極東の空は、厚く鉛色の雲に覆われていた。
眼下に広がるのは、荒れ狂う日本海と、遠く霞むユーラシア大陸の沿岸線。その巨大なキャンバスの上で、人類の歴史上かつてない規模の『空中艦隊戦』が、いよいよその火蓋を切ろうとしていた。
『――ミノフスキー粒子、戦闘濃度まで散布! レーダーおよび各種光学センサー、有効半径が急速に縮小しています!』
C・Lの旗艦たるガルーダのブリッジに、オペレーターの悲痛な報告が響き渡る。
戦力比は、C・L側のガルダ一機に対し、ティターンズ側はスードリ、メロウドの二機。大まかに見積もって『一対二』の絶望的な劣勢である。巨大な航空要塞が三機も同じ空域にひしめき合い、互いに高濃度のミノフスキー粒子を撒き散らした結果、この極東の空は分厚い電波障害のヴェールに包まれ、電子的な『盲目状態』へと陥りつつあった。
「対空砲火、弾幕展開! 防空部隊は直ちに発進せよ! ガルーダを落とさせるな!」
コジマ准将が単身でベースジャバーに乗り込み降下していく中、ガルーダの防空指揮を任されたクリスチーナ・マッケンジー少佐は、通信機越しに全軍へと号令を飛ばした。
彼女自身もモビルスーツのコックピットに座り、指揮官機として前衛に出る。巨大な輸送機の下部ハッチが次々と開放され、空戦ユニットとサブフライトシステム(SFS)を履いたジムIIの部隊が、猛烈なジェットの咆哮とともに灰色の空へと飛び出していった。
そのジムIIの編隊に混じって、異彩を放つ黄色の機体が三機、重力と空気抵抗を無視するかのように滑らかな軌道を描いて飛び出してきた。
円盤型の異形。可変モビルアーマー『アッシマー』の小隊である。
その先頭を切る機体のコックピットから、通信回線にひどく耳障りな、しかしどこか飄々とした男の声が響いてきた。
『やれやれ。俺たちオークランドの防空隊を、こんな極東の辺境まで引っ張り回して、おまけに絶望的な防衛戦の盾にしろたぁ、コジマの親父殿も人使いが荒すぎるぜ』
部隊を率いるのは、猛将ブラン・ブルターク少佐であった。
彼は出撃の最中だというのに、緊迫するクリスに対して厭味ったらしく小言を並べ立て、軽口を叩き続けていた。
「ブラン少佐! 愚痴を言っている暇があったら、一機でも多く敵のハイザックを落としてください!」
『分かってるよ、お嬢ちゃん。……だがな、空の戦いってのは、気合や根性だけで勝てるほど単純じゃあないんだ』
ブランの口調が、ふと、歴戦の空の男のものへと変わる。
一年戦争以前、旧世紀の遺物である戦闘機がまだ空の主役であった時代から『空軍』に所属していた彼は、モビルスーツという人型兵器が空を飛ぶ時代になってもなお、航空力学と空戦のセオリーをクリス以上に――いや、地球連邦軍の誰よりも熟知していた。
「いいか。空戦の基本は高度と速度だ。そして何より……『
ブランの駆るアッシマーが、ドムのような重厚なMS形態から一瞬にして円盤状のMA形態へと変形し、雲の壁を鋭く切り裂いて上昇していく。
航空戦において、数は絶対的な力である。一対二の戦力差は、通常であれば戦術の工夫で覆せるものではない。
しかし同時に、空中戦というものは『先に敵を発見し、先に最適な位置から引き金を引いた者が勝つ確率が極めて高い』という、地上戦とは全く異なる特殊なルールの下に成り立っている。
それは、空戦という概念が生まれた旧世紀の第一次世界大戦の時代(ディクタ・ベルケの格言)から続くお決まりの鉄則であり、宇宙世紀というモビルスーツの時代になってもなお、決して変わることのない現在進行形のルールであった。
当然、数の上ではガルーダ二機と無数の護衛部隊を擁するティターンズ側に、絶対的な軍配が上がっている。
だが、現在の戦場を支配しているのは濃密なミノフスキー粒子である。
この魔法の粒子がもたらすレーダーの無効化現象は、有視界戦闘を強制する。つまり、空戦においてさえも、大部隊の索敵能力が極めて限定的になり、少数精鋭の奇襲に対して網の目が粗くなるという、致命的な『死角』を生み出していたのである。
『行くぞお前ら! ティターンズの腑抜け共に、本当の空の飛び方を教えてやれ!』
