宇宙世紀0087年 1月10日 ―― 祈りと瓦礫の地
オーストラリア大陸、シドニー湾。
かつて地球連邦の美しい都市が存在したその場所は、今や巨大な円形の海と化し、その縁にはえぐり取られたような荒野が広がっている。
一年戦争の開戦劈頭、ジオン公国軍による『ブリティッシュ作戦』――コロニー「アイランド・イフィッシュ」の落着によって生み出された、人類史上最大にして最悪の傷跡である。
宇宙世紀0087年、1月10日。
落着からちょうど8年というこの日、巨大なクレーターの縁には、無数の人々が集まり、暗く沈んだ水面に向かって静かに祈りを捧げていた。
声を上げて泣き崩れる者。後悔に身を震わせる者。そして、決して癒えることのない憎悪と怒りを露わにし、天を睨みつける者。
だが、どれほど感情を爆発させようとも、どれほど血の涙を流そうとも、失われた命と日常が再び彼らの手元に戻ってくることはない。それは、戦争というものがもたらす残酷な必然であった。
巨大な傷跡の周辺には、8年が経過した今もなお、仮設住宅とトタン屋根が連なる難民キャンプが広がっている。
戦後復興の恩恵は、このグラウンド・ゼロにはなかなか届かない。それでも人々がこの過酷な地に住み続けるのは、ここが彼らの故郷であり、死に場所であり……何より、理不尽に灰となった「愛おしき人だったもの」の傍から、どうしても離れられないからであった。
祈りの声が響く鎮魂の日であっても、難民たちの生活が止まることはない。
クレーターの縁から少し離れた瓦礫の山では、今日も黙々と重低音を響かせ、巨大な機械が動いていた。
旧ザク――いや、それだけではない。ザクIIや作業用に改修されたジムなど、一年戦争で旧式化した数多くのモビルスーツたちが、濛々と土煙を上げて立ち働いている。
しかし、彼らの手に握られているのは、命を奪うためのマシンガンやヒート・ホークではない。巨大なショベルであり、鉄骨を運ぶためのワイヤーであり、コンクリートを砕く破砕機であった。
一年戦争の終結後、軍を解雇された大量のモビルスーツパイロットたちが民間に流れ着いた。彼らの多くは、その特殊な操縦技術を活かし、建設業、ジャンク屋、解体業者、そして復興支援の現場へと散っていった。
かつて血を流し、街を焼くために使われた人型兵器は、今や重機として人々の暮らしを支え、破壊よりも建設的な行為を担うための『腕』となっていたのだ。
その中で、一台の泥に塗れた旧ザクが、崩落した旧市街の巨大なコンクリート塊を器用に、そして驚くべき精密さで撤去していた。
コックピットの中で操縦桿を握るのは、一人の男。
伸びた銀髪を無造作に後ろで結い、油にまみれた作業着姿で、ただ黙々とモニターを見つめながらペダルを踏み込んでいる。
男は、自らを『アレクサンダー・ベッカー』と名乗っていた。
だが、彼自身にとって、その名は仮初めの、本当の自分ではない抜け殻のようなものであった。
彼の本当の名は、アナベル・ガトー。
数年前、デラーズ・フリートによる『星の屑作戦』の動乱。その最終局面に立ち会った彼は、武人の本懐として戦場で散ることを望んだ。だが、彼を縛り付けたのは、他でもないジオンの正統なる後継者、アルテイシア・ソム・ダイクンから下された『刑罰』であった。
「死んで逃げることは許さない。生きて、這いつくばってでも、自らの罪と向き合いなさい」
武人としての名誉ある死を許されず、「生き恥」を晒して贖罪することを強いられた男。
行き場を失った彼は、ジオンの罪の象徴とも言えるこのシドニーの瓦礫の山へと流れ着き、名を変え、一人のモビルスーツ工員として派遣されてきたのである。
当初のアレクサンダーは、極めて気難しい質の男であった。
