大気圏内を亜音速で巡航するガルダ級超巨大輸送機の内部は、さながら一つの小さな街のようであった。
モビルスーツの直掩出撃に備えたブリーフィングを終え、アムロ・レイは居住区画の一角にある休憩室へと足を踏み入れた。分厚い防弾ガラスの向こうには、どこまでも広がる青黒い太平洋と、眼下に流れる白い雲海が無限に続いている。
アムロは、無意識のうちに窓ガラスに手を当て、機体が飛び去ってきた東の方角――北米大陸の空を覗き込むように見つめていた。
まるで後ろ髪を強く引かれるような、ひどく切ない感覚。自分の意識の大部分が、今もなおシャイアン基地の地下深くに残してきた『彼女』と、その胎内に宿る『
(……僕はまた、戦場へ向かっている)
分厚いガラス越しに冷たい空を感じながら、アムロは心の底から深く、重い嫌悪感を覚えた。
一年戦争が終わり、幾つもの血生臭い暗闘を経て、ようやく掴みかけた愛する人との平穏な日常。新しい生命が生まれ落ちようとしているこの尊い時期に、自分は再びモビルスーツに乗り込み、同胞である連邦軍同士で醜く殺し合いをしなければならない。
その矛盾と、修羅の道を歩み続ける己自身への嫌悪。だが同時に、愛する家族を護るためには、自分がこの両手を血に染めるしかないのだという、冷酷なまでの『覚悟』を、彼はすでに自覚していた。
「まったく……。また一人で黄昏ちゃって、どうしたの?」
背後から、快活で少し呆れたような女性の声が響いた。
振り返ると、手にした紙コップからコーヒーの湯気を立てながら、マッケンジー隊の部隊長であるクリスが、休憩室に入ってくる雑多な整備兵たちに混じって歩み寄ってきていた。
一年戦争時からの恩人であり、同じ技術士官上がりとして気心の知れた間柄であるクリスは、アムロの後ろ姿から、彼が抱え込んでいる重い『心配事』の気配を的確に感じ取っていた。
いや、彼女からすれば、愛する人が身籠っているというのに、心配事がないはずがないのだ。
「いえ……」
アムロは微かに苦笑し、窓から視線を外した。
「少しだけ、考え事をしていただけですよ。……ただ、まあ、心配なんです」
隠し立てすることもなく、アムロは素直に心情を吐露した。強がりを言って誤魔化せるような相手ではない。
「それはそうでしょうね」
クリスは、紙コップを口に運びながら、深く頷いた。
「私だって、サイド6に残してきた両親の事は心配だし。コロニーが戦場にならない保証なんて、どこにもないんだから。……でも、今更よ」
その「今更」という言葉には、軍人として死線を潜り抜けてきた彼女なりの、強固な諦念と決意が込められていた。
自分がいくら案じようとも、世界は都合よく平和にはなってくれない。ならば、今自分が為すべきことを全力で為すしかないのだと。
その言葉に、アムロも小さく頷き、賛同した。
実際に自分がここで心配しすぎたとして、過去が戻ってくるわけでも、未来が自動的に好転するわけでもない。それは、世界というものの残酷な構造であり、アムロ自身がニュータイプとしての感覚を通じて誰よりも痛感している真理であった。
そして同時に、アムロの心を重く沈ませている『もう一つの心配事』があった。
これからガルーダが向かう先。
極東管区の、列島――『日本』という土地には、かつて自分を生み、育ててくれた母親(カマリア・レイ)が住んでいる。
一年戦争の折、地球へ降りた際に再会し、思想的・倫理的な決定的なすれ違いによって事実上の決別をした母。その後、何度か事務的な連絡や話し合いを持ったとはいえ、未だに「共に暮らす」ということに対しては、アムロの側に拭いきれない抵抗感が残っていた。
今度もまた、あの無力な母が、巨大な戦争の渦に巻き込まれるのだろう。
その疎遠な母親の姿を想像するのは、アムロにとってひどく容易なことであり、同時に心をひどく掻き乱すものであった。
(もしあの時、無理矢理にでも母さんを宇宙(そら)へ上げて、自分の手元に置いていれば……。僕は今、この事態を気にせずにいられたのだろうか?)