ブランの怒号とともに、三機のアッシマーが編隊を組み、ティターンズの先陣を切って迫るジムⅡの部隊へと有視界のドッグファイトを仕掛けていく。
ビームの閃光が雲を焦がし、爆発の火球が空に咲き乱れる。
クリス率いるジムII部隊と、ブランの防空隊による必死の迎撃。空戦は、互いの意地と技術が激突する、血みどろの一進一退の攻防へと突入していった。
防空戦が激しさを増す一方で、戦局全体を動かす巨大な『心理戦』が、空のさらに高い場所で進行していた。
ウラジオストク基地へと向かっているC・Lのガルーダが、突如としてその巨大な機首を下げ、雲海を突き抜けて低空へと高度を落とし始めたのである。
目標地点への降下軌道。あるいは、被弾を避けるための回避運動か。
いずれにせよ、獲物であるC・Lのガルーダが絶対的な高度を下げた以上、それを追いかけ、上空から制圧の十字砲火を浴びせるために、ティターンズのスードリとメロウドもまた、必然的に高度を下げて追随しなければならなかった。
それは、コジマ准将が仕掛けた、極めて高度な心理戦であった。
戦術の教本通りに動くティターンズの指揮官たちは、獲物を追い詰めるために高度を下げたことで、自分たちが完全に『頭を抑えている(高度優位を保っている)』と錯覚していた。
だが、軍隊の教本というものは、往々にして『規格外のイレギュラー』を計算から弾き出してしまう欠点がある。
通常、近代空戦において、たった一機で大部隊の防空網に突撃を仕掛けるなどという行為は想定されていない。そんな事を行ったとしても、四方八方からの対空砲火を浴びて無駄死にするのが鉄則である。
それ故に、ティターンズの指揮官たちは
自分たちが頭を取っていると思い込み。
自分たちのさらに
遥か上空。
空が青から限りなく黒に近い群青へと変わる、成層圏の境界線。
薄い大気の中を、一機の白いモビルスーツが、音もなく滑空していた。
アムロ・レイの駆る、『ガンダムℵ』である。
その背部と両腕には、巨大な
コジマのガルーダが敵の注意を惹きつけながら降下していくその裏で、アムロは莫大な推力に物を言わせ、敵の索敵網を完全に飛び越えて、誰よりも高い空の頂点へと到達していたのである。
(……見えた)
コックピットの中で、アムロは翠緑の瞳を細めた。
彼の眼下には、分厚い雲海。そしてその雲の切れ間から、ティターンズの巨大なガルーダ級『メロウド』の鈍重な背中が、無防備に晒されているのがはっきりと見えた。
(空戦の基本は、見敵必殺。……そして、位置の優位だ)
アムロは操縦桿を深く握り込み、機体を支えていたサブフライトシステムをパージした。
役目を終えたSFSが切り離され、ガンダムℵの本体が自由落下を始める。
同時に、背部のギャプラン・ユニットの巨大なスラスターが、太陽の如き業火を噴き上げた。
地球の重力による猛烈な落下速度に、推進器の莫大な加速が上乗せされる。
成層圏からの一撃離脱。それはもはや航空機のダイブではない。天から降り注ぐ、質量を持った「神の
機体は瞬く間に音の壁を幾重にも突破し、大気との摩擦で全身を赤熱させながら、一直線にメロウドの背中へと突き刺さっていく。
ティターンズのガルダ級『メロウド』。
そのメインブリッジでは、機長をはじめとする多数の将校たちが、目前で逃げ惑うC・Lのガルーダを見下ろし、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
『左舷防空隊、敵のアッシマーを深追いするな! 我々の任務は敵母艦の撃沈だ。主砲、照準合わせろ!』
機長が号令を下そうとした、まさにその瞬間。
ブリッジの天窓、防弾ガラスの向こう側に広がる空の景色が、突如として異常な白光に包まれた。
「な、なんだ!? 上空から超高速で接近する熱源――!!」
レーダーオペレーターが絶叫するよりも早く。
ブリッジの乗組員たちが、自分たちの頭上に迫る「V字アンテナを戴く白い悪魔」の姿を肉眼で視認した時には、すでにすべてが終わっていた。
ドォォォォォォォンッ!!!!!
