用務員ちゃん、ウマ娘に囲まれる   作:わたっくし

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第6話 お泊り

 

無事、用務員試験に合格したことを学校へ報告すると——その翌朝には、なぜか校内全体にその情報が広まっていた。

 

仲の良い友人たちはもちろん、クラスメイトからも次々にお祝いの言葉をかけられたし、終いにはまったく面識のない後輩にまで「おめでとうございます!」と声をかけられる始末だった。一体、誰がそんなスピーカー役を買って出たのだろうか。なんでこんなにも広まってるのか、正直よくわからない。

 

「スズはファンが多いからね〜」

 

隣を歩く沙月が、半分からかうように笑いながら言ってきた。ファンって何……アイドルじゃないし、ウマ娘でもあるまいし。

 

……でも、言われてみれば、以前よりも視線を感じることが多くなった気がする。スカイと一緒に学園内を歩いた時の、あのざわめきと少し似ているかもしれない。

 

「でもー、スズと離れ離れになっちゃうなんて寂しいよ~」

 

そう言いながら、今度は沙月が私に思いきり抱きついてきた。私よりも背が高い彼女が全体重を預けるように抱きついてくるせいで、私は見事に猫背になりながら歩く羽目になる。

 

「……別に、ずっと会えないってわけじゃないし。休みの日は、ちゃんと遊びに行くから」

 

ぼそりとそう言うと、沙月は「約束だからねー!」と声を弾ませて、さらにぎゅっと力を込めてきた。あの、これ以上締めつけられると……本当に、命が危ない……。

 

「あっ、教室着いちゃった!」

 

たどり着いたのは数学教室。今日の一限は数学だから、当然の流れではあるのだけれど——

 

「……うん、じゃあまたお昼にね」

 

……私は別の教室へと向かう。

 

うちの高校では、ほとんどの生徒が大学進学を前提にしているため、授業カリキュラムもそれに合わせた構成になっている。だから、進路がちょっと変わっている私は、いくつかの授業は別教室での“自習”という形になるのだ。

 

国語とか英語、あとは体育なんかは一緒に受ける。でも理科とか数学になると、私は別室で自習になる。

 

三年生になってからというもの、課題すら配布されないことも多くて、そうなるともう完全にフリーダムだ。もちろん建前としては「スマホいじりは禁止」だけど、教室には先生もいないし、正直、別室組のほとんどがスマホ片手に時間をつぶしている。私も例外ではなく、ウマ娘のレース映像を観たり、トレセン学園の歴史を読んでみたり……まあ、半分趣味、半分お勉強、ってところかな。

 

放課後——。いつものように沙月たちと帰ろうとするけれど、最近はみんな塾に通い出したらしくて、結局ひとりでの下校になることが増えてきた。

 

休日も遊び相手がいない。結局、家でごろごろしながら、気づけば一日が終わってる。

 

……こんなに前置きが長くなったけれど、つまり何が言いたいのかというと——

 

「……めちゃくちゃ、暇だ……」

 

ぽつりと呟いた声が、自分でもびっくりするほど重たかった。こんなにも、“暇であること”がつらく感じるなんて、思ってもみなかった。

 

思い返せば、ここ最近は試験に向けて猛勉強したり、いろんな人やウマ娘たちと関わったりして、日々がそれなりに充実していたのかもしれない。

 

せっかく、用務員としての一歩を踏み出したのに、ただのんびりしているだけじゃ、なんとなくもったいない気がしてきた。

 

何か、しなきゃ。何か、新しいことを——。

 

そう思い立った私は……。

 

───

 

「……いらっしゃいませー」

 

コンビニで、バイトを始めた。3月になるまでのつなぎとして。

 

「いやー、スズちゃん、もの覚え早くて助かるよー」

 

「ありがとうございます。一応、経験はあるので……」

 

高校3年間のうち、私はいくつものアルバイトを転々としてきた。もちろんコンビニも経験済み。たぶん大手3社は全部踏破してる気がする。

 

今回のバイト先は、ちょっと学校から離れた場所にある「フワリーマート」。通称“フリマ”。定期的にフリーマーケットと間違われる不遇の名前だ。

 

近所のコンビニはだいたいやり尽くしたので、消去法的に少し離れたこの店舗を選んだわけだけど——今のところ、居心地は悪くない。

 

