〜0086年 2月上旬
ジャブローの地下深くに設けられた、ティターンズ総司令部の一室。
分厚い防音扉に守られたその執務室に、ガラスの灰皿が壁に叩きつけられ、粉々に砕け散る甲高い破砕音が響き渡った。
「――この、間抜け共がァッ!!」
ティターンズ総帥ジャミトフ・ハイマンの右腕にして、実質的な軍事指揮権を握る男、バスク・オム大佐は激怒していた。
彼の前に直立不動で並ばされているのは、先日『C・L』による蹂躙劇を許した、北米特務士官養成学校の防空司令官や教官たちである。彼らの顔は恐怖で青ざめ、バスクの怒声に肩をビクンと跳ねさせていた。
「貴様ら、自分たちが何をしたのか分かっているのか!? 我々ティターンズが、よりにもよって連邦の野犬共に無抵抗で尻尾を巻いたのだぞ!」
バスクは、執務机の上に積み上げられたデータパッドの山を、苛立たしげに手で薙ぎ払った。
床に散らばったそれらのデータはすべて、C・Lの総司令官であるコジマ准将から直接送りつけられてきた『北米基地に対する防衛設備・指揮系統の改善通告書』――すなわち、ティターンズの無能さをこれでもかと書き連ねた、赤っ恥の塊である。
だが、バスク・オムの煮えたぎるような怒りの本質は、C・Lが完全な奇襲を成功させたこと「そのもの」に対して向けられたわけではなかった。
彼の逆鱗に触れたのは、奇襲を受けた事実ではなく、その奇襲に対して『一切の反撃も、時間稼ぎすらも出来なかった学校側の無能さ』であった。
「言い訳をしてみろ! 何故、一発の銃弾も撃たずに降伏した!?」
「そ、それは……敵はミノフスキー粒子を戦闘濃度で散布し、通信を遮断……さらに事前のハッキングによって、我々のモビルスーツは全機、OSの火器管制をロックされてしまい……」
「だからどうしたと言うのだ!!」
言い訳をしようとした教官の胸ぐらを、バスクは巨体を揺らして直接掴み上げ、怒鳴りつけた。
「モビルスーツが動かせなければ戦えないのか!? 貴様らが普段偉そうにふんぞり返っているその建物は、紙で出来ているのか!? 違うだろうが!! 基地施設そのものが、強固なコンクリートと防爆扉で守られた『要塞』なのだぞ!!」
バスクは教官を突き飛ばし、赤いゴーグルの奥の瞳をギラつかせて残りの者たちを睨み据えた。
「いいか、よく頭に叩き込め。相手の目標が何であれ、奴らは『宇宙からの降下強襲』を仕掛けてきたのだ。ならば、持ち込める物資も、弾薬も、モビルスーツの稼働時間も、すべて限られているに決まっているだろうが!」
バスクの指摘は、一年戦争の泥沼を這いずり回り、数々の死線を潜り抜けてきた生粋の野戦指揮官としての、極めて現実的で冷徹な戦術眼に基づいていた。
「モビルスーツが出せないなら、通路の防火シャッターをすべて落とせ! 地下シェルターに立て籠もり、自動機銃と手榴弾でバリケードを築け! 外部との通信が絶たれたのなら、伝令を走らせてでも被害状況を確認し、指揮系統を再構築しろ!
……相手の弾が尽きるか、こちらの援軍が到着するまでの間、這いつくばってでも時間を稼ぐのが『防衛戦』というものだろうが!!」
バスクの怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。
もしもあの時、あの防空指揮所にバスク自身がいたならば。
彼はモビルスーツの起動などという無駄な足掻きは即座に切り捨て、基地の全機能を「籠城」と「遅滞戦闘」へと切り替えていただろう。エコーズの突入部隊に対しても、通路に毒ガスを撒くか、あるいは区画ごと爆破してでも、少なくとも数分、いや数十分は持ち堪えてみせたはずだ。
「貴様らのような温室育ちの無能が教壇に立っているから、ティターンズが『モビルスーツに乗らなければ戦えない雛鳥の集まり』などと舐められるのだ! 貴様らは全員、今日付で最前線の警備部隊へ左遷だ!
