地上において、コジマ准将らが北米の孤立を防ぐためにガルーダ級超巨大輸送機を駆り、太平洋横断という決死の作戦行動に打って出ているその頃。暗黒の宇宙(そら)に停泊するブライト・ノア大佐たちの部隊は、血湧き肉躍る地上の戦場とは全く対照的な、泥沼のような重苦しい静寂と停滞の中に縛り付けられていた。
宇宙コロニー。それは人類が真空の宇宙空間に築き上げた奇跡の箱庭であると同時に、軍事的な観点から見れば『絶望的なまでに脆いガラス細工』に他ならない。
絶対零度の冷たい宇宙空間において、数百万人の人間が呼吸するための空気、喉を潤すための水、そして生活するための人工の大地を安定的に供給し続ける。
その繊細な生命維持システムのバランスは、たった一発の戦艦の主砲の直撃、あるいはモビルスーツのビーム・ライフルの流れ弾による外壁への亀裂だけで容易に崩壊し、数多の命を瞬時に宇宙空間へと吸い出してしまう危険を常に孕んでいる。
地上での戦いのように「焦土作戦」や「地形への着弾」が許される環境ではないのだ。コロニーへの誤射は、すなわち無差別な大量虐殺と同義となる。
防衛する側も、攻撃する側も、コロニー周辺での戦闘行動には極限の神経質にならざるを得ないのが宇宙世紀における戦争の鉄則であった。
特に、旧ソロモンである巨大要塞コンペイトウを中核的な防衛拠点とし、C・Lの活動拠点となっている『スウィートウォーター』を抱えるサイド1周辺のコロニー群は、その防衛に対して病的なまでの過敏さを見せていた。
スウィートウォーターは、一年戦争で難民となったスペースノイドたちを細々と受け入れるために、古いコロニーの残骸を繋ぎ合わせて作られた密閉型のオンボロコロニーである。
最新鋭のグリーン・ノアなどと比べればその構造はあまりにも脆く、万が一にでもティターンズの攻撃の巻き添えになれば、ひとたまりもなく崩壊してしまう。故に、ブライトたちは艦隊の主砲に厳重なロックを掛け、コロニーの盾となるように各艦を配置したまま、動くことすらままならない状態に置かれていた。
一方で、サイド1の宙域に居座り、我が物顔で停泊を続けるティターンズの駐留艦隊をこの宙域から叩き出さなければならないことは、C・Lの将兵のみならず、サイドの自治政府の首脳陣にとっても分かりきった自明の理であった。
彼らの存在そのものが、コロニー市民に対する強烈な威圧であり、いつ引き金が引かれるか分からない巨大な時限爆弾であったからだ。
しかし、宇宙における戦いがこれほどまでに消極的である最大の理由は、単なるコロニーの物理的な脆さだけではない。
実体的な連邦軍内部の派閥争いよりも、各サイド内部における政治的な立ち位置が、複雑怪奇を極めていたからに他ならない。
サイドの自治政府は、決して一枚岩ではなかった。
表向きは地球連邦政府に忠誠を誓い、ティターンズの機嫌を取ることで特権を得ようとする親連邦の保守派。アナハイム・エレクトロニクス社と裏で結託し、戦乱の特需を目論む企業寄りの官僚たち。
C・Lの穏健なやり方を支持し、自衛権の確立を目指す自治派。そして、旧ジオンの威光を未だに信奉し、いつの日かティターンズの軍港にテロを仕掛けようと息巻く過激派の残党。
これらの勢力が、同じコロニー群の異なる番地に複雑に絡み合い、モザイク状の勢力図を形成しているのだ。
単に艦隊戦を仕掛け、ティターンズを力でねじ伏せたからといって、事が丸く収まるわけではない。もしC・Lが先制攻撃を仕掛ければ、保守派はそれを「テロ行為」として糾弾し、ティターンズの本格介入を招き入れる口実を与えるだろう。
逆にティターンズの艦艇がコロニーの港湾施設に被害を出せば、過激派が暴動を起こし、コロニー内部から内戦が勃発してしまう。
誰が最初に引き金を引くか。誰が一番の「悪役」のカードを引くか。
息の詰まるような政治的チェスゲームが、宇宙の暗闇の中で静かに、しかし凄惨に繰り広げられていたのである。
従って、現在のC・Lとティターンズの睨み合いは、互いの首に刃を突きつけ合いながらも、決してその刃を押し込もうとはしない『巨大な冷戦状態』へと陥っていた。
とりわけ、ブライトたちの艦に密航してきたカミーユ・ビダンと、監視役として乗艦しているエマ・シーン中尉の処遇。すなわち『人質交換』の裏交渉が終わるまでの間は、双方が決定的な
宇宙で発生していたのは、熱い血が流れる殲滅戦ではなく、パイロットたちの神経をヤスリで削り落とすような『消極的な戦闘』ばかりであった。
高濃度のミノフスキー粒子を散布し合い、互いのレーダーと通信網を完全に麻痺させる電子戦。
威嚇のためにモビルスーツ隊を出撃させ、有視界戦闘の距離まで肉薄しながらも、決して主砲やビーム・ライフルは撃たず、高出力のレーザー通信や閃光弾を相手のメインカメラに浴びせかけて視界を奪い合う、陰湿なドッグファイト。
ダミーバルーンを大量に放ち、相手の艦隊陣形を混乱させる嫌がらせ。
「……くそっ! またロックオンだけで反転しやがった! 撃ってくるなら撃ってこいってんだ!」
C・LのジムIIのコックピットの中で、若いパイロットが汗だくになりながら操縦桿を叩きつける。
目の前まで迫ったティターンズのハイザックが、ビーム・サーベルの柄に手をかけた状態で急旋回し、挑発的にスラスターの光を瞬かせて暗礁宙域へと消えていく。