アムロの駆るガンダムℵは、減速すら一切行わなかった。
ギャプラン・ユニットの大推力に乗せたまま、両腕に装備された高出力メガ粒子砲とビーム・ライフルを、文字通り『ゼロ距離』でメロウドのメインブリッジへと叩き込んだのである。
圧倒的な破壊の光が、分厚い装甲ガラスを飴玉のように融かし、ブリッジ内にいた数十名の指揮官とクルーを一瞬にして蒸発させた。
さらにアムロは、すれ違いざまのコンマ数秒の間に、機体を錐揉み回転させながらビーム・サーベルを引き抜き、メロウドの背面上部に林立していた防空機銃座と対空レーダー群を、まるで草刈りでもするかのように一挙に薙ぎ払った。
轟音。爆風。そして、噴き上がる巨大な黒煙。
奇襲から離脱まで、時間にしてわずか数秒。
ティターンズの誇る巨大航空要塞メロウドの『頭脳』と『目』は、一機のモビルスーツによる神速のダイブによって、完全に粉砕されたのである。
『――ッ!? メ、メロウドのメインブリッジが……消滅しただと!?』
隣空を飛行していたもう一機のガルーダ級『スードリ』。
その機長席で、ベン・ウッダード大尉は、目前で僚艦の頭部が爆発し、黒煙を吹き上げながら沈んでいく光景を目の当たりにし、血の気が引くのを感じていた。
「馬鹿な……! 我々の頭上を取っていた機体がいたというのか!? レーダーは何をしていた!!」
『み、ミノフスキー粒子の濃度が濃すぎて、高高度からの急降下を感知できませんでした! 敵機はそのまま雲海へ離脱! は、速すぎます!!』
たった一機。
その異常なまでの戦術的イレギュラー(単機特攻)を、なぜ完璧に成功させることができたのか。
ベンには理解できなかった。いや、軍の教本に縛られた常識的な軍人には、アムロ・レイという男の持つ『ニュータイプとしての直感的な三次元空間の把握能力』と、『致死の恐怖を克服した異常な冷静さ』を計算に組み込むことなど、土台不可能なのだ。
「メ、メロウド、高度低下! 飛行姿勢を維持できません!」
メインブリッジを失ったメロウドは、完全にコントロールを失い、巨大な機体を傾けながらみるみるうちに高度を落としていく。
艦内の非常回線が悲鳴を上げる中、機体下部のサブブリッジにいた副官たちが、絶望的な状況の中で必死に指揮権を引き継ごうとしていた。
だが、メインシステムの大半を物理的に破壊されたメロウドに、もはや空に留まる力は残されていない。彼らに残された道は、機体が完全に空中分解する前に、なんとか機首を引き上げて日本海への『不時着水』を試みることだけであった。
「……おのれ、C・Lの策士どもめ!」
ベン・ウッダードは、後退りするように機長席のコンソールを叩きつけた。
自分たちが狩る側だと思っていた。だが現実は、自分たちはまんまと高度を下げさせられ、最も無防備な頭頂部を敵の死神に差し出していただけだったのだ。
「対空防御、最大展開! 弾幕を張れ! スードリの直掩部隊は直ちに発進! 雲海に潜った白いモビルスーツを何としても探し出し、叩き落とせ!!」
後手に回ったベンは、半ばパニックに陥りながらも、残された全防空戦力を空へと放った。
スードリのハッチから、復讐と恐怖に駆られたティターンズのモビルスーツたちが、黒い弾丸のように次々と飛び立っていく。
極東の空は今、一つの巨大な要塞の墜落という決定的な戦局の転換を迎え、さらなる凄惨な乱戦の泥沼へとその口を大きく開けようとしていた。
そして、その分厚い雲海の下では、獲物の息の根を止めるための次なる一撃を準備する白き修羅が、静かにその翠緑の瞳を光らせていた。
地球の重力下で、コジマとアムロが太平洋を横断し、ティターンズのガルーダ部隊と熾烈な死闘を繰り広げているその頃。
泥沼の睨み合いと、息の詰まるような政治的冷戦が続くサイド1の『スウィートウォーター』、および旧ソロモンである巨大要塞『コンペイトウ』の連邦軍基地に、深宇宙の観測網から一つの奇妙で、しかし極めて重大な情報がもたらされた。
