フロリダの海岸沿いを貫くハイウェイを、けたたましいサイレンを鳴らしながら緊急車両が疾走していく。赤色灯の閃光が車内の壁を規則的に照らし出す中、セイラ・マスはストレッチャーの上で身をよじり、断続的に襲い来る激痛に耐えていた。
「陣痛って……、こんなに苦しいのねッ!」
それは、これまで数々の死線を潜り抜けてきた彼女であっても経験したことのない、腹の底から骨盤を叩き割られるような凄まじい痛みであった。
しかし、人体の不思議か、あるいは母となろうとする妊婦の強さか……彼女の意識は熱に浮かされることなく極めてハッキリとしたものであり、激痛の波が来るたびに、ストレッチャーの金属製の手摺をミシミシと音が鳴るほど強く握りしめていた。
付き添いとして同乗していたフラウ・コバヤシは、額に脂汗を浮かべるセイラの顔をタオルで優しく拭いながら、心配そうに声をかけた。傍らでは、幼いキッカが怯えたような、しかしセイラを励まそうとする真剣な瞳で彼女を見つめている。
「セイラさん、もし何かあれば、直ぐに私達の手を握ってもいいのよ?」
フラウが両手を差し出そうとしたが、セイラは荒い息を吐きながら、首を横に振った。
「駄目よ……。今の私、痛みに耐えるのに必死でリミッターが無くなっているから、フラウの手を握ったら絶対に骨折させちゃうわ」
それは冗談でも何でもなく、極限状態にある人間の火事場の馬鹿力があれば、本当にフラウの華奢な手を砕きかねないという冷静な判断であった。
「……それよりも、フラウ。貴女も同じような事になるんだから……、覚悟しておいてね」
痛みの中で、セイラはあえて少しだけ意地悪な笑みを浮かべてみせた。フラウのお腹も、まだ出産には早いが、確かに新しい命の重みでふっくらと膨らんでいる。フラウは、差し出しかけた手を引っ込めると、自分のお腹を愛おしそうに撫でてふわりと微笑んだ。
「ええ、いいお勉強になるわ。私にとっては、セイラさんが先輩ね」
「フフ……ッ!!」
セイラが微かに笑い声を漏らした直後、再び襲いかかってきた陣痛の波に、彼女はギュッと目を閉じ、金属の手摺をさらに強く握り込んだ。白く細い腕に、不釣り合いなほどの力がこもる。
戦火の中で芽生えた命が、今まさに自らの力でこの世界へと這い出ようと、猛烈な産声を上げる準備を始めていた。
―――
一方で、フロリダのコバヤシ邸に取り残され、セイラを見送ったカツとレツの二人はと言えば。フラウから言い渡された『セイラさんの宿泊準備と入院セットをまとめる』という任務をこなすため、客室のベッドの上で慌ただしく荷物をボストンバッグに詰め込んでいた。
「大丈夫だって。……だって、あのセイラさんだぞ? 早々駄目なことにはならないって」
産着やタオルを畳みながら、レツが努めて明るい声を出した。しかし、バッグの横に座り込んだカツは、意気消沈したまま深い溜息をつき、膝を抱え込んでいた。
「でも、僕があんな話をしなけりゃ……」
カツの声は震えていた。自分が『連邦の犬』などと心無い言葉をぶつけ、彼女を責め立てた直後に、セイラは苦しみながら倒れ込んだのだ。もし、自分の言葉が過度なストレスを与え、お腹の赤ちゃんに何かあったらどうしよう。その強烈な罪悪感が、少年の胸を押し潰しそうになっていた。
彼に悪気があったわけではない。
周囲の大人たちが語る無責任な政治思想に影響され、複雑に絡み合う地球圏の状況を正しく理解できないまま、ただ純粋な正義感を振り回してしまっただけなのだ。
彼はまだ、あまりにも不器用な子供であった。
「カツのせいじゃないよ。赤ちゃんが生まれるタイミングだったんだ」
レツがカツの背中をポンと叩く。それでも、カツの後悔が晴れることはなかった。
だが。
そんな少年たちの純粋な心配と後悔を他所に、大人たちの泥まみれの陰謀は、新たな命の誕生という神聖な瞬間すらも冷酷な標的としていた。
フロリダの総合病院へ向かう救急車の後方を、一定の距離を保ちながらピタリと追走する、二台の黒塗りのセダンがあった。
『——目標の乗った車両、現在ハイウェイ95号線を南下中。間もなく指定の病院へ到着する模様』暗い車内で、黒スーツの男が通信機に向かって低く報告を入れる。彼らは、ティターンズの正規部隊ではない。
エゥーゴやカラバの急進派、あるいはルオ商会の息がかかった裏社会の工作員か。
いずれにせよ、彼らを突き動かしているのは、コバヤシ邸を密かに監視していたスパイから流された、極めて重大な『一つの情報』であった。
『アルテイシア・ソム・ダイクンが、産気づいて病院へ向かった』
ジオン公国の創始者の実娘であり、北米方面軍と極東軍の連携を裏で繋ぐ巨大な政治的象徴。
彼女の存在は、今や地球圏の軍事バランスを左右するほどの絶対的な価値を持っていた。