二度と私の前にその間抜けな面を見せるな!! 憲兵、こいつらを連れて行け!!」
バスクが怒鳴りつけると、控えていた憲兵たちが青ざめた教官たちを乱暴に引きずり出していった。
執務室に再び静寂が戻る。
バスクは忌々しげに舌打ちをし、自身の赤いゴーグルに手を当てた。
ズキリ、と。
目の奥が、焼け焦げるように疼く。
「……忌々しい」
彼がジオン公国という存在を骨の髄まで憎悪し、ジャミトフの思想に共鳴してティターンズの結成に尽力した理由。そして、手段を選ばない残虐なまでの強硬路線を突き進む理由。
それはすべて、この目の奥に張り付いた「一年戦争の後遺症」が、彼に戦いの記憶を強制的に呼び起こすからに他ならない。
かつてジオンの攻撃によって視力を奪われかけ、光を極端に恐れるようになったこの両目。疼くたびに、宇宙の棄民どもが地球を蹂躙した、あの吐き気を催すような過去の記憶が蘇ってくるのだ。
(……この地球圏から、ジオンの残党とそれに与するダニ共を根絶やしにする。そのためには、ティターンズは誰よりも強大で、非情な刃でなければならないのだ。……コジマ准将、そしてアムロ・レイ。貴様らの青臭い正義など、私が力で叩き潰してやる)
バスク・オムは、床に散らばったC・Lからの通告書を軍靴で冷酷に踏みつけ、暗い執務室の中で、怨念に満ちた獣のような低い唸り声を上げた。
―――
地球連邦軍総司令部ジャブロー、あるいはダカールの中枢。
一切の喧騒から隔絶されたジャミトフ・ハイマンの私室には、古き良き紙の匂いと、葉巻の紫煙が静かに漂っていた。
バスク・オムが前線で怒りに身を任せ、ティターンズの武力行使に血道を上げている間も、この組織の絶対的な首魁であるジャミトフは、常に歴史の「裏側」を俯瞰している。
彼の手元にあるのは、最高度のプロテクトが掛けられていたはずの一つの極秘ファイル。それは、連邦軍穏健派の重鎮であるワイアット大将が、自らの権限を最大限に悪用してまで完全に秘匿・隠蔽した『デラーズ・フリートによる星の屑作戦(テロ未遂事件)』の、真実の記録であった。
「……なるほど。ワイアットの狸め、随分と丁寧に事実を切り貼りしたものだ」
ジャミトフは、分厚い資料のページを指先で捲りながら、喉の奥で低く嗤った。
公式の記録では、デラーズ・フリートの決起は連邦の正規軍の活躍によって未然に防がれたことになっている。
しかし、この隠蔽された資料の中には、正規の艦隊指揮から切り離され、圧倒的な劣勢の中で絶望的な矢面に立って戦い抜いた「ある小部隊」の存在が克明に記されていた。
『白いザク』と、『白銀の機体』。
その規格外の戦闘力でジオンの残党を震え上がらせ、デラーズ・フリートの野望を事実上粉砕した彼らは、事件の終結と同時に、連邦の公式記録から完全に「蒸発」している。戦死扱い、あるいは行方不明。
だが、巨大な情報網を持つジャミトフの目は、彼らの現在の居場所をとうの昔に特定していた。
(……退役の体裁をとり、オーガスタ研究所、あるいは第13外郭独立艦隊『C・L』、さらにはスウィート・ウォーターの孤児院に身を潜めている、か。
……ワイアットめ、ティターンズに対する抑止力として、この厄介な手駒を温存しているつもりだろうが、甘いな)
ジャミトフは葉巻を灰皿に置き、資料のさらに奥――オーガスタ研究所の現在の「主」についてのレポートに目を落とした。
レポートに添付された、美しい金髪の女性の写真。
セイラ・マス。いや、アルテイシア・ソム・ダイクン。
「……些か気難しい相手ではあるが、私の盤面の対面に座る者としては、決して不足はない」
ジャミトフの瞳に、知的な好奇心と、冷酷な政治家としての算盤が交錯する。
地球連邦政府は、彼女を「地球圏に未だ燻り続けるジオン残党に対する、最も強力なアンチテーゼ」として利用するために生かしている。
ダイクンの正当な後継者である彼女が、ジオン共和国ではなく連邦側の庇護下で穏やかに暮らしているという事実そのものが、ザビ家の復興を掲げるテロリストたちの「大義」を根底から否定する猛毒となるからだ。
バスクのような単細胞であれば、「ジオンの血を引く魔女」として即座に暗殺部隊を差し向けるだろう。
だが、ジャミトフの思惑は全く異なっていた。
彼には、アルテイシアを襲う気などサラサラ無かった。
むしろ彼個人としては、彼女と密かに接触し、『協力体制』を築きたいとすら考えていたのだ。
ティターンズが掲げる「地球至上主義」。
それは表向き、地球のエリートが宇宙の棄民を支配するための選民思想とされている。
しかし、ジャミトフの真のイデオロギーは別のところにある。彼は、人類が地球に寄生し続ければ、いずれこの美しい青き星は完全に死に絶えると考えていた。
彼の最終目的は、ティターンズという絶対的な暴力装置を使って地球上の特権階級を恐怖で支配し、最終的には
「全人類を強制的に宇宙へと追い出す」
こと。
つまり、地球の自然を回復させるための、劇薬としての独裁である。
(……真なるジオン・ダイクンの意思を知る彼女であれば。あるいは、私のこの血塗られた思想の『本質』に、少なからず理解を示すのではないか?)
