東アジアの要衝、上海。その上空に停泊する超大型輸送機ガルーダの作戦司令室には、出撃を控えた重苦しい静寂が漂っていた。
コジマ准将は、安全な北米のシャイアン要塞ではなく、最前線の空飛ぶ司令部たるこのガルーダにその身を置いていた。
なぜ自ら死地に赴くのかと問われれば、彼にとって答えは一つしかなかった。己の魂の在り処が、政治家たちが群れる安全な密室よりも、硝煙と鉄の匂いが立ち込める前線指揮官の座にこそ最も適していると自覚していたからだ。
いかに命の危険があろうとも、彼には机上の政治的駆け引きよりも優先して護るべき、前線の部下たちの命と「現実」があった。
そして、その司令室の片隅には、出撃の最終ブリーフィングを終えたばかりのアムロ・レイの姿があった。
彼らは今、極東管区司令部との完全な連携の下、上海地区に深く根を張るテロリスト集団『カラバ』と、その最大の資金源である巨大地下シンジケート『ルオ商会』の完全摘発という、大規模な軍事作戦の火蓋を切ろうとしていた。
その極度の緊張感が張り詰める中、アムロの専用通信端末に、地球の裏側からの暗号通信が飛び込んできた。
『——アムロ大尉! セイラ様が……セイラ様がフロリダで破水されました!』
その報告を受けた瞬間、いかなる死地においても氷のように冷徹であったアムロの表情が、一瞬だけ激しく揺らいだ。
今すぐモビルスーツの推力を最大にして、大気圏を飛び越えて彼女の元へ駆けつけたい。愛する人が生死を懸けた痛みに耐えている時、その手を握ってやりたい。一人の男としての、ごく当たり前で優しい感情が彼の胸を締め付けた。
だが、アムロは足を踏み出さなかった。
今まさに、地球圏の安定を左右する巨大な作戦が始まろうとしている。作戦の中核たる自分が、私情でこの戦線を離脱すれば、どれだけの部下が死に、どれだけの無実の血が流れるか。彼は、それを知りすぎていた。
「……行かなくて良いのか?」
端末を握りしめ、俯くアムロの背中に、コジマが静かに声をかけた。
アムロは、ゆっくりと顔を上げ、司令官に向き直った。
「作戦が始まります。何より……こうなるかもしれないという覚悟は、彼女とも既にしていました」
コジマは、無理に感情を押し殺そうとしている青年の顔を見て、深く、しかしどこか温かみのある溜息を吐いた。
「嫁に敷かれるタイプだな、君は。……かく言う私も、若い頃はそういったものだったがね。君を見ていると、昔の自分を見ているようだ。私はパイロットではなかったがな」
コジマは、革手袋に包まれた手で、アムロの肩を力強く叩いた。
「兎も角として。……後悔は無いな?」
「……はい」
アムロの返事は短かったが、その翠緑の瞳には、かつての一年戦争の時のような「死を恐れぬ虚無」は微塵もなかった。
そこにあったのは、何が何でもこの作戦を完遂し、這ってでも生きて愛する家族の元へ帰るという、血の通った強烈な決意の炎であった。
―――
一方その頃、上海市街の裏通りに位置するウォン商会およびルオ商会の関連施設は、蜂の巣を突いたようなパニック状態に陥っていた。
『連邦軍と極東軍の正規部隊が、実力行使を開始する』
その情報が裏ルートからもたらされるや否や、商会の幹部たちは血相を変えて家財や裏帳簿をまとめ始めたが、正規軍の包囲網の展開速度に間に合うはずもなかった。彼らは最低限の重要書類だけを焼却炉に放り込み、一目散に脱出ルートへの逃走を試みていた。
その狂騒の渦中に、一人のうら若き女性の姿があった。
ベルトーチカ・イルマである。
彼女は、一年戦争の戦災孤児であった。焦土となった街でルオ商会の有力者の一人に拾われ、義父として育てられた彼女は、表向きはフリーのジャーナリストとして活動しながら、その実態は商会とカラバに有益な情報を横流しするスパイとして動いていた。
ただ、彼女自身に「自分はテロリストの協力者である」という暗い自覚はない。孤児を拾い、教育を与えてくれた義父と組織への恩返しこそが彼女の正義であり、その教育の賜物として、彼女は己の行動を微塵も疑っていなかった。
「モビルスーツ隊は呼べないのか!? このままでは連邦の犬どもに制圧されるぞ!」
逃げ惑う幹部の一人が叫んだが、ベルトーチカは燃え盛る書類の炎を見つめながら、冷徹に首を横に振った。
「無駄です。相手は連邦の正規軍ですよ? それも……あのアムロ・レイの部隊が動いているんです。こんなところで私兵のモビルスーツを出して無駄な血を流して、一体何になるんです?」
周囲の大人たちを冷静に牽制し、撤退を指示するその姿は、すでに歴戦の幹部そのものであった。
だが、その合理的な判断の裏側で、ベルトーチカの胸の内には極めて複雑な感情が渦巻いていた。
相手は、あのアムロ・レイなのだ。
戦災孤児として絶望の淵にあった少女時代の彼女にとって、ジオンの独裁に立ち向かい、数々の奇跡を起こした「連邦の白い流星」の英雄譚は、どれほど心の支えになったことか。
その憧れの英雄が今、自分たちを『反乱分子』として冷酷に鎮圧し、牙を剥いて立ちはだかっている。
だが、悲しいかな。憧れというものは、理解から最も遠い場所にある感情である。
ベルトーチカにとってのアムロ・レイは、あくまで物語の中の「英雄」という偶像に過ぎなかった。
今この瞬間、その英雄が、遠く離れた地で産気づいた妻の元へ帰るために、泥まみれの現実の中で必死に生きて帰ろうとする『一人の等身大の人間』であることなど、彼女が知る由もなかった。
ズドォォォォォンッ……!
