オーガスタの医療施設、その最も奥まった特別診察室。
セイラ・マスは、古くから彼女を個人的に支援し、絶対に情報が外へ漏れることのないよう手配された信頼の厚い老医師の前に座っていた。
「……おめでとうございます、マス代表。間違いありません。順調に育っていますよ」
エコー検査の画像から目を離し、老医師は深く、温かな笑みを浮かべて頭を下げた。
その言葉を聞いた瞬間、セイラの胸の奥底で、言葉にならない喜びと安堵が弾けた。自分の中に、確かにアムロと結ばれた愛の結晶が息づいている。それは、どれほど過酷な現実の中にあっても、間違いなく世界で一番尊い『奇跡』であった。
だが――。
医師が部屋を辞し、一人きりになった診察室で。エコー写真を見つめるセイラの背中を、唐突に、冷たい氷のような『不安』が駆け巡った。
(……私に、この子を護り切ることができるの?)
ジオン・ダイクンという、宇宙世紀の歴史を呪縛し続ける血の系譜。
エゥーゴ、ティターンズ、そしてアクシズ。再び地球圏を血の海に沈めようと蠢く巨大な闇。
自分は今、孤児たちを護るために強気な仮面を被り、政治という泥水の中で立ち回っている。しかし、本質的には、温かな『普通の家族』というものを知らずに育った不器用な女に過ぎない。
いつ命を狙われるか分からないこの状況で、私は本当に「母親」になれるのだろうか。
そして何より――。
(……アムロがこの事を知ったら、どう思うかしら)
彼は今、教官として平穏な日々を送り始めているが、本質的には最前線で血を流し続ける戦士だ。
私が妊娠したと告げれば、彼は間違いなく喜んでくれるだろう。だが同時に、彼の足枷になってしまうのではないか。彼に、これ以上『絶対に失ってはいけない致命的な弱点』を背負わせ、その精神を追い詰めてしまうのではないか。
アムロ自身が、彼女の言葉を聞く前に、ニュータイプとしての直感ですでにこの命の存在に気づき、一人で葛藤を抱え込んでいることなど、この時のセイラには知る由もなかった。
絶対的な歓喜と、それに等しい絶対的な不安。
セイラ・マスは、まだ見ぬ我が子の写真を見つめながら、静かに唇を噛み締めていた。
―――
同じ頃。
雪が舞い散るシャイアン基地の屋外テラスで、アムロ・レイは一人、吐く息を白く染めながら暗い夜空を見上げていた。
彼の心もまた、深い迷いと不安の底に沈んでいた。
セイラの胎内に宿る、新しい命の気配。それは彼にとって希望であると同時に、これまでにない巨大な『恐怖』でもあった。数え切れないほどの命を奪ってきたこの血塗られた両手で、あの無垢な命を抱きしめることができるのか。
これから確実に起こるであろう大戦乱の中で、セイラと子供を護り抜くことができるのか。
誰かに相談したかった。
だが、誰に? コジマ准将か? いや、軍の上層部にこのことを知られれば、間違いなくセイラたちの存在は『政治的な人質』として利用されかねない。
ならば、C・Lの戦友たちか。だが、彼らに自分の個人的な恐怖を吐露すれば、彼らを無用の感情論に巻き込むことになる。
英雄と祭り上げられたアムロ・レイの周囲には、無数の人間がいるにも関わらず、ただ一人の人間としての弱音を吐き出せる場所が、どこにも見当たらなかった。
「――こんな雪の降る夜に、直立不動で星の観察とは。相変わらず、お前は不器用な男だな、アムロ」
不意に背後から声が掛かった。
驚いて振り返ると、そこには湯気を立てる二つのコーヒーマグを両手に持った、長身の男が立っていた。
ブライトである。
彼は基地の視察に訪れていたのか、軍のコートを羽織り、いつものように険しくも、どこか面倒見の良い兄のような顔つきで歩み寄ってきた。
「ブライト……」
「顔に『悩んでいます』と書いてあるぞ。どうせ、誰にも言えずに一人で抱え込んでいるんだろう。……ほら、飲め。悩み事があるなら聞く」
ブライトは、一つマグカップをアムロへと差し出した。
受け取ったマグカップから伝わる熱が、冷え切っていたアムロの手のひらをじんわりと温める。