客足が落ち着いてきたので、私は弁当の品出しに向かう。こういう商品は早めに補充しておくのが鉄則だ。

 

折り畳みコンテナを開けると、弁当、サンドイッチ、おにぎり……いろいろ詰まっている。見た目以上に重量があって、持ち上げるたびに腕がぷるぷるする。

 

商品を棚に並べていく作業の途中で、ちょっと面白いパッケージに目が留まった。

 

(……トレセン学園購買部コラボ、か……)

 

笑顔で商品を掲げるウマ娘がプリントされたそのパッケージは、どこか誇らしげで、きらきらして見えた。

 

言うまでもなく、ウマ娘たちの影響力は凄まじい。国民的ヒーローとしての知名度はもちろん、そのカリスマ性やメディア露出の多さまで含めて、企業にとっては夢のような存在だ。

 

何より、彼女たちには熱狂的なファンが山ほどいる。推しのウマ娘がCMに出た瞬間、全国の店舗からその商品が消えるなんてザラにある。

 

(……まあ、私もその一人なんだけど……)

 

先日、家でぼーっとテレビを観ていたら、突然マルゼンスキーが画面に登場して、びっくりした。スポーツドリンクのCMだったのだけど、汗をかきながらゴクゴクと飲み干す彼女の姿があまりにも様になっていて、気づけば息を呑んで見入ってしまっていた。

 

そんなことを思い出しながら、最後の品を棚に並べ終えると——ふと、外の気配に目が行った。

 

窓の向こうでは、静かに雨が降っていた。あちゃー……傘、持ってきてないんだよなぁ……。

 

退勤するころには止んでくれてるといいんだけど。私は少しだけ気分を曇らせながら、品出しの続きを始めた。

 

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(……まだ降ってる……)

 

時刻は午後9時。ピークの時間帯を過ぎた店内は、嘘のように静かで、冷蔵庫の駆動音がやけに耳に残る。レジ横のポップが微かに揺れるのを見ていると、ついつい物思いに耽ってしまいそうになる。

 

今日のシフトは22時まで。あと1時間。……ラストスパート、頑張ろう。

 

密かに心の中で気合いを入れ直していたそのとき、「ピンポーン」と、自動ドアが開く音が響いた。

 

「いらっしゃいませー」

 

無意識のうちに、定型文のように口が動く。反射的に入口へ視線を向ければ──

 

……そこには、全身を雨に濡らしたウマ娘が、ひとり立っていた。

 

全身がびしょ濡れというわけではない。だが、髪先からスカートの裾まで、雨粒が確かに残っていて、誰が見ても“濡れている”とわかる程度には濡れていた。

 

(………!)

 

一瞬、声を出しそうになったが、咄嗟に飲み込む。驚いても、動揺しても、いつも通りに応対する──それが、私のバイトスキルの一つのはずだった。

 

しかし、こちらの心の動きを見透かすように、そのウマ娘はキョロキョロと店内を見渡したあと、私の方を見つけ──そして目を見開いた。ほんの一瞬のことだったが、その後すぐに口元をほころばせると、微笑みを浮かべながらレジに向かって歩いてきた。

 

……そして、レジを挟んで、私の正面に立つ。

 

「雨って、急に降るよね。特にこの季節は」

 

「……傘類は、あちらにございます」

 

唐突すぎる雑談イベントに、私の接客マニュアルは一瞬でショートした。咄嗟に傘コーナーを指さすくらいしかできない。

 

こんな接客、今までのバイト歴でも記憶にない。……初めてのパターンだ。

 

「ふふっ。面白いね、キミ」

 

彼女は軽い笑みを浮かべながらこちらを見る。濡れた髪から一滴、雨粒が頬に落ちて、それが妙に絵になる。

サイドを外巻きにしたロングの茶髪、白いミニハットには「CB」と刻まれたバッジ。そして、その身にまとう制服──トレセン学園の正装。

 

つまり彼女も、あの特別な学園の生徒というわけだ。

 

私がまじまじと彼女を見つめていると、彼女も同じようにこちらを観察していた。ほんの少しだけ、目を細めて──

 

「……ねぇ、キミ。この前、ウマ娘の格好して学園を歩いてたでしょ」

 