引き金を引けば相手を落とせる距離。
だが、こちらから撃てば、相手に「攻撃を受けた」という最高の言い訳を与えてしまう。
殺意を極限まで高めながら、最後の一線を越えることだけは絶対に許されない。それは、生身の肉体で戦うよりも遥かに、将兵たちの
旗艦のブリッジでその報告を受け続けるブライト・ノアもまた、艦長席で深い疲労に顔を覆っていた。
彼の傍らでは、連絡将校であるエマ・シーンが、ティターンズの執拗な挑発行動と、それに耐え続けるC・Lの将兵たちの異常なまでの克己心を、信じられないものを見るような目で見つめている。
撃ちたくても撃てない。
守るべき市民が背後にいるが故に、動くことすら許されない。
広大な宇宙空間は今や、数千万の命を乗せた脆いガラスの城を人質に取った、音のない密室の拷問部屋と化していたのである。
―――
太平洋の荒波を越え、ガルーダ級超巨大輸送機のブリッジから眼下に広がるユーラシア大陸の東端――極東の沿岸線を見下ろしながら、コジマ准将は静かに目を細めた。
中華、半島、そして列島。
地球連邦軍の軍管区割りにおいて『極東管区』と呼ばれるこの広大な地域は、コジマにとって、他ならぬ「故郷」であった。
宇宙世紀という、人類が地球の重力圏を飛び出し、国境という概念が薄れつつある時代にあってなお、地球連邦に生まれ落ちた彼がこの極東の地で生まれ育ったという事実は、その魂の奥底に確かな根を張っている。
しかし、この極東管区という地域は、一つの「連邦」の傘下にあるとはいえ、決して一枚岩の平穏な土地ではなかった。
古より連綿と続く、三つの巨大な文化圏――中華、半島、列島――の連帯と、それと同じくらい深く複雑な『民族的対立と歴史的摩擦』が、宇宙世紀という現代においても確実に存在し続けていたのである。
かつてウラジオストクと呼ばれた極寒の軍港都市。そこに置かれた地球連邦軍『極東管区司令部』が、なぜ巨大な行政の中心である『北京行政管区』から物理的に切り離され、海沿いの軍港に独立して置かれているのか。
それこそが、この地域特有の「複雑怪奇な文化的衝突」を避けるための、連邦政府の苦肉の策であった。政治の都と、武力の拠点を意図的に分断することで、一つの勢力(特定の民族や文化圏)が極東の全権を掌握することを防いでいたのである。
地球連邦という一つの巨大な国家体制にありながら、少し海を渡り、あるいは国境の跡を越えるだけで、街並みの建築様式や、人々の生活の匂いが劇的に異なっている。それが何よりの証拠であった。
もっとも、その差異は、西欧や北米の連邦高官たちから見れば、「東洋の微々たる地方色の違い」程度にしか映らないのかもしれない。彼らにとっては、極東は一括りに『Far East』という一つの地図上のパッチに過ぎないのだ。
だが、その土地で生きる当人たちから見れば、それは自らの誇りであり、決して譲ることのできない強烈な『アイデンティティの境界線』であった。
さて、そんな強烈なアイデンティティと多様性がせめぎ合う地域ゆえに、今回の内乱において極東方面軍が早々に『
極東の内部では、すでにティターンズ派とC・L派の激しい思想の分断が始まっていたのだ。
太平洋を挟んで北米方面軍との経済的・文化的結びつきが極めて深く、海洋国家としての性質を色濃く残す『列島』、並びに『半島南部』の軍高官や政財界の人間たちは、民主的で穏健なコジマ准将たちの価値観に偏りやすく、公然とC・L支持を打ち出そうとしていた。
しかし、その背後に広がる巨大な『大陸側』――特に、中央集権的な統制と強大な軍事力を好む中央および北東部の、いわゆる『中華』の文化圏を地盤とする連邦軍の将軍たちにあっては、ジャミトフ・ハイマンが掲げる「地球至上主義」や、ティターンズの強権的な秩序維持の思想(エリート主義)に、極めて親和性が高く、そちらに近しい人物が権力の座に就きやすかった。
極東方面軍の内部では、「北米のコジマを支援すべきだ」という声と、「ティターンズに恭順し、極東の権益を拡大すべきだ」という声が真っ向から衝突し、軍の指揮系統そのものが機能不全に陥っていたのである。
下手にどちらか一方に与すれば、極東管区の内部で、三つの文化圏を巻き込んだ凄惨な『内戦の中の内戦』が勃発しかねない。極東の司令官は、その致命的な決裂を防ぐために、苦肉の策として「外部への沈黙(中立)」を貫くしか方法がなかったのだ。
コジマは、ガルーダのブリッジの窓に手を当て、厚い雲の下に広がる懐かしい海と大地を見下ろした。
(……この地を戦火で焼かせるわけにはいかん。極東が割れれば、地球は本当に終わる)
彼が太平洋を越えて自ら乗り込んできた理由は、まさにそこにあった。
書面や通信ではなく、極東の土で育ったコジマ自身が、列島と大陸の両方の将軍たちを直接説き伏せ、この複雑に絡み合った極東のモザイクを「C・L支持」という一つの巨大な槍として束ね直すこと。
しかし、その老将の決死の帰郷を阻むように、西の空からはすでに、ティターンズの二機のガルーダが、大陸の影を黒く染めながら迫りつつあった。
極東の空で交差しようとする、地球連邦の二つの意志。コジマの望郷の念は、間もなく過酷な戦火と交渉の泥沼へと引きずり込まれようとしていたのである。