白き流星の羽搏き   作:丸亀導師

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恋獄

 

漆黒の宇宙。太陽の恩恵が途絶え、絶対零度の静寂が支配するアステロイド・ベルト。

 

その果てしない虚無の空間において、突如として『光』が生まれた。

 

それは、恒星の輝きでもなければ、彗星の尾でもない。

火星軌道よりも外側に位置する辺境の小惑星帯において、人工的にこれほどの熱量と光を発するものが存在するとすれば、それは木星船団を往復する巨大なヘリウム3運搬船のメインスラスターくらいのものであった。

 

だが、その光点の座標は、木星船団の定期航路からはあまりにも外れすぎていた。そして何より、その光の波長と膨大なエネルギー放射の兆候は、通常の熱核ロケットエンジンの比ではない。

 

――小惑星基地アクシズの、巨大核パルスエンジンの起動。

 

地球圏へ向けての長大な旅路を開始した、ジオン残党軍の巨大な質量。そのエンジンの起動によって生じた莫大なエネルギーの光点は、光学観測と熱紋探知を担う地球連邦軍の遠宇宙監視網(ディープスペース・レーダー)によって、確かに捕捉されていた。

 

『アステロイド・ベルト宙域、セクターθにて、特大級の熱源反応を確認。……これは、木星船団のものではありません』

 

『熱紋を解析しろ。……馬鹿な、これは……小惑星サイズの質量が、自律的に移動を開始しているというのか!?』

 

観測施設のオペレーターたちは、モニターに表示された異常な数値に息を呑み、即座に連邦軍統合参謀本部へと第一級の警告データを打電した。

 

「何者かが、巨大な質量を伴って地球圏へ向かっている」と。

 

しかし――。

 

その致命的とも言える警告は、地球圏の中枢において、驚くほど呆気なく黙殺されることとなった。

 

現在の地球連邦軍内部には、アステロイド・ベルトからの正体不明の光点に対して「何者か?」と真剣に議論し、調査艦隊を派遣するような『余裕』は、ただの一欠片も存在していなかったのだ。

 

ジャミトフ・ハイマン率いる地球至上主義派『ティターンズ』は、軍の全権を掌握すべく、各コロニーや月面の企業への圧力を日増しに強めている。

 

それに対抗するブレックス・フォーラ率いる『エゥーゴ』、そして地上の『カラバ』は、水面下で戦力を集結させ、いつ暴発してもおかしくない一触即発の緊張状態にある。

 

さらには、それらの派閥の間を立ち回り、保身と権力闘争に明け暮れる正規軍の日和見主義者たち。

 

派閥闘争の激化は、いまだ直接的な大規模軍事衝突にこそ発展していなかったものの、水面下での暗殺、情報の隠蔽、物資の横流し、そして派閥間の足の引っ張り合いによって、地球連邦軍という巨大な組織の機能を完全に麻痺させていた。

 

「遠宇宙の熱源反応? そんなものは後回しだ! 今はエゥーゴの不穏分子を炙り出すのが先決だろう!」

 

「アナハイムとの裏取引の証拠を消せ! 監視局のデータなど、適当に処理しておけ!」

 

組織が腐敗し、内向きの権力闘争にのみ血道を上げるようになった時、国家は外部からの決定的な危機に対して盲目となる。連邦軍の首脳陣は、互いの首を取ることばかりに執着し、忍び寄る巨大な死神の足音から意図的に耳を塞いだのである。

 

アステロイド・ベルトの異常発光。すなわち、アクシズの移動開始という極めて重大な戦略情報が、第13外郭独立艦隊『クレール・ルクス(C・L)』の司令部へ到達したのは、事態の発覚から実に『二週間』という信じられないほどの時間を要してからのことであった。

 

「……遅すぎる。話にならん」

 

北米シャイアン基地、地下深くの司令官執務室。

分厚い暗号化ファイルをデスクに叩きつけ、コジマ准将は深い、本当に深い呆れ混じりの溜息を吐き出した。

 

彼の顔には、前線で泥を啜ってきた歴戦の将官としての険しい疲労と、連邦という組織の底無しの無能さに対する深い絶望が刻まれていた。

 

「第一報の観測から二週間だと? 我々C・Lは、連邦内部の異常事態に対していち早く初動を切るための特務部隊であるはずだ。その我々の手元にすら、これほどのタイムラグが生じている。……情報局の連中は、一体何をしているのだ」

 

副官が、苦虫を噛み潰したような顔で報告する。

 

「ティターンズの息がかかった情報局長が、宇宙の監視データを意図的に滞留させているようです。

彼らは宇宙の脅威よりも、エゥーゴの地上支援組織の摘発にリソースを全振りしています。

このアステロイドの動向も『観測機器のノイズ、あるいは木星船団の航路逸脱』として、意図的に過小評価して処理された痕跡が……」

 

「愚図どもが」

 

コジマ准将は、デスクの上の葉巻を強く握りしめ、ボキリとへし折った。

 

一年戦争の終結から数年。ジオンの残党がアステロイド・ベルトに逃げ込み、巨大な軍事拠点『アクシズ』を築き上げていることは、連邦の首脳陣であれば誰もが薄々感づいていた事実である。彼らがいつか地球圏へ帰還し、復讐の刃を突き立てる日は必ず来る。

 

その『最悪の事態』がついに現実のものとして動き出したというのに、連邦は内ゲバに夢中で、その刃が喉元に届くまで気付こうともしないのだ。

 

「C・Lで独自に情報網を張り巡らせ、最優先で処理しなければならない情報すら、他の部署の派閥争いのフィルターにかけられ、握り潰される。

……我々がいち早く動くために設立された部隊ですらこの体たらくならば、他の正規軍の部署が一体どれだけ事態を正確に把握できているというのか」

 

コジマは椅子に深く背中を預け、天井を仰いだ。

 

「アクシズが地球圏に到達するまでに、どれほどの時間が残されているかは分からん。

だが、奴らが到着した時、この地球連邦軍はティターンズとエゥーゴの共食いによって、すでに半死半生の状態になっているだろう。……これでは、猟犬に牙を研がせても、飼い主が先に首を吊るようなものだ」

 

嵐が来る。

 

これまでの小規模な残党狩りや、派閥間の小競り合いとは次元の違う、地球圏全土を巻き込む巨大な地獄。

コジマは、静かに迫り来る破滅の足音を聞きながら、愛すべき部下たちをどう生き残らせるか、重い決断の時が迫っていることを悟っていた。

 

―――

 

世界が破滅へのカウントダウンを刻む裏側で。

静かに、しかし力強く、未来へ向けた「命の営み」もまた、確かな時を刻んでいた。

 

セイラ・マスが、自らの胎内に宿る小さな命の存在――妊娠の発覚を知ってから、瞬く間に『二ヶ月』という月日が流れていた。

季節は長く厳しい冬を越え、オーガスタの森にも雪解けの水が流れ、シャイアンの山々には柔らかな春の陽光が降り注ぐようになっていた。

 

その時間の経過は、セイラの身体にも明確な変化をもたらしつつあった。

 

これまでは、ゆったりとしたドレスや、オーバーサイズのコートを羽織ることで誤魔化すことができた。だが、二ヶ月という月日は、彼女のお腹の膨らみを、隠そうとしても隠しきれないほどの柔らかな曲線へと変え始めていたのだ。

 

「……ふぅっ」

 

オーガスタの私室の鏡の前。

 

セイラは、薄手のネグリジェ姿で、自分の少し大きくなったお腹をそっと撫でた。

 

その手つきには、二ヶ月前に感じていたような「母親になることへの恐怖」や「血筋への不安」は、もう微塵も残っていない。クリスチーナやクスコという親友たちの支え、そして何より、お腹の中で日ごとに存在感を増していく『我が子』の重みが、彼女を真の意味で強く、美しい「母」へと変貌させていた。

 

だが、彼女にはまだ、果たさなければならない最も重要な役目が残っていた。

 

(流石に、これ以上隠し通すことはできないわね。……それに、もう十分に待たせてしまったわ)

 

愛する男への、正式な告白である。

 

セイラは、自分の直感で理解していた。アムロ・レイという男が、自分の変化に気づいていないはずがない。ニュータイプとしての規格外の感応力を持つ彼ならば、それこそ彼女が妊娠に気づいたその日のうちに、命の気配を察知していたことだろう。

 

それでも彼は、この二ヶ月間、一切の詮索をせず、ただ優しく彼女を包み込み、彼女自身の口から告げられるのを『待って』いてくれたのだ。

 

その底なしの優しさと、彼に背負わせてしまう運命の重さに、セイラは今日、自分の言葉で決着をつけなければならなかった。

 

週末。

 

シャイアン基地に隣接するアムロの邸宅は、完全なプライベート空間として静寂に包まれていた。

リビングには温かな日差しが差し込み、二杯の紅茶から柔らかな湯気が立ち上っている。

 

ソファに隣り合って座る二人。

 

セイラは、少しだけ俯き加減で、自分の膝の上で両手をギュッと握りしめていた。何度シミュレーションしても、いざ彼の顔を見ると、胸がいっぱいになって言葉が詰まってしまう。

 

「……アムロ。あのね」

 

震える声で紡ぎ出された、決死の告白。

 

「ずっと、言えなくてごめんなさい。……私、あなたとの子供を、授かったの。もう、お腹の中で……こんなに育ってくれているわ」

 

セイラは、アムロの手を取り、自分の少し膨らみ始めたお腹へとそっと導いた。

 

厚い手のひらを通して伝わる、小さな、しかし確かな命の熱量。

セイラは、不安げな瞳でアムロの反応を伺った。

 

彼がもし、これから起こる戦争のことを考えて顔を曇らせたら。自分の血塗られた手を嫌悪して、怯えるような表情を見せたら。私はどうやって彼を支えればいいのだろう。

だが――。

 

アムロの顔に浮かんだのは、セイラの不安を春の風のように吹き飛ばしてしまうほどの、真っ直ぐで、純粋で、この上なく優しい『歓喜』の微笑みであった。

 

「……ありがとう、セイラ」

 

アムロは、お腹に当てた手を決して離そうとはせず、もう片方の手でセイラの肩を抱き寄せた。

 

「君が話してくれるのを、ずっと待っていた。……嬉しいよ。心の底から、嬉しい」

 

「アムロ……。本当に? 私たち、これからもっと過酷な運命に巻き込まれるかもしれないのよ。……私の血筋のことも、あなたの名前のことも……」

 

「関係ないさ」

 

アムロは、力強く首を振った。

 

「僕たちが背負っているものがどれだけ重くても、この小さな命の輝きには敵わない。……僕は、君と、この子と一緒に生きていきたい。僕たちが共に苦しみ、共に笑い合える、『家族』になりたいんだ」

 

それは、一年戦争の英雄として祭り上げられ、常に死と隣り合わせの宇宙で孤独に戦い続けてきたアムロ・レイという一人の青年が、初めて口にした「個人の幸せ」に対する痛切な渇望であった。

 

彼は、戦うための機械ではない。誰かを愛し、誰かに帰りを待たれ、不器用ながらも必死に生きていく、一人の人間になりたかったのだ。

 

そのアムロの偽りない本心に触れ、セイラの瞳からポロポロと安堵の涙がこぼれ落ちた。

 

「……あなたって人は、本当に……。最初から、全部気がついていたくせに」

 

セイラが涙声でそう言うと、アムロは困ったように眉を下げ、否定も肯定もしなかった。ただ、優しく彼女の頭を撫でるだけである。

 

「ねえ、アムロ。あなたには、この子が男の子か女の子か、もう分かっているのでしょう?」

 

セイラがふと、悪戯っぽく問いかけた。

超人的なニュータイプであるアムロならば、胎児の性別など容易に感じ取れるはずだと思ったからだ。

 

「……ああ。完全に理解しているよ」

 

アムロは、お腹に当てた手に少しだけ力を込め、愛おしそうに目を細めた。

 

「女の子だ。とても穏やかで、君に似た強い光を持った……可愛い娘だよ」

 

「……ええ。私も、そんな気がしていたの」

 

セイラは、アムロの肩に頬を預け、ポツリと、あの密やかな夜会で決めていた名前を口にした。

 

「もし女の子なら、名前は……『エレーネ』。エレーネがいいと思っているのだけれど……どうかしら?」

 

アムロは、その名前の響きを口の中で反芻し、そしてパッと顔を明るくした。

 

「エレーネ……。いい名前だ。君の気高さと、優しさが込められているような気がする」

 

「ふふっ。あなたがそう言ってくれて安心したわ。あなたのネーミングセンスには、昔から少し不安があったから」

 

セイラが冗談めかして言うと、アムロは苦笑しつつ完全にそれに同意した。彼は機械の設計やモビルスーツの挙動については天才的であったが、情緒的な命名に関しては、自分のセンスを全く信用していなかったのである。

 

和やかな空気に包まれたリビング。

だが、その微笑ましいやり取りの直後、アムロの表情が、ふと真剣な『軍人』のそれへと引き締まった。

 

「セイラ。……エレーネという名前には、完全に賛同する。君が決めた、最高の名だ。……だが、一つだけ、絶対に反対させてもらうことがある」

 

「反対?」

 

セイラは小首を傾げた。

 

「ああ。……この子に、『レイ(Ray)』の名字を名乗らせるべきではない」

 

アムロのその言葉は、セイラにとって全くの予想外であった。

愛し合う二人の間に産まれる子供。父親の名字を名乗るのは当然のことではないのか。

 

だが、アムロの意図は、極めて現実的で、冷酷なまでの政治的計算に基づいていた。

 

「『アムロ・レイ』という名前は……悲しいけれど、この世界で大きくなりすぎた。連邦の英雄、白い悪魔、ニュータイプの象徴……。僕の名前は、すでにプロパガンダの道具として独り歩きしている」

 

アムロは、自分の両手を見つめながら、苦々しく吐き捨てた。

 

「おまけに、『レイ』という名字は、この地球圏において酷く珍しい。軍のデータバンクを叩いても、僕の親類以外で同姓の人間がいるとは到底思えない。

……もし、エレーネが『エレーネ・レイ』と名乗れば、それは自ら『僕はアムロ・レイの弱点です』と世界中に宣伝して歩くようなものだ。

ティターンズも、エゥーゴも、ジオンの残党も……必ずこの子を政治的な人質として狙ってくる」

 

自分が戦士として矢面に立つのは構わない。

だが、産まれてくる無垢な娘の背中に、初めから『英雄の娘』という巨大な標的(ターゲット)を背負わせるわけには、絶対にいかないのだ。

 

「だから……この子には、君の今の名字である『マス(Mass)』を名乗らせてほしい。エレーネ・マス。それが一番安全だ」

 

アムロの提案は、理にかなっていた。

 

『マス』家は、元々地球の裕福な資産家であり、テキサス・コロニーにも広大な土地を持っていた名家である。現在、セイラがその当主として振る舞っているが、オーガスタの施設運営を通じ、連邦の政財界にも広く顔が利く存在となっていた。

 

公人としての『マス代表』の顔は、血生臭い軍人としての『アムロ・レイ』の顔よりも、遥かに穏やかで、クリーンな体制側(エスタブリッシュメント)の盾となる。

 

何より、現在の地球連邦軍という組織は、ジャミトフの権力掌握の過程で、かつての民主主義的な建前を捨て、露骨な『貴族階級制』や特権階級への回帰を見せつつあった。そのような腐敗した組織において、マス家のような確固たる血縁と家柄(ブランド)を持つ一族に対しては、軍の暗部であっても容易には手出しができないのである。

 

『レイ』という軍人の標的ではなく、『マス』という名家の令嬢として。

それが、アムロが我が子を護るために考え抜いた、血を流さないための最善の防壁であった。

 

アムロの決死の説得。

自分が父親として名乗れない寂しさを押し殺してでも、娘の命を最優先に考えるその痛切な愛。

セイラは、彼の言葉を黙って聞き終えると、悲しそうに、けれど断固とした意志を込めて首を横に振った。

 

「……駄目よ、アムロ。それは絶対に反対」

 

「セイラ、だが……」

 

「あなたの言う通り、レイの名字が危険なのは分かるわ。マス家の家柄が、この子を護る盾になるというのも、理にかなっている。……でも、だからと言って、この子からあなたの名前を奪い去ってしまったら」

 

セイラは、アムロの手を強く握り返した。

 

「あなたはまた、一人ぼっちになってしまうじゃない」

 

アムロの瞳が、大きく見開かれた。

 

父親であるテム・レイとは死別し、母カマリアとも決定的にすれ違い、彼にはもう帰るべき『レイ家』の温もりは存在しない。

 

例え和解したとしても、それが彼にとっての心からの平穏で無いことは、セイラの目から見ても当然に映っていた。

 

もし子供がマスの名だけを継げば、社会的に見れば、アムロ・レイという存在は家庭を持たぬ孤独な兵器のままである。セイラは、愛する男がこれ以上「孤独な英雄」として世界から切り離されることを、何よりも恐れていたのだ。

 

「私たちは、苦楽を共にする『家族』になると誓ったのよ。どちらかが全てを背負って、どちらかが犠牲になるなんて間違っているわ。……だから、こうしましょう」

 

セイラは、真っ直ぐにアムロの目を見つめ、一つの妥協案(アンサー)を提示した。

 

「エレーネ・レイ=マス(Elene Ray-Mass)」

 

複合姓(ダブルネーム)

それが、彼女が導き出した答えであった。 

 

「……レイ=マス?」

 

「ええ。これなら、あなたと私は常に対等よ。あなたは決して一人じゃないわ」

 

セイラは、ふわりと優しく微笑んだ。

 

「それに、今の貴族趣味に傾倒している連邦の戸籍システムなら、二つの名字を持つことは珍しくないし、公式な書類上では『エレーネ・R・マス』と頭文字(イニシャル)だけで表記させることができるはずよ。

これなら、レイの名前が過剰に目立つこともない。……あなたと私の、二人の盾で、この子を護りましょう」

 

完璧な論理と、それを上回る圧倒的な深い愛。

アムロは、彼女のその強さと優しさに、完全に白旗を上げるしかなかった。

 

「……敵わないな。君には」

 

アムロは、深く安堵の息を吐き、そして、もう一度優しく、セイラの膨らみ始めたお腹に両手を当てた。

レイという呪われた英雄の名と、ダイクンという呪われた血筋を隠すマスの名。

 

二つの業を背負いながらも、それらを両親の無償の愛によって『最強の盾』へと変え、未来へと歩み出す少女。

 

「……よろしくな、エレーネ。僕たちが、絶対に君を護るから」

 

アムロが、まだ見ぬ我が子の名を、祈るように優しく呼んだ。

その声に応えるように、セイラのお腹の奥で、ぽすん、と小さな命が微かに動いたような気がした。

 

「ふふっ……返事をしたわ、アムロ」

 

「ああ……元気な子だ」

 

春の陽だまりに包まれたリビングで、二人は額を寄せ合い、これから始まる新しい家族の物語を、細やかに、そして心から祝福し合った。

 

シャイアンの山々に、穏やかな夕暮れが訪れようとしていた。

窓辺で身を寄せ合うアムロとセイラの姿は、一枚の絵画のように美しく、完璧な平穏そのものであった。

 

しかし。

 

彼らがこのささやかな幸せを噛み締めているこの瞬間にも。

遠く離れたアステロイド・ベルトからは、赤い彗星を乗せた巨大な復讐の質量が、地球圏へ向けて無慈悲にパルスエンジンを吹かしている。

 

地球では、ティターンズのジャミトフが軍の全権を掌握すべく毒牙を剥き、エゥーゴとカラバが大規模な武力蜂起に向けてモビルスーツのロールアウトを急いでいる。

 

そして、その暗闇の中で、アルテイシアの懐妊を知ったジオンの残党たちが、狂信的な炎を燃え上がらせて暴発の時を待っている。

 

宇宙世紀0087年、春。

 

アムロとセイラが手に入れたこの奇跡のような穏やかな時間は、間もなく地球圏全土を焼き尽くす巨大な戦火の前の、ほんの僅かな瞬きに過ぎない。

 

それは、まさしく『嵐の前の静けさ』であった。

 

だが、どれほど凄惨な未来が待ち受けていようとも。

 

英雄たる父と、姫君たる母の間に挟まれた『エレーネ・レイ=マス』という小さな命の灯火だけは、決して消えることのない人類の希望として、激動の宇宙世紀の裏側で確かに鼓動を打ち始めていた。

 

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