一年戦争の時から、ホワイトベースの艦長として、常に部下たちの命と向き合ってきた男。そして何より、ミライという妻を持ち、ハサウェイとチェーミンという二人の子供を育てている『父親』。
彼になら。彼になら、少しだけ話してもいいかもしれない。
「……笑わないで、聞いてくれるか?」
アムロは、マグカップの縁を両手で包み込みながら、ポツリポツリと、途切れ途切れに話し始めた。
セイラのこと。
彼女のお腹に、恐らく自分の子供が宿っていること。
それが嬉しい反面、どうしようもない恐怖に押し潰されそうになっていること。自分の血塗られた手が、親になる資格があるのかと怯えていること。
ブライトは、初めこそ目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。
アムロとセイラの関係は知っていたが、まさかこの時期に、新しい命を授かるとは予想外だったのだろう。だが、アムロの震えるような独白を最後まで黙って聞き終えると、ブライトは静かに息を吐き、夜空に向かって小さく笑った。
「……なんだ。お前でも、そんな普通の男みたいなことで怯えるんだな」
「ブライト……?」
「笑ってなどいないさ。当然のことだ」
ブライトは、コーヒーを一口すすると、かつての自分自身を思い出すように目を細めた。
「俺だって、ミライから初めてハサウェイを身ごもったと聞かされた時……震えたよ。嬉しいよりも先に、『俺なんかが親でいいのか』『もし俺が戦死したらどうなる』ってな。
お前と同じさ。
親になる不安なんてものは、ニュータイプだろうが英雄だろうが、みんな平等に叩きつけられるものなんだ」
ブライトのその言葉は、アムロの張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ緩ませてくれた。
「いいか、アムロ。戦場で敵を撃つことと、親になることは次元が違う。不安で当然、恐ろしくて当然だ。しょうがないことなんだよ」
ブライトは、アムロの肩を力強く叩いた。
「だがな……その『恐れ』こそが、お前を強くする。ただ無鉄砲に生き残ろうとするんじゃない。『絶対に生きて帰って、あの子を抱きしめる』という理由が、お前の背骨をこれまでにないほど強固に支えてくれるはずだ。……俺が、そうだったように」
「絶対に生きて帰って、抱きしめる……」
アムロは、その言葉を噛み締めるように反芻した。
「お前はもう、一人で戦っている戦士じゃない。護るべきものがある、一人の父親になるんだ。……セイラも、きっと同じように一人で震えているはずだぞ。お前が支えてやらなくて、どうする」
ブライトの先輩としての確かな励ましに、アムロの胸の中に渦巻いていた暗い恐怖が、少しずつ前を向くための『覚悟』へと変わっていくのを感じた。
「……ありがとう、ブライト。……少し、肩の荷が下りたよ。」
アムロの顔に、ようやくいつもの真っ直ぐな光が宿った。
「感謝するなら、無事に産まれた時に極上の葉巻でも奢ってくれ。……おめでとう、アムロ」
雪がしんしんと降り積もるシャイアンの夜。
英雄としての孤独に苛まれていた青年は、父親という名の偉大な先輩の言葉によって、自分の中に芽生えた新しい現実と、愛する女性の待つ場所へ、しっかりと向き合う決意を固めていた。
―――
静寂に包まれたオーガスタ研究所の特別居住区。
分厚いカーテンで冬の寒風を遮ったセイラ・マスの私室には、微かに甘いハーブティーの香りが漂っていた。
部屋のソファに腰を下ろしているのは、三人の女性たち。
施設の運営と子供たちの庇護を一手に担うセイラ・マス。
技術主任としてガンダムのアタッチメント開発に心血を注ぐクリスチーナ・マッケンジー少佐。
そして、オーガスタで強化人間たちの心のケアを支えているニュータイプ、クスコ・アルである。
「……そう。本当に、アムロ君との間に……」
クリスは、淹れたてのカップを両手で包み込んだまま、驚きに目を丸くしていた。