そのアルテイシアが、強固なシャイアン要塞の地下を離れ、護衛のアムロ・レイもいない丸腰の状態で、フロリダの民間病院へ向かっている。
これほど無防備で、これほど巨大な『人質』は他にない。
もし彼女を、あるいは生まれてくる彼女の子供を確保できれば、C・Lの動きを完全に封じ込め、アムロ・レイという最強の戦力に首輪をつけることすら可能となるのだ。
「病院へ到着し、ストレッチャーが降ろされたタイミングで確保する。手荒な真似はするなよ、超特級の政治カードだ」
男の冷酷な指示が、車内に響く。新しい命が産声を上げようとするその光に群がるように、どす黒い政治の亡者たちが、救急車の放つ赤色灯の軌跡を静かに、そして確実に追い詰めていた。
―――
フロリダの陽光を反射しながら、救急車の放つ赤色灯がハイウェイを南下していく。
そのサイレンの音を遠くに聞きながら、裏道を使って先回りしようと急ぐ黒塗りのセダンの車列があった。追跡する二台とは別のグループだ。
アルテイシア・ソム・ダイクンという、この世界における最大級の『政治カード』。
その身柄を確保すべく放たれた非正規の工作員たちは、三台の車を縦列に連ね、周りの一般車両を威圧するようにして病院へと続く幹線道路を急いでいた。
通信機からは、目標を乗せた緊急車両の現在位置が随時送られてくる。あと数ブロック先の交差点で網を張れば、確実に救急車を足止めし、ストレッチャーごと強奪できる手筈であった。
だが、その異様な速度で進む黒い車列の前に、交差点の横道から一台の薄汚れたステーションワゴンが、まるで先導車のようにふらふらと躍り出た。
「チッ、邪魔だ! どかせ!」
先頭車両を運転していた工作員がクラクションを鳴らし、強引に追い抜こうとステアリングを切った。その瞬間。ファミリーカーが、不自然なほどの急ブレーキを踏んだ。
「なっ――!?」
キキィィィッ!鈍い衝突音とともに、先頭のセダンがファミリーカーのリアバンパーに激突する。エアバッグが作動するほどの衝撃ではなかったが、車列は完全に急停止を余儀なくされた。
「クソッ、こんな時に! ぶつけられたのはこっちだが、構わん、バックして横を抜けろ!」
助手席のリーダー格が苛立ちに顔を歪め、運転手に怒鳴る。
しかし、彼らが体勢を立て直すよりも早く、ファミリーカーの運転席から一人の男が降りてきた。
チェックのシャツにチノパンという、いかにも休日の良きパパといった風情の、線の細い『優男』であった。
「あー、まいったな……。あの、すいません! 皆さんお怪我はないですか!?」
優男は、大袈裟な身振り手振りでセダンの窓に駆け寄り、ペコペコと頭を下げながら話し始めた。
「いやあ、いきなり猫が飛び出してきましてね。本当に申し訳ない。とりあえず、
早口でまくしたてるその姿は、交通事故でパニックになった典型的な一般市民そのものであった。
しかし、追跡者たちにとって、今は一分一秒が惜しい状況である。何より、彼らは完全な非合法作戦の最中であり、トランクの中には重火器が満載されている。警察など呼ばれては、すべてが水の泡であった。
「……保険も警察も不要だ。修理代はこちらで持つ。だから、さっさと車をどけろ」
リーダー格の男が、窓を数センチだけ開け、ドスを効かせた声で威圧した。だが、優男は引き下がらない。
「いやいや、そういうわけには! もし後からむち打ちとかになっても困りますし、やっぱりこういうのはちゃんと保障の話を……」
「ええい、しつこいぞ!」
ついに我慢の限界を超えた後部座席の工作員が、携帯用の
「怪我人はいないで良いんですよね?」
などと能天気に聞いてくる態度に、彼らの殺意は沸点に達していた。
「さっさとどけ。……さもなくば、お前の頭を吹き飛ばして、車ごと押しのけるぞ」
本物の銃口と、冗談ではない殺気を前にして。
優男は「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、両手を顔の前に突き出して大袈裟に震えてみせた。
「わ、分かりました……! ど、どきます、すぐどきますから……!」
男は渋々と、逃げるように自分のファミリーカーへと戻っていった。
しかし、運転席に乗り込んだ後も、彼は同乗者と何か言い争いをしているのか、あるいはエンジンが掛からないのか、一向に車を動かそうとする気配がない。無情にも、秒針だけがチクタクと進み、救急車との距離が離れていく。
「……もういい。強行突破する。あの車を弾き飛ばせ」
リーダー格が舌打ちとともに、非情な命令を下した。運転手がアクセルを踏み込み、V8エンジンが猛烈な唸りを上げる。
次の瞬間であった。
セダンが発進しようと前進した、まさにその刹那。目前を塞いでいたファミリーカーの「後部ドア」が、内側から爆発したかのように勢いよく弾け飛んだ。
ズドォォォォンッ!!!