ジオン・ダイクンが提唱した、人類の革新と自然との調和。
手段こそ真逆で血に塗れているが、ジャミトフが目指している到達点は、皮肉なことにオリジナル・ジオンの理想と奇妙な符合を見せているのだ。
もし、アルテイシアというダイクンの象徴と裏で手を結ぶことができれば、地球連邦という腐敗した巨獣を内側から食い破るための、これ以上ない強力な切り札となる。
ジャミトフは、デスクの上のホログラム・プロジェクターを起動させた。
青白い光の中に浮かび上がったのは、先日、ティターンズの北米養成学校を完膚なきまでに蹂躙した男のデータ。
アムロ・レイ大尉である。
ジャミトフは、無精髭の顎を撫でながら、暗闇の中で深く息を吐き出した。
アムロ・レイという男は、ティターンズにとって最大の障害だ。C・Lという独立艦隊を実質的に動かし、エコーズという猟犬すら手懐け、連邦の闇を容赦なく切り裂いていく。彼を軍事力で正面から排除することは、不可能に近い。
だが、ジャミトフの脳裏に、ある悪魔的な閃きが走っていた。
「……アムロ・レイ。あの男の最大の弱点は、彼が『守るべきもの』を持ちすぎていることだ」
ジャミトフの視線が、アムロのホログラムと、デスクに置かれたアルテイシアの写真とを往復する。
最前線で血を流し続ける「最強の剣」であるアムロ。
そして、彼がその命を懸けて守り抜こうとしている「心臓」であり、オーガスタで強化人間たちを庇護するアルテイシア。
二人の間にある、単なる戦友を超えた深い絆。
(もし、私がアルテイシア・ソム・ダイクンと『同盟』を結ぶことができたなら……?)
ジャミトフの唇が、三日月のように歪んだ。
ダイクンの遺児である彼女と、人類を強制的に宇宙へ上げるという究極の目的において、秘密裏に不可侵の協定を結ぶ。
彼女がジャミトフの真意を理解し、その理念に(たとえ消極的であっても)頷いた瞬間。アムロ・レイという男は、アルテイシアを守るために、事実上ティターンズに牙を剥くことができなくなる。
「……無敵の英雄を止めるのに、銃弾は必要ない。彼の愛する女の『思想』を、こちら側に引き込めば良いだけのことだ」
武力による制圧ではなく、思想と絆を利用した、最も優雅で残酷な盤面の支配。
「さて……まずはどうやって、オーガスタの魔女に『招待状』を送るか、だな。ワイアットの目を盗み、C・Lの番犬たちに噛みつかれないルートでね」
ジャミトフ・ハイマンは、深い闇の中で一人、誰に聞かれることもない静かな哄笑を漏らした。
ティターンズという組織の狂気が加速していく中で、その頂点に立つ男だけは、地球圏の未来を左右する、途方もなく巨大で冷徹なゲームを楽しんでいた。
―――
オーガスタの冬の冷たい空気が、少しずつ春の気配を含み始めた頃。
セイラ・マスは、施設の執務室でいつものように山積みの書類とタブレット端末に向き合っていた。
孤児院の運営、強化人間たちの治療とリハビリテーション、そして施設を維持するための莫大な資金繰り。彼女の日常は、息をつく暇もないほど多忙を極めている。
先週はヨーロッパの慈善団体との会合に飛び、数日前には中東の資産家から資金を引き出すためのタフな交渉を終えたばかりだ。施設の子供たちのカウンセリングを自ら行い、彼らが少しずつ人間らしい笑顔を取り戻していく過程を見守ることは、今のセイラにとって何よりの生き甲斐となっていた。
「……ふふっ、昔の私が見たら、随分と丸くなったと笑うかもしれないわね」
セイラは、デスクに置かれた温かい紅茶を口に運びながら、窓の外へ視線を向けた。
視線の先、施設の敷地の外れに停まっている黒いセダン。そして、中庭の清掃員に扮しているものの、その鋭い目つきと体格で正体が丸わかりの男たち。