「……! し、してない、ですよ……」

 

まさか、ここでその話が来るとは思わなかった。スカイと一緒に学園を回った、あの時のこと。あんなもの、今や黒歴史どころか封印案件だったのに……。

 

「あはは!そんなに顔を赤くしちゃうなんて……もう答えてるようなものじゃん」

 

「……何か買いに来たんじゃないの?」

 

誤魔化しきれないと悟って、思わず話題を切り替える。つい声が素になってしまったけど、仕方ない。

 

「いや?レジに見たことある人がいるなーって、気になって来てみただけ」

 

屈託のない笑顔で彼女が答える。ここまで清々しいと私が間違ってるんじゃないかって気がしてくる。

 

「……どうせなら何か買ってって……」

 

「もちろん。キミのお願いだしね」

 

その言葉を残して、彼女はふわりと踵を返して店内を散策し始めた。……真っ先に傘コーナーを通り過ぎていく。傘いらないのかな……

 

──数分後。お菓子やらアイスやらを抱えた彼女が、コンビニ袋いっぱいの戦利品とともにレジへと戻ってきた。

 

「最近は、セルフレジが主流だよね。アタシは店員さんにやってもらう方が好きなんだけど」

 

そう言って、彼女はセルフレジを華麗にスルー。こっちの有人レジにまっすぐやってくる。私は結構好きなんだけどな。セルフレジ。

 

「お会計、1920円になります」

 

私の言葉に、彼女はポケットから財布を取り出して──二枚の千円札を、ふわりと取り出した。私と同じ現金派なのかも。

 

「いつもは電子派なんだけどね。現金だと……こうやって、キミに“触れられる”から」

 

彼女は私の手のひらをそっと包むようにして、紙幣を渡してきた。耳をすませば、スルーされたコイントレーの泣き声が聞こえてくる。

 

「80円のおつりになります。レシートは──」

 

「もらっておくよ。だって……思い出だし?」

 

その言葉に、私は今度、彼女の手をそっと握り返してレシートを渡した。

ふふ。お返し。びっくりしたような顔をしたあと、彼女はまた、いつもの笑顔を見せてくれた。

 

「やっぱり面白いね、キミって」

 

言い残して、彼女は袋をぶら下げながら外へ出ていった。空は暗く、よく見えないけれど……雨はどうやら、止んでいるようだった。

 

先ほどまでの憂鬱な気分が、まるで洗い流されたみたいに消えていた。どこか、胸の奥が軽い。あと少し、頑張れそうだ。

 

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「お疲れ様です」

 

時刻は、夜10時。店の制服を脱ぎ、私服に着替え終えた私は、いつものように挨拶をしてカウンターを後にした。幸い、雨はすっかり止んでいた。傘を買う必要もなくなったし、軽く買い物をしてから帰ろう。

 

明日の夕飯のカレールーだけでも買っておけば、あとはなんとかなるだろう。

 

(明日は休日だし、何しようかな……)

 

バイトも入ってないし、予定はゼロ。そう思いながら店の外に出ると──傍らから、どこか聞き覚えのある声が耳に入った。というか、ついさっき聞いたばかりの声。

 

「あ、上がった? お疲れ様」

 

「……なんでまだいるの…」

 

案の定、声の主はさっきのウマ娘──ミスターシービーだった。現在時刻は午後10時。ということは、彼女はこの1時間近く、ここでずっと私のバイト終わりを待っていたということになる。

 

「そういえば、まだ名前を教えてなかったね。アタシは、ミスターシービー」

 

「……私はス──」

 

「スズちゃん、でしょ?」

 

……なんで知ってるの。少しジトっとした目線を向けると彼女はクスっと笑った。

 

「一部の生徒の間では噂になってるよ。“新しい用務員が来た”ってね。……しかもその用務員は、とっても可愛らしいんだとか」

 

「…………」

 

……やっぱり、ちょっと目立ちすぎたかなぁ……。スカイと学園を歩いた日の記憶が、黒歴史フォルダから飛び出してくる。

 

「……それで、何で私を待ってたの?」

 

用件をはっきりさせようと、私は首を傾げる。けれど、返ってきた答えは……想像を遥かに超えていた。

 

「スズちゃん。良ければ今日、アタシの家──泊まっていかない?」

 

「…………え?」

 

衝撃的すぎる発言に、脳が処理を拒否する。出会って数時間、言葉を交わしたのはほんの数回。にも関わらず、泊まり?今から?