己のプライドを粉々に砕かれた屈辱と、死に場所を失った空虚さから、事あるごとに「……こんな醜態を晒すことになろうとは」と独り言を呟き、周囲の作業員たちからも浮いた存在であった。
しかし、この数年間の過酷な、しかし血の流れない労働の中で。
彼の周囲には、ほんの少しだけ「変わったこと」が起きていた。
難民キャンプの孤児たちが、彼のねぐらであるプレハブ小屋のすぐ傍で、いつの間にか住み着くようになっていたのだ。
親を失い、その日を生きるのに必死な子供たち。彼らがもたらす喧騒は、初めはガトーにとって煩わしいものでしかなかった。だが、彼らの屈託のない笑顔や、日々の細やかな日常の営みは、頑なに閉ざされていたガトーの心に、雪解け水のように少しずつ浸透していった。
「ねえアレックス! 今日はあの大きな鉄骨、どかしてくれるの!?」
「アレックス、また難しい顔してる! もっと笑ってよ!」
泥だらけの手でモビルスーツの装甲に触れ、無邪気に笑いかけてくる子供たち。
ガトーは、そのたびに作業の手を止め、極めて生真面目な顔のまま答えるのだ。
「……ああ。本日の工程では、第4区画の障害物を排除する予定だ。危険だから、作業半径には近づかないように」
子供たちからすれば、いつも仏頂面の大きな男をからかい、和ませようとしているだけだったのだろう。だがガトーにとっても、何の罪もない彼らとのやり取りは、自分が「生きていても良い」と錯覚させてくれる、唯一の救いとなっていた。
そう。この忌まわしい慰霊の日が、やって来るまでは。
その日の夕刻。
作業を終え、プレハブ小屋の前で旧ザクの関節部にグリスを差していたガトーの元に、不釣り合いな影が落ちた。
「……アレックス、あの人たち、だぁれ?」
ガトーの足元に隠れるようにして、子供たちの一人が怯えた声を上げる。
振り返ると、瓦礫の山には似つかわしくない、仕立ての良い黒服に身を包んだ数人の男たちが立っていた。彼らの纏う空気は、明らかに役人や復興支援局のそれではなく、硝煙と暴力の匂いが染み付いた『軍人』のそれであった。
「……何の用だ。ここは遊び場ではないぞ」
ガトーが低い声で牽制するが、男たちは意に介さない。
そのうちの一人が、珍しがって近づこうとした孤児の腕を「邪魔だ、薄汚いガキが」と吐き捨てながら、乱雑に突き飛ばした。
ドサッ、と。
子供が瓦礫の上に尻餅をつき、痛みに顔を歪める。
その瞬間。
ガトーの中で、数年間封印し続けてきた『ソロモンの悪夢』としての覇気が、爆発的に膨れ上がった。
「やめんか!!」
シドニー湾の風を切り裂くような、腹の底に響く凄まじい一喝。
黒服の男たちが、その尋常ならざる気迫に思わず数歩後ずさる。
ガトーは、突き飛ばされた子供を庇うように立ち塞がり、鬼神の如き形相で男たちを睨み据えた。
「貴様ら、それでも役人の類か!! 弱き者を虐げ、恥じることもないのか! 貴様らには、名誉というものが無いのか!!」
その声には、単なる労働者の怒りではない、無数の死線を潜り抜けてきた本物の戦士だけが持つ、絶対的な威圧感が込められていた。
「――おやおや、これは失敬」
男たちの後ろから、拍手をしながら進み出てきたのは、首領格と思われる中年の男であった。彼は薄ら笑いを浮かべながら、ガトーの顔を値踏みするように見つめた。
「この近くに、旧式のザクをまるで手足のように、精密かつ神業的な速度で動かす凄腕の操縦士がいると聞いてな。わざわざ足を運んだ次第だ」
首領の男は、サングラスの奥の目を細め、決定的な一言を放った。
「……お前が、アナベル・ガトー少佐なのだろう?」
ガトーは、目を見開いた。