『――アステロイドベルト(小惑星帯)深部にて、巨大な熱放射および光点を観測。現在、秒速数十キロの速度で地球圏へ向けて接近中』
その報告は、最初は単なる天体観測のノイズ、あるいは定期的に地球と木星を往復している木星資源船団(ジュピトリス級)のいずれかであろうと、多くの連邦軍高官たちには軽く見積もられていた。
しかし、その光点が木星船団の正規航路から完全に外れた座標から出現したこと、そしてその熱放射の規模が、一個艦隊どころか『小惑星そのものを推進させている』としか思えないほどに異常な莫大さであったことから、未確認の巨大勢力であることは誰の目にも明らかとなった。
この正体不明の接近者に対し、最も早く、そして最も強く『最高レベルの警戒』をコンペイトウの司令部へ進言したのは、他ならぬC・Lの部隊指揮官、ブライト・ノア大佐であった。
「……間違いない。奴らだ」
C・L旗艦のブリッジ。手元に送られてきた光学観測のスペクトル・データを見た瞬間、ブライトは血の気が引くのを感じ、低く唸り声を上げた。
なぜ、連邦の正規軍ですら正体を掴みあぐねている未確認勢力に対し、ブライトがそこまでの確信を持てたのか。
それは、地球にいるアムロ・レイ、そして彼らが極秘裏に保護しているセイラ・マスから寄せられていた、幾つかの断片的な情報と、一年戦争からの生存者としての鋭い推論が結びついた結果であった。
かつて、一年戦争の終結時。陥落する宇宙要塞ア・バオア・クーから、一部のジオン公国軍残党が大量の艦隊を率いて逃亡した。彼らはドズル・ザビの忘れ形見である幼き姫君、ミネバ・ラオ・ザビを擁し、地球圏を遠く離れたアステロイドベルトの資源採掘用小惑星へと逃げ延びたと言われている。
その小惑星の名は、『アクシズ』。
地球連邦政府は、彼らが木星圏の過酷な環境で自然消滅したか、あるいは二度と地球圏へ戻ってくる力などないと高を括り、長年にわたってその存在を黙殺してきた。
だが、シャア・アズナブルの動向を追い続けていたセイラやアムロたちは、アクシズが単なる難民キャンプなどではなく、密かに軍備を再建し、いつの日か地球圏へ帰還するための牙を研ぎ澄まし続けている『ジオン公国の真の亡霊』であることを、肌感覚で確信していたのである。
ブライトは、額に冷たい汗を滲ませながら、メインモニターに映し出された宇宙の暗闇を睨みつけた。
(……なぜ、このタイミングだ?)
アクシズが地球圏へ向けて動き出した。
その事実は、この宇宙世紀の政治バランスを根底から覆すほどの衝撃である。
彼らは、地球連邦軍がティターンズとエゥーゴ、そしてC・Lという複数の派閥に分裂し、骨肉の内乱を始めようとしているこの『致命的な隙』を正確に嗅ぎつけて、侵攻を開始したのだろうか。
それとも、小惑星の軌道計算上、単に地球圏へ接近するのに最も適した周期(タイミング)が今であったという、宇宙の悪戯のような偶然に過ぎないのか。
真意は分からない。
だが、いずれにせよ、ブライトにとって明確な事実が一つだけあった。
「……相手の意図が何であれ、警戒を強めて問題になることは何一つない。各艦、対空戦闘警戒レベルを引き上げろ! コンペイトウの正規軍司令部にも、再度私の名において警告を送れ。相手は単なる難民ではない、牙を剥いたジオンの本隊だとな!」
ティターンズとの間で膠着状態に陥っているサイド1の空域に、突如として降り注ごうとしている第三――いや、第四の巨大な影。
地球圏の内乱という火薬庫に、ザビ家の血を引く亡霊という『最大の起爆剤』が投下されようとしている。
目前の敵を刺激しないよう息を殺していたブライトたちC・Lの将兵は、遥か数億キロの彼方から迫り来る冷たい恐怖に対し、二正面作戦という最悪の事態を想定しながら、さらなる重圧と神経戦の泥沼へと引きずり込まれていくのであった。