その隣で、物静かなクスコは柔らかな微笑みを浮かべ、祈るように両手を胸の前で組んでいる。
「ええ。今日、信頼できる医師に診てもらったわ。……まだ誰にも、アムロ本人にすら伝えていないのだけれど」
セイラは、自分のお腹にそっと手を当てながら、ぽつりとこぼした。
普段、政財界の狸たちを相手に一歩も引かない気丈な『アルテイシア代表』の顔はそこにはない。一人の、言いようのない不安に押し潰されそうになっている等身大の女性の姿がそこにあった。
「おめでとうございます、セイラ。……とても温かくて、優しい命の輝きを感じます」
クスコが、透き通るような声で祝福を紡ぐ。
「ありがとう、クスコ。……でもね、怖いのも事実なの」
セイラの蒼い瞳に、暗い影が落ちた。
「私の中に流れているのは、ジオン・ダイクンという呪われた血筋。連邦も、ジオンの残党も、決してこの血を放ってはおかないわ。……もしこの子が生まれたとして、私は本当に『母親』として、この小さな命を戦火や政治の泥水から護り切ることができるのかしら。ダイクンの業を、背負わせてしまうだけではないかと……」
それは、アムロが一人で抱えていた恐れと全く同じ、途方もない重圧であった。
クリスとクスコは、顔を見合わせた。
二人は共に、命を身に宿した経験はない。過酷な軍務と研究に身を置き、普通の家庭を持つことなど諦めてきた彼女たちにとって、愛する人との間に命を授かるということは、女として素直に「羨ましい」と感じる、眩しすぎるほどの奇跡であった。
だからこそ、その幸福の裏側にへばりついているセイラの絶望的なまでの不安が、痛いほどに理解できたのだ。
「……セイラ」
クリスが、カップをテーブルに置き、セイラの隣に座ってその華奢な肩をしっかりと抱き寄せた。
「血筋だの、政治だの、そんな馬鹿げた運命にこの子を巻き込ませたりなんかしないわ。
……あなたが一人で抱え込む必要なんてないのよ。何のために、アムロがいるの? 何のために、私たちやC・Lの仲間たちがいると思ってるの?」
クリスの力強い言葉に、セイラはハッと顔を上げた。
「あなたが母親としてこの子を護るのが不安なら、私たちが一緒に護る。どんな連邦の腐った役人も、ジオンのテロリストも、この子には指一本触れさせない。
……私が作った最新鋭の装甲で、絶対に弾き返して見せるわ」
「ふふっ……クリスチーナ少佐の言う通りです」
クスコもまた、優しくセイラの手を握りしめた。
「ニュータイプだとか、ダイクンの血だとか……そんなものは、この世界に産まれてくる理由にはなりません。
この子はただ、あなたとアムロ大尉に愛されるために産まれてくるのですから。……私たちが、必ずこの小さな光の盾になります」
二人の温かい手と、一切の迷いのない誓い。
その真摯な想いに触れ、セイラの目から張り詰めていた糸が切れたように、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
孤軍奮闘し、心を削りながら戦ってきた彼女の周囲には、すでにこれほどまでに強固で、優しい『絆』が結ばれていたのだ。
「……ありがとう。クリス、クスコ」
セイラは涙を拭い、ようやく、心の底からの安堵の微笑みを浮かべた。
自分のお腹を撫でるその手つきは、もはや迷える少女のものではなく、命を育む力強い『母親』のそれへと変わっていた。
「もし……もし女の子なら、『エレーネ』。男の子なら『アラン』そんな風に名付けたいと、密かに思っているの」
セイラは、ふと、愛おしそうに一つの名前を口にした。
「エレーネにアラン……。とても美しくて、優しい響きね」
クリスが目を細め、クスコも深く頷く。
「ええ。戦火とは無縁の、日の当たる場所で……いつか、名付けたこの子を、アムロと一緒に抱きしめられるように。……私は、絶対に負けないわ」
オーガスタの密やかな夜。
血の運命に翻弄されてきたジオンの姫君は、二人の頼もしい戦友の誓いに支えられ、自らの内に宿った『エレーネ』という名の小さな未来を、何に代えても護り抜くという強靭な覚悟を固めていた。
