「――対象『アルテイシア・ソム・ダイクン』の身体データに、特筆すべき変容を確認。……妊娠の初期段階と推測されます」
地球連邦軍情報局、あるいはティターンズの息のかかった暗部。
薄暗いモニター室で、無機質な報告の声が響いていた。
セイラ・マスの妊娠、そしてその父親が誰であるかという決定的な事実を連邦軍の上層部が把握したのは、皮肉なことに、セイラ自身が愛する男にそれを打ち明けるよりもずっと前のことであった。
それは、彼らが卓越した諜報能力を持っていたからではない。
施設の定期検診から吸い上げられた彼女の血液検査やバイタルデータ。
それを、権限を悪用して勝手に覗き見る者たちがいたという、ただそれだけの、極めて卑劣で事務的な情報漏洩であった。
そもそも、オーガスタで孤児院を運営するセイラの背後には、常に連邦の『監視の目』が張り付いている。彼女が鬱陶しくはないと割り切っていたとしても、監視の事実は変わらない。
彼女がいつ施設を出て、誰と会い、シャイアンのアムロの邸宅へいつ向かったのか。
休日の夜、二人が寝室の明かりを落とし、いつからいつまで、どれほどの時間を共に過ごしたのか――。
軍の英雄と、ジオンの姫君。
その二人の間で行われる夜の営みの頻度や時間帯に至るまで、彼らのプライベートは文字通り「赤裸々」に記録され、情報局のデータフォルダに無機質なテキストとしてファイリングされていた。
個人としての尊厳などそこにはない。彼らにとって、世界で最も神聖で愛おしいはずの時間すらも、連邦からすれば『政治的リスクの算定材料』でしかなかったのである。
上層部の狸たちは、その事実を知ってなお、すぐには動かなかった。
彼らにとって、二人の間に産まれる子供は、アムロ・レイを連邦の鎖に繋ぎ止めておくための「究極の人質」になり得る。泳がせておいて損はないと、暗闇の中でただ薄気味悪い笑みを浮かべていた。
―――
一方、オーガスタとシャイアン。
当事者であるセイラが、自らの内に宿る命の存在をアムロに告白するまでには、そこからさらに『二ヶ月』という決して短くない期間を要した。
言う機会がなかったわけではない。
教官となったアムロとは定期的に顔を合わせていたし、同じベッドで身を寄せ合い、彼の温もりを感じる夜も幾度となくあった。
だが、セイラは口を閉ざした。
連邦の狸たちが下劣なデータとして命を把握していたのとは違い、彼女にとってそれは、自分とアムロの人生を根底から変えてしまう、あまりにも重く、尊い事実であったからだ。
つわりによる体調の波、自分自身の母親としての覚悟、そして、戦士である彼に『父親』という十字架を背負わせることへの恐れ。
それらの感情を自分の中で整理し、決して揺るがない強さへと昇華させるために、彼女にはどうしても二ヶ月という時間が必要だったのである。
「……ごめんなさい、アムロ。もう少しだけ、待っていて」
夜、眠る彼の広い背中を見つめながら、セイラは誰にも聞こえない声で何度も謝罪し、お腹の子ににそっと語りかけていた。
そして。
アムロ・レイもまた、セイラの身体に起きている決定的な変化を、とうの昔に――それこそ彼女が医師の診断を受けるよりも前から――直感的に知り得ていた。
ニュータイプとしての共感能力だけではない。
彼女の微かな息遣いの変化。肌から香る匂いの違い。無意識にお腹を庇うような、愛おしげな仕草。
何より、自分に向けられる彼女の瞳の奥に、これまでになかった「母性」という名の深い揺らぎが宿っていることを、彼が見逃すはずもなかった。
だが、アムロは決して、自分からその事実を表に出そうとはしなかった。
「……セイラ、無理はしなくていい。少し休もうか」
体調が優れない彼女に温かい紅茶を淹れ、ただ静かに背中を撫でる。
言葉の端々に微かな動揺を滲ませる彼女を、深く、力強い腕で抱きしめる。
彼がしたことは、ただそれだけであった。
アムロには分かっていたのだ。
セイラが真実を隠しているのは、自分を信頼していないからではない。彼女自身が、自分たちの複雑すぎる運命と向き合い、愛するが故に一人で必死に足掻いているのだということを。
だからこそ、アムロは待った。
連邦がデータで覗き見るような無粋な真似はしない。ニュータイプの直感で心の中を暴くこともしない。
一人の男として、彼女が自らの意志で顔を上げ、その美しい声で『真実』を聞かせてくれる、その時を。
―――
宇宙世紀0087年、春の足音が近づく3月の終わり。
シャイアンの邸宅の窓辺に、長く厳しい冬の終わりを告げるような、柔らかな日差しが差し込んでいた午後。
ソファに隣り合って座り、静かな時間を過ごしていた二人の間に、不意に、セイラの深呼吸の音が落ちた。
