宇宙世紀0086年、2月上旬。
地球圏から遠く離れたアステロイドベルトに位置する小惑星基地、アクシズ。
極寒の真空に浮かぶその巨大な岩塊の奥深く。暖房の効いた静かな執務室では、今日も二人の人物が山積みの資料とホログラム・ディスプレイに黙々と向き合っていた。
シャア・アズナブルと、ハマーン・カーンである。
この日、シャアの手元には、サイド3・ジオン共和国に潜伏している協力者たちから極秘裏にもたらされた、一連の暗号データが届けられていた。
そこに記されていたのは、かつて彼らの前に一枚岩の巨大な壁として立ち塞がっていた『地球連邦軍』の、ひどく滑稽で、かつ致命的な現状についてのレポートであった。
「……連邦軍は現在、深刻な内部抗争の真っ只中にある、か」
シャアは、データパッドの青白い光に照らされた文言を読み上げ、静かに息を吐き出した。
レポートによれば、現在の地球連邦政府および連邦軍の上層部は、完全に幾つかの派閥に分裂し、泥沼の権力闘争に明け暮れているという。
ジャミトフ・ハイマン率いる急進派『ティターンズ』の専横。それに反発する穏健派や地方艦隊。さらに、ティターンズの喉元に牙を突き立てるコジマ准将らの『クレール・ルクス(C・L)』。
彼らの最大の関心事は、宇宙の果てに潜むジオンの残党(アクシズ)の動向などではなく、もはや「身内の政敵をどうやって排除するか」に完全にシフトしてしまっているのだ。
皮肉な話であった。連邦の目が内側に向いているおかげで、ジオン共和国から地球圏へ送り込まれた情報提供者や工作員たちは、連邦の監視網を容易に掻い潜り、驚くほど安全に潜伏・活動することができているというのだから。
さらに、レポートはより具体的な「次の手」に言及していた。
現在、ジオン共和国側の非公然組織(あるいは穏健派勢力)は、連邦内において反ティターンズを掲げる新興の地下勢力――『エゥーゴ(AEUG)』との間で、協力体制の構築を模索中であるという。
そして、そのエゥーゴの最大の後ろ盾となっている巨大軍産複合体『アナハイム・エレクトロニクス社』のグラナダ工場とも秘密裏に連絡が付き、水面下での技術交流ルートが確立されつつある。これにより、アナハイムの豊富な資金と設備、そしてジオンの技術が融合し、新たなモビルスーツの開発計画が急速に加速しているとのことであった。
「……アナハイムの死の商人どもは、連邦の分裂すらも金儲けの種にするつもりらしいな。そしてジオン共和国もまた、その波に乗ろうとしている」
シャアは、どこか冷めた感情でそのデータを眺めていた。
かつての彼――「赤い彗星」として復讐と野心に燃え、政治の表舞台で暗躍することを是としていた彼であれば、この地球圏の混乱を最大限に利用し、自らの手で新たな戦乱の火種をコントロールしようと画策したかもしれない。
だが、シャアはゆっくりと視線を上げ、デスクの向かい側を見た。
そこには、自身の背丈ほどもある決裁書類の山と格闘し、真剣な眼差しでペンを走らせるハマーンの姿があった。
かつてマハラジャ・カーンの後ろに隠れていたあどけない少女は、今やアクシズを背負う若き指導者として、その細い肩に途方もない重圧を背負い続けている。そして、この執務室から離れた居住ブロックには、まだ何も知らない無邪気な幼子――ミネバ・ラオ・ザビがいるのだ。
地球圏がどのような権力闘争に明け暮れようと。
アナハイムがどのような新型のモビルスーツを開発しようと。
今のシャアにとって、それは「利用すべき盤面」ではなかった。
エゥーゴの台頭、ティターンズの暴走、C・Lの暗躍。間もなく地球圏は、一年戦争をも凌ぐ規模の巨大な嵐に飲み込まれるだろう。そしてその嵐は、いずれこのアステロイドベルトにも必ず牙を剥く。
シャアはデータパッドの電源を落とし、静かに目を閉じた。