 

……やっぱり学園関係者は、距離感が常識の外側にあるんじゃないだろうか……。

 

「……シービー、一人暮らしなんだ」

 

「うん。寮も楽しそうだけど、縛られるのは好きじゃないから」

 

「……でも、泊まるって言っても、着替えとか持ってきてないけど……」

 

「アタシの服、着ていいよ。好きなやつ、どれでも」

 

「……寝言とか、うるさいかもよ?」

 

「逆に聞いてみたいな、スズちゃんの寝言。もしうるさかったら──塞いじゃえばいいし?」

 

その微笑みは、まるで冗談を言っているようでいて、どこか本気にも見えた。彼女と話していると、常にペースを崩される。

 

(……もう、抵抗するだけムダか)

 

「……ナビ、お願いね」

 

小さくため息をついて、私は歩き出す。……わかってる。ここで断ったところで、彼女は引かない。だったら、さっさと折れたほうが楽だ。

 

──でもきっと、本音ではもう少し話してみたいと思っていたんだと思う。彼女と。

 

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「スズちゃん、運転できるんだ。……なんだか、意外かも」

 

「……よく言われる」

 

助手席のシートに深く身を預けたシービーが、横目でこちらを見てくる。誰かを車に乗せるたびにこのセリフを聞く。……まぁ、見た目と印象だけで判断されがちなのは昔からのことだ。

 

窓の外を流れる街の灯りが、静かに車内を照らしていた。キラキラとした夜景は、何度見ても飽きることがない。少し肌寒い夜の空気が、むしろ心を落ち着けてくれる。

 

「……向かいの信号を、右で良かったっけ」

 

「そうそう。そのまま真っすぐ。あとは案内するね」

 

慣れない右折に細心の注意を払いながらハンドルを切る。……この動作、いまだにちょっと緊張するんだよな。

 

しばらく道沿いを進むと、周囲は急に静かになる。閑静な住宅街。落ち着いた空気がどこか懐かしく、思わず肩の力が抜けた。

 

「あ、見えてきた。アタシの家──あそこ」

 

シービーが指差した先には、手入れの行き届いた2階建ての住宅が建っていた。シンプルながらも、なんとなく“彼女らしさ”がにじむ家だ。

駐車スペースもきちんとある。よかった。

 

「……よし、到着」

 

「ありがとう、助かったよ。今度、何かお礼しなきゃだね」

 

そう言って彼女は笑いながら助手席のドアを閉める。……お礼、か。

 

別に求めてないけど……また学園の食堂で、あのうどんでも一緒に食べられたら、それで十分。

 

「好きにくつろいでいいよ」

 

玄関に案内されて、私はそっと靴を脱ぐ。そこに広がっていたのは──息を呑むほど美しい内装……というわけでもなく、わりと普通の、生活感あふれる家だった。

 

……というか、それよりも。

 

「……ねえ、シービー。もしかして、家事苦手?」

 

「まあ、得意ではないかな」

 

廊下を歩きながら、私は周囲の光景に目を奪われる。使用済みの鍋や皿がそのまま放置されたシンク。山積みにされた洗濯物。

 

……彼女の家事能力云々というよりは、完全にめんどくさがりの結果だろう。

 

「……とりあえず、お風呂入ってきなよ。冷えてるでしょ?」

 

「うん、そうする。スズちゃんは?」

 

その瞳にじっと見つめられると、“お前も入れ”という圧を感じる。無言の圧力が、痛いほどに。

 

女子高生が一人暮らしの家に泊まりに来て、出会って数時間で一緒にお風呂とか……普通ではない。……流石にアウトだと思うんだけど。

 

「女子高生なんだし、別に普通だと思うけどなぁ」

 

軽くぼやきながら、シービーはタオルと着替えを手に浴室へと向かう。──言ってる意味は分かる。けど納得はできない。

 

彼女が浴室のドアを閉めたのを確認して、私は無言でシンクに向かった。気づけばもう、体が勝手に動いていた。

 