地球連邦軍、あるいは情報局が放った「監視の目」である。
ジオン・ダイクンの遺児であるアルテイシア。その存在は連邦にとって、危険な火種でもあり、同時にジオン残党を牽制するための有用なカードでもある。だからこそ、彼女がどこへ行き、誰と会い、何をしているのか、連邦は常に監視の網を張り巡らせていた。
かつて、この監視の目は彼女にとって窒息しそうなほどの重圧であり、激しい不快感と警戒心を抱かせるものであった。
しかし、今のセイラはその視線を鬱陶しいとは全く感じていない。
(無料で優秀なボディーガードがついてくれているようなものだわ。……それに、彼らが見張っていてくれるおかげで、変なテロリストや有象無象の過激派が施設に近づかずに済んでいるのだから)
そう割り切ってしまえるほど、今の彼女の心は確かな芯を持ち、満たされていた。
誰かの庇護下で生きるしかなかった籠の鳥は、今や自らの意志で世界を飛び回り、傷ついた子供たちを守るための巨大な翼を広げている。その圧倒的な充実感が、連邦の監視という些末な問題を完全に凌駕していたのである。
だが、そんな充実した日々の中で、唯一の「空白」があるとすれば。
それは、彼女にとって最も大切な人との距離であった。
「……今頃、また無茶をしていないと良いのだけれど」
セイラは、デスクの引き出しに大切にしまってある一枚の写真をそっと指先で撫でた。
そこに写っているのは、少しだけ照れくさそうに笑うアムロ・レイの姿。
第13外郭独立艦隊『クレール・ルクス』の中心として、ティターンズの暗躍を阻止し、連邦の闇を切り裂くために宇宙と地球を駆け回っているアムロ。彼が背負っている重責と危険を思えば、セイラは決して「私の傍にいてほしい」と我儘を言うことはできなかった。
事実として、二人の関係は物理的には少し「疎遠」であった。
互いに果たすべき責任があり、守るべきものがある。一年戦争の終結後、普通の恋人同士のように、毎日顔を合わせ、甘い時間を共有することなど彼らには許されなかった。
しかし、セイラの胸にあるのは、決して孤独や寂しさではなかった。
むしろ、深く静かな「安心感」がそこにはあった。
彼がどれほど遠い宇宙の果てで戦火に身を投じていようとも。
自分がどれほど各国の政治と資金繰りの波に揉まれていようとも。
互いの魂の奥底には、絶対に揺るがない『帰るべき場所』が存在している。
アムロにとって、オーガスタのこの施設と、セイラのいる場所こそが、血に塗れた硝煙の匂いを洗い流し、一人の人間に戻ることができる唯一の聖域なのだ。
そしてセイラにとっても、彼の存在そのものが、どんな困難な現実にも立ち向かうための最大の支えであった。
『……次は、春先には戻れると思う。君の淹れた紅茶が飲みたいよ』
数週間前に届いた、短い通信の文面を思い出し、セイラは自然と柔らかな微笑みをこぼした。
彼が時折この施設に帰ってきて、数日間の短い休暇を共に過ごす。
派手なことは何もしない。ただ一緒に中庭を散歩し、子供たちの他愛のない話を聞き、夜は温かい食事を囲んで、並んでソファに座りながら本を読む。
その、ありふれた、けれど何よりも得難い穏やかな時間こそが、セイラにとって最大の楽しみであり、明日を生きるための活力だった。
「待っているわ、アムロ。……いつでも、あなたの帰る場所はここにあるのだから」
セイラはタブレットの画面を切り替え、再び施設の運営データへと向き直った。
その凛とした横顔は、かつての迷い多き少女のものではない。すべてを受け入れ、愛する者の帰還を信じて世界と戦い続ける、強く美しい一人の女性の姿であった。