(……私が為すべきことは、一つだ)
彼が今、クワトロ・バジーナなどという偽名を名乗って地球圏へ降りることもなく、この冷たく辺境の岩塊に留まり続けている理由。
それは、ジオンの亡霊として再び歴史の表舞台に立ち、世界を導くためではない。
ただ、目の前で無理をして背伸びをしているこの不器用で気丈な少女と、罪なき幼き主君を、迫り来る血生臭い地球圏の悪意から護り抜くこと。
そのために、自分は自らの力を、ただ「護るための盾」として振るう。
「……どうかしましたか、シャア?」
不意に、ハマーンが顔を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「いや……何でもない。ただ、少し地球圏が騒がしくなってきたようだと、そう思っただけだ」
シャアはいつものように穏やかな微笑を浮かべると、再び手元の書類へと視線を落とした。
アクシズの冷たい金属の壁に囲まれた執務室。
迫り来る宇宙世紀の巨大な戦乱を前にしても、シャア・アズナブルの胸の奥にある決意は、かつてないほどに静かで、そして研ぎ澄まされていた。
―――
シャア・アズナブルは、護るべきものを確実に護り抜くための「力」を欲していた。
その日、アナハイム・エレクトロニクス社の暗躍ルートからアクシズへ極秘裏にもたらされたデータ群。そこに記されていたのは、次世代の主力を担う新型モビルスーツの設計図面と、その根幹を成す構造概念図であった。
『ムーバブルフレーム』。
かつて、地球圏で極秘裏に開発された規格外の機体――『ガンダムℵ』。
その研究データがもたらした技術的ブレイクスルーは、モビルスーツの骨格と駆動系を根本から覆すこの画期的な構造概念を、本来の歴史よりも早く宇宙世紀に誕生させていた。
しかし、この革新的な技術は、辺境のアステロイドベルトに潜伏するアクシズにとっては、未だ完全に未知の領域であった。
一年戦争時、モビルスーツという兵器の黎明期において連邦の遥か先を行っていたジオンの栄光も、今は昔である。
国家規模の莫大な開発資金、無数の研究施設、そして潤沢な資源。現在の地球連邦軍とアナハイムが有するその圧倒的な資本力の前に、僻地のアクシズが単独で技術的優位に立つ道理など、もはや一つも残されていなかった。
だからこそ、地球圏から送られてきたその技術の結晶は、新たなジオンの主力となるに相応しい、喉から手が出るほど欲しい「新しい力」の形であった。
アクシズの冷え切った巨大な格納区画。
煌々と照らされる作業用ライトの中心に、図面を元にアナハイムで極秘製造され、偽装貨物船によって運び込まれたばかりの一機の試作機が屹立していた。
ジオンの系譜を強く感じさせる曲面主体の重厚な装甲。しかし、その関節部には旧来のモノコック構造にはない、ムーバブルフレーム特有の靭やかで力強い駆動機構が垣間見えている。
「これが『ドミンゴ』……か。中々に良さそうな機体だな」
シャアは、見上げるような巨躯を誇るその機体――後に地球圏で『マラサイ』という名で呼ばれることになる機体の開発コード――を見上げながら、ポツリと呟いた。
彼の瞳に映っていたのは、政治的な駆け引きの道具でも、組織を動かすための象徴でもない。純粋に「洗練された美しい機械」としての姿であった。
アクシズの指導者層として、ハマーンやミネバを支えるために日々書類の山と格闘し、政治家としての仮面を被り続けているシャア。だが、真新しい新型機を前にした途端、彼の胸中には年甲斐もない、まるで少年のようにワクワクとする無邪気な高揚感が沸き起こっていた。
結局のところ、どれだけの時が経ち、どれほどの重責をその身に背負おうとも。
シャア・アズナブルという男の魂の根源は、大空と宇宙を駆ける『パイロット』なのだ。