アムロは、心の片隅に浮かんだその冷酷な仮定に、自分自身の抱える『残酷さ』を見出し、自嘲するように目を伏せた。
結局のところ、自分は母を安全な場所に隔離したかったのではなく、母という存在がもたらす『煩わしい情動』から逃げたかっただけなのではないか。
「……アムロ?」
クリスが、少し心配そうに覗き込んでくる。
「いえ、何でもありません。ただ……これから向かう極東という地には、縁のある者が一人や二人ではない、と思いましてね」
アムロは、自らの内に渦巻く感傷を振り払うように、顔を上げた。
コジマ准将にとっての故郷であり、アムロの母が住む土地。そして、地球連邦の命運を握る極東管区。
彼らがこれから向かう先は、ただの作戦目標ではなく、彼ら自身の過去と因縁が複雑に絡み合った、極めて重い意味を持つ大地であった。
ガルダの熱核ジェットエンジンが、唸りを上げて空を切り裂いていく。
迫り来るティターンズの巨影と、極東の地で待つ交渉の行方。
アムロは、自らの内に眠る修羅の感覚を静かに研ぎ澄ませながら、来たるべき防衛戦に向けて、窓の外の青い空をただ真っ直ぐに見据えていた。
―――
太平洋の分厚い雲海を切り裂き、亜音速で極東へと向けて飛翔する超巨大輸送機ガルダ。
その広大な機体の中枢、コジマ准将にあてがわれた私室兼作戦司令室には、エンジンの重低音だけが単調な子守唄のように響いていた。
薄暗い部屋の中央に浮かび上がるホログラムの戦術マップ。そこには、これから彼が乗り込もうとしている『極東管区』の詳細な勢力図と、各基地の司令官たちの顔写真が投影されている。
大陸側の中華、半島、そして列島。
コジマ自身の故郷でもあるこの地域は、地球連邦という巨大な傘の下にありながら、決して交わることのない三つの強烈な文化圏が、互いに牽制し合い、水面下で激しい主導権争いを繰り広げている厄介なモザイク地帯であった。
「……さて。この狸どもを、どうやって一つのテーブルに着かせるか、だな」
コジマは、熱い茶の入った湯呑みを手に取りながら、低く独り言を呟いた。
思想や政治的イデオロギーで彼らを束ねることは不可能に近い。列島の将軍に「自由と民主主義」を説けば賛同するだろうが、大陸の将軍は「秩序と統制」を重んじる。彼らの間に政治的な妥協点を見出すには、何ヶ月、いや何年という歳月が必要になるだろう。
だが、コジマたちに残された時間は、西から迫り来るティターンズのガルダが極東の空に到達するまでの、ほんのわずかな猶予しかなかった。
強烈な危機感で煽るか? いや、それだけでは足りない。彼らが自らの意志で、ティターンズという強大な権力に対して「絶対に服従しない」と牙を剥くほどの、もっと根源的で、感情的な『起爆剤』が必要であった。
ホログラムの光に照らされたコジマの老練な脳裏に、ふと、ある奇妙な、しかし極めて実効性の高い「一つの議題」が閃いた。
彼ら極東の人間が、思想や歴史的憎悪を乗り越えて、確実に、そして猛烈な勢いで食いつくであろう共通の話題。
それは――『食料(食べ物)』に関する話題であった。
極東、いわゆる東アジア三カ国と呼ばれる地域は、古来より常日頃からいがみ合い、事あるごとに歴史認識や領土問題で火花を散らしてきた。
しかし、こと『食べ物』という共通の話題に関して言えば、彼らは世界の他のどの地域とも異なる、全く別の特異な反応を返してくる民族であった。
コジマの記憶の底にある、士官学校の一般教養で学んだ宇宙世紀以前(西暦の末期)の、ある有名な逸話がある。
当時、『国連』と呼ばれていた地球規模の国際機関において、環境保護や動物愛護の観点から、様々な生物が「絶滅危惧種リスト」に組み込まれようとしていた時代のことだ。
欧米の先進諸国を中心とした勢力が、環境保護の倫理を振りかざし、特定の水産資源や希少生物の輸出入、および『食用としての捕獲を全面的に禁止する』という条約を強硬に採択しようとした。
その時、国連の議場で何が起きたか。
普段は互いに顔を合わせれば罵り合い、会議の進行を妨害し合うほどにいがみ合っていた極東の三カ国の代表団が。
欧米からの「お前たちの食文化は野蛮であり、禁止すべきだ」という圧力に直面した瞬間、突如としてガッチリと手を握り合い、『食の自決権への不当な介入である』と、かつてない強固な同盟を組んで猛反発したのである。
『我々の胃袋と食卓に、西欧の連中の理屈を持ち込むな』
思想も政治体制も違うはずの彼らが、こと「何を食べるか」「どう調理するか」という食への異様なまでの執着と情熱においては完全に一致し、欧米の倫理観に対して一歩も引かない強固な防波堤を築き上げたのだ。
