウマ娘たちからのメッセージも溜まっていた。私は眠気を振り払って返信を済ませる。
現在時刻は22時。朝の面接から、もう半日以上が経っていた。
私はふと、ベランダへと出て、夜空を見上げた。
都会の空に星はほとんどない。けれど、その“何もない”空が、妙に心を落ち着けてくれる。
「……そろそろ寝よう」
私、佐藤鈴理は——トレセン学園の、用務員である。
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あの日の私を、私は忘れられない。
まっすぐで、すこし眠たげな瞳。言葉は少ないのに、気づけば視線で導いてくれる人。
最初に見たその背中は、誰よりも静かで、でも——誰よりもあたたかかった。
「……スズさん」
その名前を呼ぶだけで、胸の奥がきゅうっとなる。
たくさん空いていたはずの席。けれど私は迷わず、彼女の前に立っていた。——食堂で彼女を偶然見かけた時から、その姿が目に焼き付いて忘れられなかった。
「私の名前は、桐生院葵です!」
そう名乗ったとき、彼女が少し笑ってくれたのが嬉しくて。私は、あの表情をずっと心にしまっている。
――こんなふうに誰かのことを、想ったことなんてなかった。
スズさんは用務員志望だと言っていたけれど、そんなことは関係なくて。言葉の端々からにじむ、ウマ娘への優しさと真っ直ぐさに、私はどんどん惹かれていった。
「……なんでずっと私の顔見てるんですか」
そう言われたとき、胸が跳ねた。
だって、見ていたかったから。見ずにはいられなかった。
視線を逸らしたくないって、思ってしまったから。
「……お顔が、可愛らしいなって思って……つい」
正直すぎたかなって思ったけれど、後悔はしなかった。だって、それが本音だったから。
一緒に面接練習をしてくれたラウンジ。あの時間は、私にとって宝物だった。
我儘なことを言った私に、ちゃんと付き合ってくれて。不安な私を、隣で静かに見守ってくれて。私にアドリブの質問を投げかけた時、ちょっと得意げな顔をしていたのが、かわいくて、かわいくて。
(……ずっと隣にいてほしいな)
なんて、思ってしまったのは秘密。
「……いつでも連絡していいからね」
その言葉が、まるで魔法みたいで。胸の奥がぽっと熱くなるのが分かった。
面接を終えたあと、真っ先に電話をかけたのは、彼女だった。
「スズさん!試験合格しましたー!」
声を聞くだけで、あったかくて。ほっとして、思わず涙がにじみそうになった。
合流して、我慢できずに胸に飛び込んだとき——スズさんの手が、私の頭にそっと触れた。
「……お疲れ。よく頑張ったね」
優しくて、あたたかくて、もっと近づきたくて、触れていたくて。
そのまま、離れたくないと思ってしまった。
帰り道、彼女を助手席に乗せてハンドルを握る。彼女が安心したように眠ってくれるのが、嬉しくて、誇らしくて。私に任せてくれたんだって思うと、胸がきゅんとする。
そっと、彼女の頭を自分の肩へ。
「眠っていていいですよ。私が、そばにいますから」
……本当は、“ずっとそばにいたい”って言いたかったけど。それは、まだ今は早いかもしれないから。
夜、自室に戻ったあとも、彼女のぬくもりがずっと残っている。
スマホを開く。彼女からの「ありがとう」という短いメッセージが届いている。
ただ、それだけなのに。
(……好き)
ようやく、はっきりと気づいた。うどんの向かい側にいた、あの人を。
やさしい声で、何気ない言葉を返してくれた、あの人を。
私はもう、どうしようもなく、好きになっていた。
「また会えますように」なんて、願うだけじゃ足りない。私はこれから、あの人の隣に並べるように——
もっともっと、頑張ろう。もっともっと、素直になろう。……いつか「好き」を、ちゃんと伝えられるように。
それまでは。この胸の中の想いを、大事に抱えて。
(私いっつも寝てるな……)