食器を洗い、シンクを整え、蛇口の水音が一定のリズムを刻む。

 

家事に没頭しながら、今日一日を振り返る。突発的な出来事ばかりだったけど──でも、楽しかった。どこか懐かしい。誰かに振り回される感覚。誰かと一緒に過ごす時間。

 

(やっぱり、バイト始めてよかったな)

 

気づけば食器はすべて洗い終わっていた。周囲をぐるりと見渡すと、そこにはさっきも見た洗濯物の山。

 

「……まあ、まずは、あれかな」

 

手を拭きながら、私は黙々と洗濯物をたたみ始めた。

 

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「……あ、お風呂、上がった?」

 

「うん……ていうか、何してんの、それ」

 

バスタオルを首にかけたままのシービーが、呆れと驚きが混ざった顔で立ち尽くしていた。

 

「何って……掃除だけど」

 

「……掃除、ねぇ……」

 

洗濯物もたたみ終わり、手持ち無沙汰になった私は、今や掃除機を手に部屋中をぐるぐると回っていた。さすがに家全体を掃除するのは無理だから、今日は1階だけ。

 

「……洗濯物も、全部たたんで整頓されてた」

 

「うん。気になったから全部片づけちゃった。……ご飯もそろそろできるから、もうちょっとだけ待ってて」

 

掃除機をかけながら振り返ると、シービーはどこかぽかんとした顔で私を見つめていた。

 

(……やりすぎたかな?)

 

……でも、この“少しずつ綺麗になっていく”感じが、私はすごく好きなのだ。誰かのための家事って、なんだか満たされる。

 

「アタシも手伝うよ」

 

そう言って、シービーが私の肩にそっと手を置いた。……もうほとんど終わってるけど……と思いつつ、彼女にできそうな役職を考える。

 

「……じゃあ、一緒におしゃべりしよう。一人で掃除してると退屈だし」

 

「……うん、いくらでも」

 

彼女とのおしゃべりは、思っていた以上に面白かった。学園のこと、トレセンでの日常、レースや友達の話。私の知らない世界を軽やかに語る彼女の声は、まるで風みたいに心地よくて──思わず掃除に集中しすぎてしまったほど。

 

「……そろそろご飯もできたはず。あ、勝手に冷蔵庫の食材使っちゃったけど、大丈夫だった?」

 

「全然大丈夫。むしろどんどん使って欲しいな」

 

聞けば、冷蔵庫にはお菓子とジュースしか入っていないことが多いらしい。今日はたまたま、知り合いから貰った食材が残っていたらしくラッキーだった。

 

掃除機を片付けて台所へと向かう。

 

「……よし、いい感じ」

 

今日の夕飯はカレー。偶然にもさっきコンビニで買っていたカレールーを持っていたので、せっかくだから使わせてもらった。

 

「へえ、すごく美味しそう!」

 

シービーが目を輝かせて褒めてくれる。顔が自然とほころんでしまうのを、うまく隠せない。

 

「アタシもたまにカレー作るんだけど、こんな上手にはできないよ」

 

……私にとっては“いつも通り”の家庭の味。でも、誰かに「美味しそう」って言われると、それだけで特別な一品に思えてくるから不思議だ。

 

「それじゃ──いただきます」

 

「いただきます……」

 

ふたりで並んで食卓につく。この空気が、なんだかやさしくて、心が温まる。

 

「……うん、やっぱり美味しい」

 

「ありがとう……これくらいなら、いつでも作ってあげるけど……」

 

「ふふっ。言質とったからね」

 

……軽い冗談のつもりだった。けれど、彼女の目は、なぜか冗談では済ませてくれなさそうな光を帯びていた。

 

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「……ごちそうさまでした」

 

「ご馳走様。美味しかったよ、スズちゃん」

 

夕飯を食べ終えた私たちは、食器を持ってシンクへと向かう。いつもの流れで洗い物をしようとしたところ、『さすがにアタシがやるよ』と、あっさり制止されてしまった。

 

「……じゃあ、お願い」

 

手持ち無沙汰になった私は、そのままお風呂に入ることにする。好きな服を着ていいと言われたので、先ほどたたんでおいた衣類の中から、手触りの良さそうな部屋着を適当に選んで、脱衣所へ向かった。

 