直感した。目の前の男たちは、復興のための労働力ではなく、紛れもなく『軍事力』として自分を欲しているのだと。
だが、彼は顔を強張らせながらも、声高にそれを否定した。
「知らんな!! 私はアレクサンダー・ベッカー。しがない一介の重機乗りだ。人違いも甚だしい、帰れ!!」
彼をこの地に縛り付けているのは、アルテイシアからの刑罰だ。
死を許されず、血塗られた過去と向き合い、このシドニーの地で平和のために汗を流すこと。それが彼に与えられた唯一の贖罪の道なのだ。再びモビルスーツを「兵器」として使い、戦場に舞い戻ることなど、絶対に許されることではなかった。
「ふむ……とぼけるか。だが、我々は調べがついている。星の屑の残党であり、一年戦争の英雄。……我々は今、貴方のような類稀なる人材を喉から手が出るほど探している。是非とも、我々の同志として協力願いたい」
「断る!! 私はもう、誰の命も奪う気はない!」
ガトーが頑なに首を縦に振らないのを見て、首領の男は溜息をついた。
「そうか。それは残念だ。……交渉が決裂した以上、目撃者には消えてもらうしかないな」
男が顎でしゃくると、部下の黒服たちが懐から無骨な拳銃を取り出し、ガトーの足元で震えている子供たちへと銃口を向けたのだ。
「なっ……!?」
ガトーの表情が、驚愕と激しい怒りに凍りついた。
「貴様らっ!! 何の罪もない子供たちだぞ!!」
「戦争に罪の有無など関係ない。我々に従わないのであれば、この孤児たちがどうなっても知らんぞ、ガトー少佐」
卑劣極まりない脅迫。
かつてのガトーであれば、己の誇りのために即座に男たちの喉笛を掻き切っていただろう。
だが、今の彼にはそれができなかった。彼らの銃弾が、自分の背後にいる無力な子供たちを貫く光景が、痛いほどに想像できてしまったからだ。
この数年間。
生き恥を晒し、絶望の中で見出した、細やかで温かい日常。
自らの贖罪の対象であり、いつしか彼自身の心に深く根付いていた、愛おしい命たち。
(……アルテイシア様。申し訳、ありません。私は……)
ガトーは、ギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締めると、ゆっくりと、その膝を大地に突いた。
「……やめろ。子供たちには手を出すな」
「ほう。協力してくれると?」
「……私の命、好きに使うがいい。だが、彼らに触指一本でも触れてみろ。地獄の底まで追い詰めて、貴様らを八つ裂きにするぞ」
屈辱に打ち震えながらも、ガトーは子供たちを守るために、己の魂を再び修羅道へ落とすことを選んだ。渋々と、男たちの脅迫に従うしかなかったのである。
「結構。やはり貴方は、噂通りの義の男だ」
首領の男は満足げに笑うと、銃を収め、これ見よがしに懐から一枚の認識票を取り出して見せた。
「我々は、ティターンズの専横からこの地球を解放するための組織だ。……歓迎するぞ、ガトー少佐。我ら反地球連邦組織・『カラバ』へ」
地球の重力に魂を引かれた者たちによる、もう一つの正義の顔。
宇宙世紀0087年、冬。
シドニーの地に沈んだ『ソロモンの悪夢』は、抗えぬ運命の糸によって、再び戦火の渦中へと引きずり出されていったのである。
―――
深い森に囲まれた閑静な土地に建つ『地球連邦軍・戦争博物館』。
閉館時間を過ぎ、薄暗くなった館内には、一年戦争で使われた旧式の兵器や遺品が、まるで時が止まったかのように静かに展示されている。その一角にある館長室で、柔道着のようながっしりとした体格の男が、暗号化された極秘通信のモニターを険しい顔で見つめていた。
博物館館長、ハヤト・コバヤシ。
かつてホワイトベースのクルーとして一年戦争を戦い抜き、ガンタンクやガンキャノンのパイロットとして死線を潜り抜けた男である。