それは、交通事故の音ではない。
完全に、軍用兵器が火を噴く重低音であった。
ファミリーカーの荷台から放たれた『何か』――対物ライフルが、先頭のセダンのフロントグリルに直撃し、堅牢なエンジンブロックを紙屑のように吹き飛ばしたのである。
「な、なんだと!?」
「敵襲ゥッ!!」
爆炎と黒煙が舞い上がる中、後続の工作員たちが慌てて車から飛び出し、アサルトライフルを構えようとした。
しかし、彼らが反撃に移るよりも早く、ファミリーカーの暗い荷台から、二発、三発と、間髪入れずに大口径の徹甲弾が連続して撃ち込まれ、後続のセダンのドアごと工作員たちを物理的に粉砕していく。
ただのファミリーカーではない。
それは、重火器を隠し持った完全な『偽装車』であった。
「……ふう。お前らみたいなコソ泥を相手にするには、少し過剰火力だったか?」
先ほどまで震えていたはずの『優男』が、運転席のドアを蹴り開けて悠然と外へ降り立った。
彼の顔には、先ほどの怯えたような表情は欠片もなく、歴戦の兵士が持つ冷酷で研ぎ澄まされた笑みが浮かんでいた。手には、軍用のショットガンが握りしめられている。
「チィッ、連邦の犬どもめ……! 伏兵か!」
生き残った工作員たちが、防弾仕様の車のドアを盾にしながら、一斉に反撃の銃弾をばら撒く。
しかし、彼らの絶望はそれだけでは終わらなかった。
「フロリダへようこそ!!」
大通りに、スピーカーを通したような野太い大音声が響き渡った。それは、優男の声ではない。大通りの両脇に並ぶ、一見何の変哲もないダイナーや、ガソリンスタンド、あるいは平屋の住宅から放たれた声であった。
「撃てぇっ!!」
その号令を合図に、周囲の建物から、あるいは路地裏から、アロハシャツやタンクトップ姿の『地元の住民たち』が次々と姿を現した。
彼らの手には、自動小銃、ポンプアクション・ショットガン、さらには旧式のバズーカまでもが握りしめられている。
そう。彼らはただの一般市民ではない。
武装を是とし、自分たちの縄張りを荒らすよそ者には一切の容赦をしない、誇り高き『
タタタタタタタッ!!ズガァァァンッ!!
四方八方からの無慈悲な十字砲火。防弾ガラスは瞬く間に蜘蛛の巣状に砕け散り、黒塗りのセダンは蜂の巣にされて火を噴いた。
非合法作戦のプロフェッショナルであったはずの追跡者たちは、自分たちが完全に『狩られる側』に回っていたことにすら気付かぬまま、フロリダの強烈な洗礼を全身に浴びて、次々とアスファルトの上に沈んでいった。
遠く離れていく救急車のサイレンを背に、幹線道路は一瞬にして、白昼の凄惨な市街戦の舞台へと変貌を遂げたのである。
地球連邦という巨大な統一政府は、その実態において決して一枚岩の強権国家ではない。
各大陸、各地域の文化や旧世紀の法体系をある程度尊重し、それらを束ねる『地方自治体の巨大な寄り合い所』というのが、この巨大組織の真の姿である。
それ故に、この北米大陸フロリダ地区におけるローカル・ルールには、宇宙世紀になってもなお『旧合衆国フロリダ州の規定』が色濃く適応されている。
すなわち――自らの生命や財産、そして縄張りを脅かす侵入者に対し、市民が強力な武装をもって実力排除を行う権利。旧世紀において「Stand Your Ground:退いてはならな」法と呼ばれた、徹底した自己防衛の権利である。
「いやぁ、物騒な連中でしたねