始まり
宇宙世紀0087年4月。
ラグランジュ1に位置するサイド7、ティターンズ・モビルスーツ開発基地『グリーン・ノア2』。
コロニー内部に設けられた広大な閉鎖型演習場には、人工太陽の眩い光を照り返すことなく、周囲の光を吸い込むような威圧的な漆黒と濃紺の装甲を持つ機体が屹立していた。
ティターンズが己の覇権と正統性を地球圏全土に示すために、膨大な予算と技術の粋を集めて建造した次世代の象徴――『ガンダムMk-III』である。
「――ジェネレーター出力、安定。各部アクチュエーターへのエネルギー伝達率、規定値をクリア。これより、第4フェーズの機動戦闘テストに移行する」
管制室に響くオペレーターの声と共に、Mk-IIIのデュアルセンサーが鋭い緑色の光を放った。
重々しい稼働音を響かせていた機体が、次の瞬間、その巨大な質量からは信じられないほどの軽快さで地を蹴った。
ズウゥン……ッ!
という地響きを置き去りにし、Mk-IIIは演習場を駆け抜ける。
単なる歩行から駆け足、そして背部の高出力バックパックを吹かしての跳躍。滞空状態からの姿勢制御、そして仮想標的に対する擬似的な機動戦闘への滑らかな移行。
機体の動きには、かつての一年戦争時のモビルスーツに見られたような機械的な硬さは微塵もない。人間の筋肉の動きをそのまま鋼鉄に置き換えたかのような、おぞましいほどの滑らかさと暴力的なスピードが同居していた。
「素晴らしい……。スラストの偏向タイミングも、フレームの追従性も完璧だ」
防爆ガラス越しにその圧倒的な機動を見つめながら、開発責任者であるフランクリン・ビダン技術大尉は、手元のデータパッドに踊る数値を眩しそうに見つめていた。
「仮想敵機として設定されている『ジムII(ノーマル・モード)』のデータを、運動性・火力ともに30%以上も凌駕しています。……信じられません。あの機体は事実上、C・Lの『量産されたガンダムℵ』とも呼べる傑作機のはずですよ?」
助手の言葉に、フランクリンは得意げに頷いた。
「ああ。あのガンダムℵに組み込まれたムーバブル・フレームの基礎概念は確かに優秀だ。
だが、我々のMk-IIIは、そのフレーム構造そのものを機体の内骨格として極限まで昇華させている。装甲材の軽量化と、各関節部への独立したジェネレーターの恩恵が、この機動性を生んでいるのだ」
フランクリンの胸には、技術者としての強い誇りが満ち溢れていた。
このMk-IIIの開発プロジェクトは、決して平坦な道ではなかった。上層部からの度重なる仕様変更の要求、ティターンズ至上主義に偏ったアースノイド中心の開発チーム内での軋轢、そして何より、絶対に失敗が許されないという異常なプレッシャー。
遅々として進まない開発に、一時はプロジェクトそのものが頓挫するのではないかという危惧すらあった。
だが、今日。この漆黒のガンダムは、見事に自らの足で立ち、そして最強の性能を証明してみせたのだ。
長い、長すぎるトンネルをようやく抜け出した。その達成感が、フランクリンの疲労しきった心を温かく満たしていた。
「ようやく、完成ね。……本当に、お疲れ様」
不意に、フランクリンの隣に歩み寄ってきた女性が、温かいコーヒーの入った紙コップを差し出した。
同じくこのプロジェクトに材料工学の専門家として参加していた妻、ヒルダ・ビダンである。
「ああ、ありがとう、ヒルダ。君の尽力にも感謝している。君が開発した新型の装甲材がなければ、このフレームは自重と加速Gに耐えられなかっただろうからな」
フランクリンは、コーヒーを受け取りながら、妻に向かって穏やかな笑みを向けた。
「これで、カミーユともゆっくり食事ができるわね。あの子、最近はホモ・アビセンスの大会の準備で忙しいみたいだけれど……私たちもずっと基地にこもりきりで、寂しい思いをさせてしまったもの」
ヒルダは、管制室のモニターの端に飾られた、一人息子の写真を見つめながら少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「そうだな。これでやっとだ。胸を張って家に帰ることができるというものだ。
あいつとも、思春期に入ってからというもの、碌な会話もできていなかったからな」
フランクリンは、ヒルダの腰にそっと手を回し、二人は静かに身体を寄せ合った。
同じ過酷なプロジェクトを夫婦で共に乗り越えた戦友として、確かな絆があった。
ティターンズの兵器開発という血生臭い仕事の中にあって、彼らの間には、人間としてのささやかで温かい感情が確かに存在していたのである。
Mk-IIIの圧倒的なテスト結果は、即座に暗号通信に乗せられ、地球のティターンズ上層部へと報告された。
そのデータを前に、ティターンズの首脳陣、そして現場の将兵たちは歓喜に沸いた。
彼らにとって、このガンダムMk-IIIという機体は、単なる強力な兵器以上の意味を持っていた。
現在、地球連邦軍内部におけるティターンズの立ち位置は、極めて微妙なものであった。
ジャミトフ・ハイマンの政治力によって権力を拡大してはいるものの、エゥーゴの台頭や、C・Lのような実力派の独立部隊の存在により、彼らが「完全なる連邦の支配者」であるとは言い切れない状況が続いている。
特に、アムロ・レイという生きた伝説を抱えていたC・Lが運用する『ガンダムℵ』系列の機体群は、ティターンズのパイロットたちに強烈な劣等感を植え付けていた。
だからこそ、地球至上主義を掲げる彼ら自身の手で、ジオンの技術(アナハイムやジオニック系列の技術者)を一切排除し、純粋なアースノイドの技術のみで『ガンダム』を作り上げる必要があったのだ。
『これであのC・Lの猟犬どもにも、エゥーゴの反乱分子どもにも、大きな顔はさせん』
『我々こそが、正規の地球連邦軍を導く選ばれたエリートである。このMk-IIIは、その絶対的な証なのだ』
基地内のティターンズ将校たちは、その誇りに胸を張り、廊下を歩く足取りすらも力強いものとなっていた。
そして、その日の午後。
翌日に控えた『選抜メンバーによる実戦テスト』のために、地球から特別機で招集された三名のティターンズ・パイロットがグリーン・ノア2へと到着した。
ジェリド・メサ中尉。
カクリコン・カークラー中尉。
エマ・シーン中尉。
いずれも、厳しい訓練を乗り越え、ティターンズの次代を担うと目されている生粋のエリートパイロットたちである。
「……なるほど。これが俺たちの乗る新しい『ガンダム』か。黒い装甲ってのが、いかにもティターンズらしくて悪くない」
格納庫のデッキからMk-IIIを見上げ、ジェリドは挑戦的な笑みを浮かべた。
「はしゃぐなよ、ジェリド。テストパイロットからのデータによれば、機動性が高すぎる分、ピーキーで操縦のクセが強いらしい。お前のように直感任せで操縦桿を振り回すと、Gで首が飛ぶぞ」
隣のカクリコンが、からかうように肩をすくめる。
「フン。誰に物を言っている。この俺が、機体に振り回されることなどあり得んさ」
ジェリドが鼻で笑う。
その二人のやり取りを、エマ・シーンは静かに、極めて冷静な瞳で見つめていた。
「二人とも、テストパイロットからの引き継ぎデータにはしっかりと目を通しておいてください。
注意点として、ジェネレーターの出力変換にコンマ数秒のラグが生じるタイミングがあるようです。極めて高い性能を引き出すためには、我々パイロットの冷静な状況判断が不可欠です」
「分かっているさ、エマ。俺たちティターンズの誇りにかけて、明日の実戦テストは完璧にこなしてみせる」
ジェリドは力強く頷いた。
彼らは、誇り高きエリートであった。
ティターンズという組織が、裏でどのような政治的弾圧や非道な手段に手を染めているのか。
彼ら若き将校たちは、その『真の暗部』をまだ深くは知らされていない。彼らは純粋に、地球圏の平和を乱すジオン残党やテロリストから秩序を護るための、選ばれた騎士であると信じて疑わなかった。
「今日は長旅で疲れているでしょう。明日に備えて、早めに解散して英気を養いましょう」
エマの提案により、三名は格納庫を後にし、士官用の宿舎へと向かった。
事態は、彼らの誇りや、ビダン夫妻の親心といった、人間たちの『優しい方向』へと流れていくはずであった。
そう、このティターンズの要塞が、完全に外部から隔絶された聖域であったならば。
日が落ち、コロニー内が夜間の照明モードへと切り替わった頃。
Mk-IIIが収められている第一格納庫の周辺は、厳重な警備網が敷かれていた。
最新鋭機のテスト前夜。軍事施設において、このタイミングが最も情報の漏洩や破壊工作の標的にされやすいことは、軍人であれば誰もが理解している常識である。
「おい、コンソールのロックアウトは確認したか?」
「ああ。物理キーと生体認証の二重ロックだ。整備用ガントリーの電源も落としてある」
二人の整備兵が、ハンガーの入り口付近で点検作業を行いながら言葉を交わしていた。
「……それにしても、明日はいよいよエリート様たちのテストか。何かあるといけないからな、今夜は見回りをいつも以上に厳重にしようぜ」
一人の整備兵が、懐中電灯の光をハンガーの奥へ向けながら、少し神経質そうに提案した。
「実際、数年前のデラーズ・フリートの時も、新型機(ガンダム試作2号機)が完成直後に強奪された前例がある。あんな失態を、俺たちティターンズの基地で起こすわけにはいかないからな」
その提案は、極めて真っ当であり、防諜の観点からも正論であった。
故に、隣にいたもう一人の整備兵も「そうだな」と素直に頷き、その提案を受け入れた。
しかし――。
提案を受け入れられたその整備兵は、同僚が背を向けた瞬間、ハンガーの暗がりの中で、誰にも見られることなく薄気味悪くほくそ笑んだのである。
その男の正体が何であれ。
エゥーゴの潜入工作員か、アナハイムが送り込んだ産業スパイか、あるいはジオン残党のシンパか。
彼がティターンズの制服を着て、この最重要セキュリティ区画に『堂々と入り込めている』という事実そのものが、これから起こる事態の致命的な絶望を物語っていた。
鉄壁に思えたティターンズの防諜網は、すでに内部から深く、そして致命的に蝕まれていたのだ。
コロニーの人工的な夜の静寂の中、見えない暗雲が、音もなく基地の中枢へと忍び寄っていた。
深夜。
グリーン・ノア2の居住区画の多くの人間が深い眠りにつき、基地内の巡回警備員たちの足音だけが等間隔に響く時間帯。
事態は、唐突に動いた。
第一格納庫の奥深く。漆黒のガンダムMk-IIIの足元に、音もなく蠢く複数の不審な影があった。
彼らは整備用のハッチからではなく、空調ダクトや内部のメンテナンス通路を利用して、完全に警備の目を掻い潜って侵入してきた『プロフェッショナル』たちであった。
彼らは素早い手つきで、Mk-IIIのコックピットハッチへ向けてワイヤーを射出し、物理ロックの解除作業に取り掛かる。
「……おい、あそこ!」
見回りを強化していた整備班の一人が、懐中電灯の光の端で、その不自然な動きを捉えた。
「誰だッ!? そこで何をしている!」
忠義な整備兵が声を張り上げ、腰のホルスターから拳銃を抜こうとした。
だが、その場にいた他の数名の整備兵たちは、まるでその影に気づいていないかのように、不自然なほど静まり返っていた。いや、気づいていないのではない。彼らは皆、工作員たちの存在を『黙認』していたのだ。
それはあまりにも不自然で、それこそ、彼ら自身が強奪の『協力者』であるとしか思えない光景であった。
「お前ら、見えないのか!? 侵入者だぞ!」
たった一人、ティターンズに忠誠を誓っていた(あるいは、内通者として抱き込まれていなかった)その整備兵は、同僚たちの異様な態度に背筋を凍らせながらも、軍人としての責務を果たすべく、直ぐ様に持っていた拳銃の引き金を引いた。
パーァァァンッ!!
乾いた、しかし決定的な破裂音が、静まり返った格納庫の広大な空間に反響した。
放たれた銃弾は工作員の一人の足元に火花を散らし、強奪作戦の隠密性は、この一発の銃声によって完全に崩れ去った。
「チッ……! 予定が狂った! やれッ!」
工作員のリーダーらしき男が舌打ちと共に叫んだ瞬間。
先ほどまで黙認していた『内通者の整備兵たち』が、一斉に懐から隠し持っていたサブマシンガンや拳銃を引き抜き、あろうことか、自分たちの同僚であるティターンズの兵士たちに向けて容赦なく発砲を開始したのだ。
「ぐあっ……!」
「貴様ら、裏切っ――!」
先ほど発砲した整備兵が、背後から無数の銃弾を浴びて血だまりの中に崩れ落ちる。
銃声は、次なる銃声を呼んだ。
格納庫の異変に気づいた外の警備部隊が突入してくるが、彼らの部隊の中にもすでに内通者が入り込んでいた。
通路を走る警備兵が、隣を走っていたはずの同僚に突然頭を撃ち抜かれる。
防衛システムを起動しようとした管制官が、後ろに立っていた副官にナイフで喉を掻き切られる。
「エゥーゴだ! エゥーゴのテロリストが侵入したぞ!」
「誰が敵だ!? 撃つな、味方だ!」
「うるさい、こいつもスパイかもしれないぞ! 撃てッ!」
疑心暗鬼と裏切りが交錯し、指揮系統は一瞬にして崩壊した。
緑のレーザーと赤い曳光弾が飛び交い、火災報知器のけたたましいサイレンがコロニーの夜を切り裂く。鉄壁の軍事基地は、誰が敵で誰が味方かも分からない、血みどろの銃撃戦が展開される凄惨な地獄へと変貌してしまったのである。
同じ頃。
銃撃戦の舞台となっている第一格納庫から、いくつかブロックを隔てた研究開発棟の局長室。
フランクリン・ビダンは、一人デスクに向かい、キーボードを叩き続けていた。
妻のヒルダはすでに家へと帰し、「最後にやり残したものがある。
明日のテストパイロット向けの、機体マニュアルの最終アップデートだ」と言って、彼は一人で残業をしていたのだ。
Mk-IIIの開発責任者として、明日機体に乗り込む若きパイロットたちを死なせるわけにはいかない。少しでも機体のクセを分かりやすく伝え、生存率を高めるための資料を作成する。
それが、彼なりの技術者としての誠意であり、誇りであった。
その時である。
『――緊急事態発生。第一格納庫、ならびに第3から第5ブロックにおいて、所属不明の武装集団との交戦が発生。全職員は直ちにシェルターへ避難――』
けたたましいサイレンと共に、緊急放送が研究棟にも鳴り響いた。
さらに、遠くのブロックから、ドズゥゥン……という爆発音と、微かな振動が伝わってくる。
「何だ……!? テロリストだと?」
フランクリンは驚愕して立ち上がった。
ティターンズの中枢基地が襲撃されるなど、あり得ない。だが、現実に警報は鳴り響き、銃声は少しずつ、この研究棟の方へと近づいてきているようだった。
「ヒルダ……カミーユ……!」
家族の安否が脳裏をよぎる。
彼はデスクの引き出しを乱暴に開け、そこに護身用として隠してある軍用のオートマチック拳銃に手を伸ばそうとした。
しかし、その矢先であった。
シューゥゥゥ……ッ。
局長室の電子ロックがかかっていたはずの自動扉が、何の前触れもなく、静かに開いた。
「――フランクリン・ビダン博士ですね?」
フランクリンがハッとして振り返ると、そこには、ティターンズの軍服とは全く違う、見慣れない黒いアサルトスーツに身を包んだ数名の男たちが立っていた。
彼らの顔には目出し帽が被せられ、その手にはサプレッサー(消音器)の装着された短機関銃が、フランクリンの眉間へと正確に狙いを定めていた。
「貴様ら……何者だ!」
フランクリンは、引き出しの拳銃へと手を滑らせようとしながら叫んだ。
「動かない方がいい。博士の頭脳と技術は我々にとっても貴重ですが、命に別状のない範囲で両腕を吹き飛ばすことくらいは、我々にも許可されています」
リーダー格の男が、感情の消え失せた冷徹な声で警告する。
彼らの纏う空気は、間違いなく実戦を潜り抜けてきた本物の『猟犬』のそれであった。自分が拳銃のグリップを握るよりも早く、彼らの銃弾が自分の身体を蜂の巣にすることを、フランクリンは本能で理解させられた。
引き出しに伸びていた手が、震えながら止まる。
「……目的は、Mk-IIIのデータか? それとも、機体そのものか」
「我々には、作戦の詳細をお答えする義務はありません」
男は短く切り捨てると、顎で廊下の方をしゃくった。
「ご同行願います、博士」
それは、選択の余地のない絶対的な脅迫であった。
フランクリンの脳裏に、先ほどまで共に笑い合っていたヒルダの顔と、カミーユの顔がよぎる。
せっかく、家族としての絆を取り戻しつつあったのに。
せっかく、技術者としての誇りを証明できる機体が完成したというのに。
「……妻と息子には、手を出すな。あれは民間人だ」
「ご心配なく。我々の標的は、ティターンズの軍事技術のみです。あなたが素直に従えば、ご家族の平穏は保証しましょう」
その言葉が真実かどうかは分からない。だが、今のフランクリンには、彼らの言葉に縒り縋るしか道は残されていなかった。
フランクリンは、ギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締めると、渋々とデスクから離れ、両手を軽く上げながら男たちの元へと歩み寄った。
「迅速に離脱する。第三ルートのゲートを開けろ」
工作員たちがフランクリンを前後から挟み込み、暗い廊下へと連れ出していく。
彼らが部屋を去った後、誰もいなくなった局長室のデスクの上には、フランクリンが作りかけていた『テストパイロット向けの安全マニュアル』のデータが、誰に読まれることもなく、モニターの光の中で虚しく明滅し続けていた。
コロニーの夜空に、非常警報の赤い光が不気味に反射している。
選ばれたエリートたちの矜持も、技術者のささやかな親心も。
すべては、反体制組織が仕掛けただろう非情なる強奪作戦の巨大なうねりの中に飲み込まれ、宇宙世紀0087年の動乱は、引き返せない破滅への引き金を、今、確実に引いたのであった。