(……あったかい……)

 

湯舟にはまだ充分に温もりが残っていた。先に入ったシービーからそこまで時間が経っていなかったのだろう。普段はシャワーで済ませてしまうことが多い私にとって、このじんわりと身体の芯までほぐれていく感じは新鮮で、心地よかった。

 

(……今度、家でも湯舟につかろ……)

 

湯船の縁に顎を預け、視線を上げる。浴室の棚には所狭しとヘアケア用品が並べられていた。シャンプー、コンディショナー、トリートメント……ボトルの数に圧倒される。確かにシービーは腰まである長髪だし、あれだけ美しく保つには、相当手入れが必要なのだろう。

 

ちなみに私はウルフカット。ショート寄りのスタイルだから、手間はそこまでかからない。……というか、この前まではもっと短くて、ショートボブだった。

 

(……そろそろ、のぼせそう)

 

頬がほんのり赤らんできた頃合いを見て、私は湯舟から身体を起こした。すっかり疲れが取れて、身体がふわりと軽い。

 

髪をタオルでざっと拭いたあと、ドライヤーで丁寧に乾かし、先ほどの部屋着に着替える。洗面所の収納棚には新品の歯ブラシがいくつも常備されていて、その中から一本選んで歯も磨いた。

 

「……上がったよー……」

 

濡れた髪先がまだ少しだけ熱を持ったまま、私はリビングへ戻る。そこでは、シービーがソファに座り、スマホをいじっていた。私の姿に気づくと、彼女はちらと顔を上げ、にこりと笑ってから立ち上がった。

 

「こっち、こっち。案内するよ」

 

彼女に続いて廊下を進み、連れていかれた先の部屋の扉が開かれる。

 

「……これ、ハンモック?」

 

室内の中央に吊り下げられていたのは、やたら大きな布の寝具。初めて見る形に、思わず声が漏れた。

 

「うん。一応、2階にはベッドもあるんだけど……アタシはこっちの方が好きなんだ。ゆらゆらして、落ち着くから」

 

「……えっと、もしかして……二人で?」

 

「うん、大丈夫。これ、ダブルサイズのハンモックだし。一人で伸び伸び寝たいって理由で選んだんだけど……まさか、こんなふうに役立つ日が来るとはね」

 

先にシービーがハンモックへ腰を下ろすと、空いたスペースをぽんぽんと叩いて私を誘う。

 

「おいで。慣れればすっごく気持ちいいよ」

 

恐る恐る、私もハンモックの縁に腰をかける。すると、柔らかな揺れが身体を包み込んだ。

 

「……どう?気持ち良いでしょ」

 

「……うん。ゆらゆらしてて……なんか、安心する」

 

まるで大きな揺り籠に抱かれているような、そんな不思議な感覚だった。揺れが心地よくて、身体の力がじんわり抜けていく。

 

やがて、シービーが手元のリモコンに手を伸ばして、部屋の照明を落とした。視界が闇に染まり、二人の呼吸音だけが耳に残る。

 

「スズ、明日も泊まってかない?」

 

「……流石に、それはダメ。シービーも予定あるでしょ」

 

「ちぇー」

 

軽く拗ねたような声が、闇の中に弾む。さっきカレンダーで予定、書き込まれてるの見ちゃったし。

 

暗さに目が慣れてきた頃、ふと寝返りを打った私の額に、何か柔らかな感触がぶつかった。

 

至近距離。……というより、目の前にあったのはシービーの顔だった。

 

「ふふっ。びっくりした?」

 

「……うん。心臓に悪いから、やめて」

 

彼女の小さな笑い声がハンモックの中で反響する。けれど、一向に顔を離そうとはしない。私もわざわざ顔をそらすのは癪だったので、そのまま目を閉じて、睡眠モードに移行する。

 

……その時だった。

 

(……ん)

 

誰かの吐息が、すぐそばで震えた気がした。

 

……と思った瞬間。唇に、柔らかな湿り気を感じた。

 

ほんの、一瞬。けれど、その感触だけはやけに鮮明に、夢と現実の狭間に染み込んでくる。

 

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……早朝。隣で眠るシービーを起こさないよう、そっとハンモックから降りる。ほんの少しの揺れさえも、彼女の寝顔を崩してしまいそうな気がして、私は慎重に足を下ろした。

 

朝の内に荷物をまとめておく……といっても、昨日は突発的なお泊まり会だったから、荷物といっても財布とスマホと……あとは制服くらい。まとめ終えるのに、時間はかからなかった。

 

やることがなくなった私は、少し思案した後、朝食を作ることにした。昨日使った食材がまだ残っていたはず。冷蔵庫を覗くと、想像通り、ベーコンや卵などがほどよく並んでいる。

 

軽く結んだエプロンがふわりと揺れる。ベーコンを焼いている間に、卵を割り、ふんわりと仕上げる。

 

……シンプルだけど、心を込めた朝の食卓。

 

(……まだ起きてこないな)

 

熱が逃げてしまう前に、シービーを起こしに行こう。

 

「……シービー、起きて」

 

ハンモックを優しく揺らすと、彼女はうっすら唸りながらもゆっくりと体を起こした。眠たげなまま、私の言葉を聞き、ほんの少しの間をおいて頷くと、洗面所へと向かっていった。

 

「いただきます」

 

「……いただきます」

 

お互いに挨拶を交わして、朝食を口に運ぶ。味は悪くないと思う。……けど、やっぱりちょっと不安で、こっそり彼女の様子を窺う。

 

その視線の先で、彼女は箸を止め、真剣な眼差しをこちらに向けていた。

 

「スズちゃん。お嫁に来ない?」

 

「……ぶっ……!?」

 

唐突すぎる台詞に、危うく噛んだものを吹き出しそうになる。なんとかごくりと飲み込んで、眉をひそめた。

 

「……気が向いたらね」

 

ようやく絞り出したその言葉に、彼女はふわりと微笑んだ。……本当に、ウマ娘の距離感というものには苦労させられる。

 

「……この後はトレーニング?」

 

「うん。8時から、学園で」

 

「じゃあ、ついでに送っていくよ」

 

「やったー!」

 

嬉しそうな声が、空気を弾ませる。私はそれを背に受けながら、さっさと食器を片付けて、洗い物まで済ませた。

 

「……そういえば、この服ってどうすればいい? 洗って返す?」

 

「んー、そのまま持って帰っていいよ。たくさんあるし」

 

……スカイの制服に続いて、今度はシービーのパジャマまで手に入れてしまった。うん、これで1日くらいなら生活出来そう。

 

時計を見ると、そろそろ7時半。出発の準備を促す。

 

「……準備できた?」

 

「バッチリ。いつでもOK」

 

彼女の返事を確認して、私たちは並んで玄関を出る。助手席には、当然のように彼女が乗り込んだ。

 

「忘れ物、ないよね」

 

「うん。大丈夫」

 

左右を確認してから発進。車は滑らかに道を走り、トレセン学園へ向かっていく。

 

「スズちゃんって、学園にはいつから来るの?」

 

「高校卒業してからだから……4月のはじめ頃かな」

 

「ふーん……。ねえ、学園で働きはじめたら、アタシの家に住みなよ。家賃はアタシが出すから、家事はスズちゃん担当ってことで」

 

……それって、同棲なのでは……

 

……けど、正直家賃ゼロは魅力的すぎる。家事も嫌いじゃないし、人がひとり増えたところで、やることが倍になるわけでもない。

 

「……まあ、それも、気が向いたらってことで」

 

「ふふっ。楽しみだなぁ。スズちゃんとの二人暮らし」

 

まるで、未来がもう決まってるみたいな言い方。……まあ、未来のことは未来の私に任せよう。

 

「……見えてきた。正門前でいいよね?」

 

「うん、ありがと」

 

車をゆっくり止めて、彼女を見送る。姿が小さくなるまで、しばらく目を離せなかった。

 

(……この構図、前もあったな。アイネスの時……)

 

日常に戻ってきた気がして、少しだけ肩の力が抜ける。私は車を再び発進させた。

 

家に帰る前に、コンビニに立ち寄る。バイト先とは別の店舗。軽くお腹も空いてきたし、お菓子と軽食を少しだけ。

 

お菓子を手に取り、飲み物も。最後に総菜を取ろうと棚の端まで歩いたとき、ふと目に飛び込んできたのは、店頭パネルだった。

 