その逸話の真偽や、細かな歴史的正確性は定かではない。
だが、その精神性は、人類が宇宙へと生活圏を移した宇宙世紀の現在においても、紛れもない『事実』として受け継がれていた。
実際、現在の地球連邦軍の兵站記録や、宇宙に浮かぶ各コロニーの経済指標を見れば、それは一目瞭然であった。
サイド2やサイド6といった巨大な農業プラントを持つコロニー群において、土壌の管理、水産資源の養殖、そして品種改良といった『主要な食料生産ブロック』の元締めには、必ずと言っていいほど、極東から移民してきた者たちの姿があった。
彼らは、宇宙空間という過酷な環境下にあっても、決して合成タンパク質や味気ないレーション(糧食)に甘んじることを良しとしなかった。
本物の土の匂いがする野菜、脂の乗った魚、そして複雑な発酵調味料。それらを宇宙で再現するために、莫大な情熱と資本を注ぎ込み、事実上、地球圏の食のサプライチェーンの根幹を握り続けているのである。
「……極東の連中にとって、食とは単なるカロリーの摂取ではない。己の血であり、肉であり、決して譲ることのできない『魂』そのものなのだ」
コジマは、ふつふつと湧き上がる笑いを噛み殺しながら、ホログラムの戦術マップをヨーロッパ・アフリカ大陸の方角へとスワイプした。
そこから極東に向けて飛んでくる、ジャミトフとバスク・オムの息がかかったティターンズの精鋭部隊。
彼らの中核を成しているのは、欧米やアフリカ大陸を地盤とし、極端なエリート主義と「合理性」を重んじる将校たちである。彼らの兵站思想は極めて冷徹で数学的だ。兵士には必要な栄養素を合成したチューブ食や高カロリーのレーションを与えれば十分であり、農業プラントの生産力はすべてティターンズの軍事力維持と、一部の特権階級の嗜好品のために『効率的に統制・管理されるべきだ』という思想を持っている。
つまり。
このまま極東方面軍がティターンズに屈服すれば、どうなるか。
極東の将兵たちの胃袋は、西から来た「味覚の破壊者」たちによって完全に支配されることになる。彼らが誇りとする複雑な食文化は『非効率な前時代の遺物』として切り捨てられ、味気ない管理食を押し付けられる。そして、極東が宇宙に築き上げた巨大な農業・水産利権は、すべてティターンズの兵站局に接収され、ヨーロッパやアフリカの拠点へと吸い上げられてしまうのだ。
「……思想で勝てなくとも、胃袋の危機となれば話は別だ」
コジマは、確信に満ちた笑みを浮かべた。
極東方面軍の司令部で、大陸、半島、列島の将軍たちが一堂に会する交渉のテーブル。そこで語るべきは、地球連邦の正義でも、エゥーゴの脅威でもない。
『ティターンズが極東を支配すれば、彼らは真っ先に我々の糧食規定を改悪する。貴官らの部下たちは、明日から泥のような合成ペーストをすすって戦うことになるぞ。そして、貴官らの故郷が宇宙に築き上げた農地も、養殖場も、すべてヨーロッパの連中の胃袋を満たすために奪われるのだ。……極東の誇り高き食卓を、あの味の分からぬ野蛮人どもに売り渡すつもりか?』
そう煽り立てれば良い。
政治的な妥協を渋る将軍たちも、部下の士気と、自らの「食の権益」が根本から破壊されるという、このあまりにも生々しい恐怖と屈辱の前には、決して平静ではいられないはずだ。
かつての国連議場で、西欧の圧力に対して極東の代表たちが手を結んだように。ティターンズという「食の統制者」の襲来は、いがみ合う三カ国の将軍たちを、C・L(北米方面軍)支持という一つの強固な同盟へと結合させる、最強の接着剤となる。
「……まったく、我ながら下世話な外交戦術だ。だが、人間の本質とは案外、そういう泥臭いところにあるものだ」
コジマは、湯呑みに残っていた冷めた茶を一気に飲み干した。
その味は少し苦かったが、今の彼にはどのような美酒よりも力強く、内なる闘志を奮い立たせる味がした。
西から迫るティターンズの二機の巨鳥。
それに対して、コジマは「極東の胃袋と食の誇り」という、人類の根源的な欲望を武器にして迎え撃つ腹積もりを完全に固めていた。
思想や大義という虚飾を剥ぎ取った後、最後に国家を動かすのは、今日を生き、明日を食らうための執念に他ならない。
老練なる将軍の目を乗せたガルダは、分厚い雲を抜け、ついに極東の空の玄関口へとその巨大な機首を突入させようとしていた。地球の覇権を懸けた血みどろの内乱は今、最も奇妙で、最も切実な交渉のテーブルへとその舞台を移そうとしていたのである。