「……アムロ」
二ヶ月間、ずっと喉の奥につかえていた言葉。
セイラは、自分の膝の上でギュッと両手を握りしめ、そして、真っ直ぐにアムロの瞳を見つめた。
「ずっと、言えなくてごめんなさい。……あなたに、聞いてほしいことがあるの」
アムロは、手元にあった本を閉じ、テーブルに置いた。
彼の瞳には、一切の驚きも、焦りもない。ただ、春の陽だまりのように底知れなく温かく、彼女のすべてを受け入れる覚悟に満ちた光だけがあった。
「ああ。聞かせてくれ、セイラ」
その穏やかすぎる返答と、自分を包み込むような優しい声色に触れた瞬間。
セイラは、アムロが『とうの昔にすべてを知りながら、自分が言い出すのをずっと待っていてくれた』のだという事実に、はっきりと気がついた。
途端に、二ヶ月間張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れ、セイラの蒼い瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「……私、あなたとの子供を授かったわ。私の中に、私たちの命がいるの……っ」
震える声で紡がれた、待ちに待った告白。
アムロは静かに微笑むと、涙を流すセイラの肩を抱き寄せ、自分の胸にその頭をうずめさせた。
「……ありがとう、セイラ。僕に話してくれて」
「アムロ……っ、知っていたのね……ずっと前から」
「知っていたよ。でも、君の口から聞きたかったんだ」
アムロの大きくて温かい手が、セイラの背中を、そして新しい命が宿るそのお腹を、慈しむように優しく包み込んだ。
連邦の監視網がどれほど彼らの生活を覗き見ようとも。
世界がどれほど残酷なデータで彼らを管理しようとも。
二人が言葉を交わし、涙を流し、互いの温もりを確かめ合ったこの瞬間の『真実の重み』だけは、決して誰にも奪うことのできない、不可侵の聖域であった。
―――
連邦の厳重な監視網から吸い上げられた、アルテイシア・ソム・ダイクン懐妊という極秘情報。
しかし、この世界における情報の漏洩とは、決して上から下へ水が流れるように単純なものではない。連邦軍内部の暗部にアクセスし、監視されている「英雄と姫君」の動向を定期的に探り出していた者たちがいた。
連邦の内部に深く巣食う、ジオンの残党とその協力者たちである。
セイラ自身は、この奇跡のような出来事を、自らが真に信頼できる限られた者たちにのみ伝えていた。小惑星帯のアクシズではなく、月の裏側やサイドの暗がりに身を潜める穏健派――例えば、スウィートウォーターに身を寄せる隻眼の将、ゲラート・シュマイザーら旧ジオンの忠臣たちに対してである。
彼らは姫君の幸せを静かに寿ぎ、いざという時の保護の準備を秘密裏に進めていた。
だが、無情にも情報を外部へ、それも最も悪意のある形で大々的に漏らしたのは、彼らではなかった。
手段を選ばず『ジオン再興』を狂信的に掲げる過激派や、ザビ家の怨念を引き継ぐ残党勢力であった。
「ジオンの忘れ形見たる、我らがアルテイシア様が子を成された」
その一報は、目に見えない電波と暗号通信に乗り、暗く冷たい宇宙を漂う残党たちの間に、瞬く間に熱狂の炎として燃え広がっていった。
ジオン・ダイクンの正統なる血統が、次代へと受け継がれる。それは、敗戦の屈辱に耐え、身を潜めてきた彼らにとって、干からびた大地に降る狂気じみた「恵みの雨」であった。
父親が連邦の白い悪魔であるという事実など、彼らにとっては都合よく伏せられるか、あるいは「連邦の英雄すらもジオンの血に取り込まれた」と曲解された。
新たな大義を得たジオン残党たちの動きは、この日を境に、不気味なほど活発化していくことになる。
しかし、このジオン残党の熱狂の裏には、さらなる黒黒とした『策謀』が渦巻いていた。
情報の拡散と残党の煽動には、地球連邦軍内部でティターンズと暗闘を繰り広げている反体制派閥――『エゥーゴ』が、深く一枚噛んでいたのである。
理由は極めて現実的で、そして冷酷であった。
エゥーゴが単独で、連邦軍の全権を握りつつあるティターンズを相手に軍事行動を起こすには、彼らの組織規模と戦力はあまりにも脆弱すぎた。
アナハイムからの資金援助があるとはいえ、圧倒的な物量と正規軍としての権力を持つジャミトフを打倒するためには、どうしても「捨て駒」となる莫大な戦力が必要だったのである。
そこで彼らが目をつけたのが、宇宙に燻るジオン残党軍であった。
彼らをエゥーゴの戦力として抱き込むため、あるいはティターンズへの陽動として暴れさせるために、エゥーゴの工作員たちはセイラの情報を徹底的に掻き集め、意図的に残党の過激派へとリークしたのだ。