『気ままに寄り道、自由なひととき』

 

そこには、ゆるく笑うミスターシービーの姿。……きっと彼女は、こういう仕事も“気分”で引き受けているんだろう。

 

(……どうせ、いつ消えるかも分からないし)

 

そう思って、私はパネル下のコラボ商品をいくつか手に取った。

 

レジに向かう。普段なら迷わずセルフレジだが、今日だけは、有人レジに並んだ。

 

「お会計、1220円になります」

 

ポケットから財布を出し、千円札を……と思ったら、入ってない。仕方なく小銭をかき集めて、ちょうどの金額を支払う。

 

袋を受け取って店を出ると、ポツ、ポツと肌に冷たい感触が落ちてきた。

 

(……雨か)

 

曇った空を見上げながら、ふと彼女のことを思い出す。

 

「……シービー、大丈夫かな」

 

どうせ彼女のことだから、雨なんて気にせず、笑って走ってるに違いない。そう思うと、自然と口元が緩んだ。

 

少しぶかぶかのパジャマのまま、私はハンドルを握る。

 

再び静かな日常へ。けれど、その胸には、確かに誰かの体温が残っていた。

 

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夜の帳が降りて、今日という日も、静かに終わりを迎えようとしていた。

 

スズが風呂から上がって戻ってきたとき、彼女はまるで湯気の余韻を纏った月のようだった。ぬるく霞んだ光をたたえて、ふわふわと、見上げればこぼれ落ちそうな。さっきも見ていたはずの顔なのに、今はなぜか、ひどく綺麗に見えた。

 

いつもより少し髪がしっとりしていて、頬の赤みがやわらかく色づいている。たぶん、これは気のせいなんかじゃない。湯上がりの一瞬――私だけの錯覚だとしても、それで構わなかった。

 

彼女をハンモックのある部屋へと案内する。

 

「うん。一応2階にはベッドもあるんだけど……ハンモックが好きだから」

 

そう説明したけれど、本当は――並んで眠ってみたかった。ただ、それだけ。

 

なんてことのない願い。でもそれを、わざわざ伝える勇気はなかった。

 

彼女がそばに入り込んでくる。

 

一瞬、布の張りがピンと強まり、それから、ゆらゆらと大きく揺れ始める。二人分の重さの不安定さが、かえって安心できるのが不思議だった。

 

「……うん。ゆらゆらしてて、心地いい」

 

彼女の声は、眠気をたたえていて、あたたかくて。隣にいるだけで、まるで夢を見ているみたいだった。

 

「スズ、明日も泊まってかない?」

 

自分でも驚くほど、軽い声で口にしていた。分かってる。きっと断られる。それでも……言わずにはいられなかった。

 

この時間を、終わらせたくなかったから。

 

「……流石にダメ。シービーも予定あるんでしょ」

 

うん。あるよ。現実はいつも、こうして割り込んでくる。

 

……でも、ね。

 

“もっと”を求めてしまう夜があっても、許されると思ったんだ。

 

そして――スズがふと寝返りを打って、こっちを向く。

 

そのとき、彼女の額が、わたしの額に「コツン」と触れた。

 

わたしは息をのんだ。急いで笑顔の表情を作る。

 

「ふふっ。ビックリした?」

 

「……うん。心臓に悪いから、やめて」

 

心臓に悪い。ほんとうに。

 

ドキドキして、苦しくて、名前も知らない何かが胸をぎゅっと掴んでくる。

 

彼女のまつげが、ゆっくりと伏せられていく。わたしから視線を逸らすでもなく、拒絶もせずに。

 

そのまま、夜のやわらかな沈黙に包まれて――わたしはただ、隣で息をする彼女を見つめていた。

 

そして、衝動がふくらむ。

 

泡のように、音もなく膨らんで。気づいたときには、もう引き返せなかった。

 

そっと、唇を近づけた。

 

ほんの一瞬。羽のように、そっと、触れるだけ。眠る月に触れるように。

 

それは、きっと夢みたいなキスだった。アタシの中だけに咲いた、夜のひとひら。

 

「……おやすみ、スズ」

 

この気持ちに名前をつけるのは――きっと、もう少し先でもいい。

 

 

 

 

 

 




(いっつも車乗ってるな……私)
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