―――
密やかな夜会から、わずか数日後のこと。
『人の口に戸は立てられない』とは古くから言われることわざだが、オーガスタ研究所という閉鎖的で厳密な情報管理が敷かれているはずの軍事施設においても、その格言は恐ろしいほどの正確さをもって証明されることとなった。
発端は、極秘で診察に立ち会っていた一人の看護兵であった。
彼女に悪意など微塵もなかった。ただ、日々施設のために身を粉にして働くセイラに訪れた『新しい命』という奇跡が、一人の女性として純粋に嬉しかったのだ。
休憩室での、同僚とのほんの些細な立ち話。
「ねえ、ここだけの話なんだけど……マス代表、おめでたらしいのよ」
「えっ、本当!? それってつまり、あの英雄のアムロ少佐と……!」
ヒソヒソと、しかし確かな熱を帯びて交わされたその喜びの囁きは、偶然その場に居合わせた別の職員の耳に入り、そこから「そういえば……」という何気ない世間話として、警備兵へ、整備士へ、そして食堂の調理スタッフへと、まるで乾いた枯れ葉に火が燃え広がるような速度で研究所内を駆け巡っていったのである。
そして、その温かな噂話は、セイラが何よりも愛し、庇護している存在――オーガスタの強化人間である『子供たち』の耳にも、あっという間に届くこととなった。
その日の午後。
セイラが執務室で書類仕事をしていると、唐突にドアが勢いよく開き、施設の子供たちがわらわらと雪崩れ込んできた。
「セイラさん!!」
「セイラお姉ちゃん、本当なの!?」
目を丸くするセイラを取り囲み、子供たちはキラキラと輝く無邪気な瞳を一斉に向けた。その手には、折り紙で作られた不格好だけれど可愛らしい花飾りや、クレヨンで描かれた『あかちゃん』の似顔絵が握りしめられている。
「え……? な、何が本当なの……?」
セイラが戸惑いながら尋ねると、年長の一人が満面の笑みで身を乗り出した。
「赤ちゃんがいるんでしょ!? アムロお兄ちゃんとの赤ちゃん!」
「私たちに、新しい小さな『きょうだい』ができるって聞いたよ! おめでとう、セイラさん!」
「あっ……」
セイラは、自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
まだクリスとクスコ、そして医師しか知らないはずの超極秘情報が、まさか数日で子供たちにまで知れ渡り、こんなにも手作り感あふれる祝福の嵐に包まれることになるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「誰から……いえ、皆まで言わなくても分かるわね……」
セイラは額に手を当て、小さく溜息をつきながらも、どこか諦めたような苦笑いを浮かべた。
情報漏洩の早さには頭が痛くなる思いだが、彼らが向けてくれる純粋な『おめでとう』の言葉には、政治的な思惑も、血筋への呪いも、微塵も含まれていない。そこにあるのは、ただ新しい家族が増えることへの手放しの喜びだけだった。
「……ありがとう、みんな。でも、まだお腹の中のほんの小さな命だから、あんまり騒ぎ立てないでね。アムロにも、まだ内緒なんだから」
セイラが人差し指を口元に当ててウインクをすると、子供たちは「はーい!」と声を揃えて笑い、折り紙の花飾りをセイラのデスクに嬉しそうに並べていった。
(……それにしても、人の噂が拡がるのって、本当にあっという間ね)
子供たちの賑やかな後ろ姿を見送りながら、セイラはそっと自分のお腹に触れた。
悪意のある情報であれば、これほど早くは広まらなかったかもしれない。誰かが誰かの幸せを願い、祝福したいという『善意』だからこそ、噂は誰も止めることなくオーガスタ中に拡がってしまったのだろう。
「……こんな温かい場所なら、あなたもきっと、安心して産まれてこられるわね」
窓の外の寒風とは裏腹に。
セイラ・マスの執務室は、人々の噂が運んできた優しさと無垢なる祝福によって、まるで春が訪れたかのようなポカポカとした温もりに満ちていた。