「ダイクンの遺児が子を宿した。ティターンズは彼女たちを人質にしようと狙っている」――そう囁くだけで、ジオンの残党は喜んで連邦に牙を剥く狂犬となる。エゥーゴにとって、アルテイシアの懐妊は、これ以上ないほど都合の良い『極上の撒き餌』に過ぎなかった。
「……なんという卑劣な真似を。彼女の胎内に宿る命は、政治の道具ではないぞ!」
エゥーゴの旗艦アーガマ、あるいは秘密裏に設けられた会議室において。
組織の象徴であるブレックス・フォーラ准将は、自らの部下や出資者たちが裏で引いたその非道な筋書きを知り、激しい怒りと苦悩に顔を歪めていた。
ブレックス自身の内心は、決してそのような冷酷なものではなかったのだ。
彼がセイラの情報を集めさせていたのは、ティターンズの魔の手から彼女と産まれてくる子供を「危険地帯から保護し、匿うため」であった。偉大なるジオン・ダイクンの思想を継ぐ者として、無垢な命がジャミトフの政治的カードにされることだけは、何としても防ぎたかったという、純粋な大義と善意による行動であった。
だが、組織というものは決して一枚岩ではない。
ブレックスの高潔な理想をよそに、エゥーゴ内部の急進派や、損得勘定で動くアナハイムの重役、そして泥水をすすってでも連邦の覇権を握ろうとする実務家たちにとって、ブレックスの「保護」という大義名分は、残党を操るためのカモフラージュとして都合よく利用されたのである。
ブレックスがどれほどセイラを案じていようとも、動き出した巨大な歯車を止めることは、もはや彼一人の力では不可能であった。
セイラ・マスとアムロ・レイ。
二人が見出した細やかで尊い命の輝きは、本人の意志とは全く無関係な場所で、ティターンズ、エゥーゴ、そしてジオン残党という三つ巴の勢力を巻き込み、宇宙世紀を次なる大戦乱へと引きずり込む『最大の火種』として、暗い宇宙の底で赤々と燃え上がり始めていた。
―――
地球圏の闇の中で蠢くジオン残党が狂喜乱舞していたのと同じ頃。
ジオン共和国に潜伏する工作員たちから、暗号化された極秘レーザー通信が、はるか遠く、木星圏と火星軌道の間に位置するアステロイド・ベルトの巨大要塞――『アクシズ』へと届けられていた。
『アルテイシア・ソム・ダイクン、懐妊』
その事実を受信したアクシズの中枢は、地球圏の残党たちのような無責任な歓喜ではなく、極めて深刻な『動揺』と『警戒』の渦に呑み込まれることとなった。
元来、このアクシズという組織は、ア・バオア・クーの攻防戦から逃げ延びたザビ家絶対王政の支持者、特にドズル・ザビ配下であった武闘派の将兵たちによって構成されている。彼らにとって、ジオンの正統なる後継者はドズルの忘れ形見であるミネバ・ラオ・ザビただ一人であり、ダイクン派は長年の政敵であった。
「アルテイシアが子を成しただと? 馬鹿な……それでは、ダイクンの血脈が完全に息を吹き返してしまうではないか!」
「ただでさえ、キャスバル様のカリスマに惹かれる者が多いというのに。この上、ダイクンの直系たる赤子まで産まれるとなれば、ミネバ様の立場が危うくなる」
「血迷った過激派が、赤子を神輿にして我々アクシズに反旗を翻す可能性すらあるぞ……!」
アクシズの会議室では、重臣たちが額に脂汗を浮かべながら激しい議論を交わしていた。
彼らの危惧は当然である。現に、シャア・アズナブルがアクシズに帰還した際、彼が「ジオン・ダイクンの息子」であるというただそれだけの理由で、彼を総帥に担ぎ上げようとする不穏な動きがあったほどなのだ。
ダイクンの血を引く孫が誕生するという事実は、彼らザビ派にとって、決して手放しで喜べるものではなく、組織を根本から二分しかねない極めて危険な爆弾であった。
そして、このアクシズにおいて。いや、全宇宙において、アルテイシアの妊娠の報に最も激しいリアクション――精神的な衝撃を受けたのは、他でもない彼女の実の兄、シャア・アズナブル=キャスバル・レム・ダイクンであった。
「……そうか。アルテイシアが」
執務室のデスクで報告書を受け取ったシャアは、表面上は極めて冷静に、いつものように飄々とした冷たい仮面を崩すことなくその事実を口にした。
だが、その仮面の下で、彼の心はかつてないほどの巨大な嵐に見舞われていた。
愛する、たった一人の妹。
その彼女が母親になる。自分に、血の繋がった甥か姪ができる。それは、復讐と血塗られた人生を歩んできたキャスバルにとって、これ以上ないほどの『純粋な歓喜』であった。
だが、その相手は誰だ。
よりにもよって、自分が人生を懸けて打ち倒すべき最大の宿敵であり、因縁の相手であるアムロ・レイなのだ。
(あのアムロが、アルテイシアを……私の妹を抱き、あまつさえ子を成しただと……!?)