「……大佐。各部の初期通電テストと、OSのローカライズが間もなく完了します。テストパイロットには、熟練の者を――」
整備チーフが報告に訪れたその言葉を遮るように、シャアは不敵な笑みを浮かべて振り返った。
「いや、デモンストレーション飛行は私がやろう」
「えっ……? し、しかし大佐! 未知のフレーム構造を持つ機体です。万が一のことがあれば……!」
「何、機体限界を見るのも、エースの務めだからな」
シャアは、止める間も与えず、用意されていたノーマルスーツのヘルメットを小脇に抱えた。
本来であれば、アクシズの最高幹部の一人であり、指導者層である彼が、得体の知れない新型試作機のテストパイロットを自ら買って出るなど、軽率の極みである。一歩間違えれば、組織のトップを失う危険すらあるのだ。
だが、その場にいた整備兵や、周囲を取り囲んでいた将兵たちの視線に、非難や呆れの色は一切なかった。
むしろ、その逆であった。
伝説の『赤い彗星』が、再び自らの意志でモビルスーツのコックピットに座る。
その事実を前にして、周囲の者たちの目は、熱烈な羨望と畏敬の念にキラキラと輝いていたのだ。彼が操縦桿を握る姿を見られるというだけで、アクシズの将兵たちの士気は限界を突破するほどに跳ね上がる。それが、シャア・アズナブルという男が持つ、理屈を超えた絶対的なカリスマであった。
「さあ、見せてもらおうか。連邦とアナハイムが産み出した、新しい時代の力とやらを」
シャアは、まるで古い友人に会いに行くかのような軽やかな足取りで、ドミンゴのコックピットへと続くタラップを駆け上がっていった。
護るべき者のために、自らが最強の矛にして盾となる。その誇り高き覚悟を胸に、赤い彗星は再び、宇宙の暗闇へと飛び立とうとしていた。
―――
アクシズの広大な宇宙空間を見渡せる展望エリア。
そこには、分厚い防弾ガラス越しに暗黒の宙を見つめるハマーン・カーンと、幼き君主ミネバ・ラオ・ザビ、そして彼女の遊び相手として連れ立っている数人の少女たち――クローンとして生み出された『プル・シリーズ』の姿があった。
『大佐が自ら新型機のテストに出た』
という情報は、またたく間に基地内を駆け巡り、彼女たちの耳にも届いていたのだ。
「ああっ、来た! シャアだ、シャアが飛んでる!」
「速い、すごーい!!」
プルたちが歓声を上げ、防弾ガラスにペタペタと手をついて張り付く。
彼女たちの視線の先、漆黒の宇宙空間を切り裂くようにして、一筋の『赤い尾』を引いて飛翔する機体があった。
新型試作機『ドミンゴ』。
機体色こそまだテスト用の地味なカラーリングであったが、メインスラスターから噴き出す莫大な推進力の光が、シャア・アズナブルというパイロットの代名詞である「赤い彗星」の軌跡を疑似的に描き出していた。
ドミンゴは、アクシズの宙域を縦横無尽に駆け抜けていく。
急加速、急停止、そして機体の限界強度を試すかのような暴力的なハイマニューバ。
しかし、その動きには一切の無駄も、挙動のブレもなかった。パイロットの意図した通りに、まるで手足の延長のように機体が宇宙を舞っている。
『……素晴らしいな』
コックピットの中で、シャアは感嘆の息を漏らしていた。
操縦桿から伝わってくるフィードバックが、旧来のジオン系モビルスーツとは次元が違っていた。
ドミンゴの関節部――ムーバブルフレームの駆動部には、連邦の基礎技術である『マグネット・コーティング』が標準レベルで施されている。
かつて一年戦争の末期、シャアが搭乗した名機ゲルググでさえ、限界機動時には関節の摩擦によるわずかな遅延(タイムラグ)が生じていた。
しかし、この機体の関節は信じられないほど滑らかに、そして瞬時にパイロットの反射神経に追従してくる。
操作性も極めて良好であり、シャアは改めて、地球連邦とアナハイム・エレクトロニクス社が蓄積してきた底知れぬ技術力に舌を巻いていた。