「……ついに、上が動くか」
ハヤトは、モニターに表示された短い文字列を読み終えると、太い息を吐き出してデータを完全に消去した。
もたらされた一報。それは、反地球連邦組織『カラバ』が、ティターンズに対する本格的な武力行使に向けて、ついに具体的な「準備」を開始したという合図であった。
宇宙世紀0087年現在、地球連邦軍はすでにかつてのような一枚岩ではなかった。
ジャミトフ・ハイマン率いるティターンズが軍内部で権力を独占し、地球至上主義を掲げて暴走する中、それに反発する勢力もまた、水面下で確かな形を成しつつあった。
ブレックス・フォーラ准将の理念に賛同し、宇宙や月面の企業を巻き込んで結集した宇宙の反体制派――エゥーゴ。
そして、重力の下であるこの地球上でエゥーゴと呼応し、ティターンズの監視網を掻い潜りながら地上部隊として組織された支援ネットワーク――カラバ。
ハヤト・コバヤシは、この時すでに、カラバの地上における中核メンバーの一人として名を連ねていた。
「パイロットのリストアップ、輸送機の確保、連邦軍内部の同調者からのモビルスーツの横流し……。やるべきことは山積みだな」
ハヤトは、手元の古びた手帳を開き、暗号化された自分だけのメモに目を走らせた。
彼の役割は多岐にわたっていた。ホワイトベースの英雄というネームバリューと、連邦軍内部に残るかつての戦友や知人たちのコネクションを最大限に活かし、カラバの戦力を整えるための「兵站と調達」を担っているのだ。
しかし――ハヤト・コバヤシという男の根底には、決して曲げることのできない真っ直ぐな『芯』があった。
彼は、目的のためなら手段を選ばないような、暗い裏工作に手を出す男では絶対にない。
連邦軍の倉庫から物資を横流ししてもらう際も、脅迫や賄賂ではなく、あくまで「ティターンズのやり方に不満を持つ者」との義理と人情、そして信頼関係によって交渉をまとめていた。
もしもこの時。
シドニーでガトーを勧誘したカラバの工作員たちが、「罪のない孤児を人質に取る」という卑劣な手段で戦力をかき集めている事実をハヤトが知っていたならば。彼は烈火の如く怒り狂い、味方であろうとその工作員たちを殴り飛ばしていただろう。
エゥーゴもカラバも、決して純白の正義の集団ではない。
巨大な軍事組織と戦うためのレジスタンスである以上、ハヤトのような実直な理想主義者もいれば、シドニーの工作員のように泥水をすする冷酷な現実主義者も混在している。それが、組織というものの歪な実態であった。
「……アムロは今、シャイアンで教官をやっているんだったな。彼には、彼の戦いがある」
ハヤトは、窓の外の暗闇を見つめながら、かつての戦友の顔を思い浮かべた。
一年戦争の後、常に最前線で矢面に立たされ続けてきたアムロ。彼がようやく手に入れた教官という平穏な(少なくとも前線ではない)立場を、ハヤトは心から尊重していた。だからこそ、カラバの戦力としてアムロを巻き込むようなことは、彼の中では絶対に「あり得ない選択」であった。
アムロには、未来の若者を育てるという大役がある。
ならば、ティターンズという目前の脅威を引きずり降ろし、彼らが生きる世界を少しでもまともなものにする泥仕事は、自分たちカラバが引き受けなければならない。
「フラウ、それにカツたちには……また心配をかけることになりそうだな」
机の上に飾られた、妻であるフラウ・ボゥと、養子に迎えたカツ、レツ、キッカの笑顔の写真。
ハヤトは太い指でその写真の額縁をそっと撫でると、決意に満ちた強い眼差しで立ち上がった。
戦争博物館の暗がりの中で、歴史の遺物となった兵器たちが、再び始まる戦乱の足音を静かに見届けていた。