腹の底から煮えくり返るような殺意と嫉妬。
アムロを今すぐ八つ裂きにしてやりたいという激しい憎悪。
しかし同時に、最前線で血を流し続ける男が、アルテイシアを命懸けで愛し、彼女に「家族」という居場所を与えてくれたことに対する、どこかホッとするような微かな安堵。
祝福と呪詛。歓喜と殺意。
相反する極端な感情がマーブル状に混ざり合い、シャアの精神は文字通り『愛憎』の坩堝と化していた。彼はデスクの下で、革手袋に包まれた拳を、血が滲むほどに強く、限界まで握りしめていた。
そのシャアの隣に立ち、彼の様子をじっと見つめていたのは、アクシズの実質的な指導者であるハマーン・カーンであった。
シャアは完璧に動揺を隠しているつもりだったのだろう。だが、彼を誰よりも深く愛し、誰よりも深く見つめ続けてきたハマーンには、彼がどれほどの衝撃を受け、どれほど激しく心を揺さぶられているかが、痛いほどに理解できてしまった。
(……シャア。貴方は、それほどまでに……)
ハマーンの胸の奥を、チクリと冷たい棘が刺した。
それは、純粋な『嫉妬』であった。
もしも、私やミネバ様が傷ついた時、あるいは私に何らかの運命の変化が訪れた時。果たしてこの男は、これほどまでに深く思い悩み、感情を爆発させてくれるだろうか?
彼はいつも、私に対しては「指導者」としての冷たい壁を作り、決して心の奥底を見せてはくれない。それなのに、遠く離れた地球にいる妹のこととなれば、かくも容易く心を乱すのだ。
だが、ハマーンの抱いた感情は、単なる醜い嫉妬だけでは終わらなかった。
同時に彼女は、シャアの背中から伝わってくる「新しい身内が産まれる」という、彼が初めて見せた人間らしい『純粋な歓喜』の気配を感じ取っていた。
血塗られた復讐鬼ではなく、一人の不器用な兄としてのキャスバル。その顔を見せてくれたことが、ハマーンには堪らなく愛おしくもあったのだ。
(憎い……。だが、貴方がそこまで喜ぶのなら。私は、貴方のその喜びを護ってやりたい)
嫉妬と、それを凌駕しようとする母性にも似た深い愛。
ハマーンもまた、シャアへの複雑な感情に身を焦がし、冷たい瞳の奥で静かに揺らいでいた。
―――
「……シャア。ハマーン」
そんな大人の男女二人の、息が詰まるような愛憎と葛藤の空気を、少し離れた玉座からじっと見つめている少女がいた。
ミネバ・ラオ・ザビである。
彼女はまだ幼い。
だが、冷酷な政治の舞台で育ってきた彼女は、自分の最も信頼する騎士と、自分を護る盾の間に流れる空気が、決して言葉通りに受け取れるような単純なものではないことを、子供ながらに察知していた。
(大人の人たちは、どうしてあんなに難しいお顔をするのかしら。……でも、二人はとても、悲しくて、嬉しいのね)
ミネバは、何も言わずに自分の小さな両手をギュッと握り合わせ、遠い地球にいるという、まだ見ぬ『ダイクンの赤ん坊』の平安を、密かに祈っていた。
――宇宙世紀0087年。
英雄と姫君の間に宿った小さな命の知らせは、アステロイド・ベルトの最果てにまで到達し、眠れる巨象の目を覚まさせた。
地球圏でエゥーゴ、ティターンズ、そしてジオン残党が血みどろの動乱の幕を開けようとしていることを正確に察知したアクシズは、ついにその巨大な質量を動かす決断を下す。
「……メインスラスター、点火。我がアクシズはこれより、地球圏への帰還の途につく」
ハマーンの凛とした号令の下、暗黒の宇宙空間に、太陽の如き巨大な推進の炎が灯った。
愛する妹と、憎き宿敵。そして、次代を担うべき新しい命が待つ地球圏へ向けて。シャア・アズナブルを乗せた巨大な小惑星は、長く過酷な旅を、今まさに開始したのである。