だが、シャアの関心は単なるハードウェアの優秀さだけには留まらなかった。
機体のOSを極限まで引き出し、様々な挙動を試していくうちに、彼はシステムの中に「ある男」の強烈な思想が刻み込まれていることに気がついたのだ。
『……この予測アルゴリズム、そして機体の姿勢制御の癖。間違いない、アムロ・レイの戦闘データだ』
かつての最大のライバルであり、現在地球圏で孤軍奮闘している男。
彼の残した実戦データは、連邦系の教育型コンピューターの基礎として徹底的に解析され、あらゆる機体のOSに標準搭載されるようになっていた。アナハイムが設計したこのドミンゴも例外ではない。
『この機体であれば、新兵でも存分に扱えよう。……だが、このシステムは問題だな』
シャアは、コックピットの中で小さく首を振った。
アムロのデータが組み込まれたシステムは、確かにパイロットの生存率を飛躍的に高め、素人であっても一定以上の戦果を挙げられるように機体をサポートしてくれる。基礎としては、これ以上ないほどに申し分ない。
だが、それは同時に「人を堕落させる」危険性を孕んでいた。
あらゆる機体が同じ「アムロ・レイの癖」の中で動くということは、戦場における挙動が画一化されるということだ。
システムの補助による動きを「自分の腕が上がった」と過信したパイロットが、敵陣へ特攻を掛けたとしたらどうなるか。敵もまた、同じシステムを搭載し、同じような最適解の動きをする機体に乗っているのだ。
結果として、予測容易な動きを読まれ、複数の敵に囲まれて嬲り殺しにされる未来が目に見えている。
『機械に頼り切った画一的な動きでは、予測不能な戦場は生き残れない。……基礎としては完璧だが、真の「戦士」としては、逆に扱いが難しい代物になるだろうな』
シャアの見解は、連邦のモビルスーツ開発が陥りつつある「システムの過信」という罠を、正確に見抜いていた。
アムロ自身はシステムに頼るのではなく、システムを凌駕する直感で動いているからこそ強いのだ。
そのデータを上澄みだけ掬い取ったところで、第二のアムロ・レイは生まれない。
「……やはり、私自身の腕で限界を超えるしかないということか」
シャアは薄く微笑み、さらに操縦桿を深く倒し込んだ。
ドミンゴはスラスターを全開にし、アムロのデータによるセーフティ・リミットを力技でねじ伏せながら、アクシズの防衛ラインを掠めるような超絶的なドリフト機動を見せつけた。
――その圧倒的な機動の美しさに、展望エリアの空気は熱狂に包まれていた。
「すごい、すごーい!! シャア、かっこいい!」
プルたちは顔を寄せ合い、キラキラと輝く無数の星のような瞳で、赤い軌跡を追って歓声を上げている。純粋な彼女たちの目にも、あの機体が放つ「強さ」は理屈抜きで伝わっていた。
その傍らで、ハマーン・カーンは腕を組み、密かに、しかし隠しきれない優越感を滲ませた「したり顔」を浮かべていた。
(当然だ。あの男は、シャア・アズナブルなのだから。連邦の新しい玩具など、彼の手にかかれば容易く手足となる)
彼女にとって、シャアの活躍はアクシズの誇りであり、何より自分自身の喜びでもあった。
そして、その輪の中心に立つ幼き君主、ミネバ・ラオ・ザビもまた、窓ガラスに小さな手を押し当て、じっとその赤い光を見つめていた。
「……シャア」
プルたちのように無邪気にはしゃぐことはない。だが、ミネバの胸の奥には、彼が宇宙を駆ける姿を見るたびに、深く温かいものが満ちていくのを感じていた。
冷たく寂しいアステロイドベルトの暮らしの中で、彼はいつも変わらず、自分たちを護るための巨大な盾として立ち塞がってくれている。その頼もしさと、彼が背負ってくれているものの大きさを、ミネバは幼いながらもしっかりと実感していた。