地響きとともに、遠く離れたカラバの秘密基地の方角から、重厚な爆発音が上海の空気を震わせた。アムロ・レイを筆頭とするC・Lの強襲部隊が、ついに作戦を開始したのだ。
「……急がないと」
ベルトーチカは、誰に言い聞かせる訳でもなくただ小さく呟き、燃え落ちる過去の記録に背を向けて、暗い地下通路へと足を踏み出した。
―――
コンペイトウ近海の暗礁宙域での戦闘は、いつしか凄惨な『狩り』へと変貌していた。
追うヤザン・ゲーブル。
逃げるアナベル・ガトー。
巨大なデブリの狭い隙間を縫うように機体を滑らせながら、ガトーは時間稼ぎの逃走を続けていた。ヘルメットのバイザーの奥、彼の顔には異常なほどの汗が浮かび、その眼差しには彼らしからぬ迷いが孕んでいた。
本当に、自分はこのような無為な死を選んで良いのか?
目前に迫っているのは、かつて『星の屑』を打ち破ったアムロ・レイたちと志を同じくする、リリー・マルレーンの精鋭部隊である。彼らに真実を打ち明け、投降すれば……あるいは、人質となっているあの子供たちや同胞を救い出してくれるのではないか?
だが、万が一にも自分が捕縛されたとエゥーゴの監視役に知れた瞬間、難民キャンプの子供たちが口封じに殺害されないと、一体誰が保証できるのか。
堂々巡りの逡巡。その時、コックピットの近接センサーが鋭く瞬いた。
「かくれんぼは終わりか? それともまだ逃げ回るってんなら、話は別だがなぁ」
通信回線に割り込んできた、ヤザンの野獣のような挑発。その声に宿る凄まじい勘と闘争心に、ガトーは敵の隊長機に乗る男に対して確かな敬意を抱いた。
同時に、彼の中で燻っていた迷いが、静かに、そして完全に断ち切られた。
ガトーは深く、深く息を吸い込み……ゆっくりと吐き出した。
「……ドズル閣下。どうやら私は、真の死に場所を見つけられたようです」
その瞳から、一切の淀みが消え失せた。
完全な死角からの奇襲。
いかに全天周囲モニターが自機の周囲360度を映し出そうとも、無数の岩塊と残骸が浮遊する暗礁宙域においては、必ず物理的な死角が生まれる。
三対一で包囲網を敷こうとも、その網の目には必ず綻びがある。
デブリの陰から躍り出たガトーは、間髪入れずにビーム・ライフルを二発、正確無比な連射で放った。
だが、ヤザンのコックピットの警告音が鳴り響くよりも早く。
ヤザンは背筋を駆け上がる強烈な寒気を本能で察知し、機体のスラスターを爆発的に吹かしてその致死の軌道から紙一重で逃れていた。
「やっとお出ましか!!」
完全に殺る気になった相手の気配に、ヤザンは狂喜の笑い声を上げた。だが、彼の目は微塵も笑っていない。油断など一切ない。それこそが、ヤザン・ゲーブルという男の恐ろしさであった。
暗礁を盾に使いながら、ヤザンは矢継ぎ早にダンケルとラムサスに指示を飛ばし、三機は完璧な連携で猟犬のように立ち回る。
だが、そんな戦術的包囲など構うものかと、ガトーのマラサイはヤザンの隊長機のみに狙いを定め、スラスターの最大推力で一直線に突進した。
「ヴううぅぅぅオオオオオオッ!!」
真空の宇宙に響くはずのない男の咆哮が、空間に木霊する。
その鬼神の如き姿を見て、ヤザンはさらに深く口角を吊り上げた。両者は互いに遠距離武装を捨て、ビーム・サーベルを引き抜いて激突する。
バチバチと迸るメガ粒子の刃。
紫電が暗礁の闇を激しく照らし出す。
「私には、護らねばならぬ物があるのだ……! 押し通る!!」
「へっ! 中々面白い相手じゃねぇか!!」
ガトーは手首のスナップを利かせて瞬時に二本目のサーベルを引き抜き、双剣による怒涛の連撃で一挙に決着をつけようと踏み込んだ。
だが、ヤザンはその猛攻を、機体を横滑りさせる変態的な機動で躱し、刃の圏外へと逃れる。
戦闘は一見、互角の一進一退に見えた。
しかし、死を焦るあまりに視界をヤザン一人に絞りきってしまったガトーは、この時、自らの背後に致命的な隙を晒していた。
そう、敵はヤザン一人ではない。彼が双剣を振り下ろしたこの時点で、すでに勝敗は完全に決していたのだ。
背後から放たれた一筋の閃光。
それがマラサイのバックパックに直撃した瞬間、機体は爆発することなく、強烈な電磁パルスに包まれて全機能が一瞬にして強制シャットダウンされた。
ダンケルとラムサスによる、非致死性のショック・モードによる狙撃。見事な腕前であった。
コントロールを失い、デブリ帯の中を無力に漂い始めたマラサイを見下ろし、ヤザンはコックピットの中でふうと息を吐いた。
「……さて。本当はもっととことんまで楽しみたいんだが、生け捕りにしろってのが上の都合なんでな。大人しく来てもらおうか」
それは、死に場所を求めた亡霊に対する、ヤザン隊の完全なる勝利であった。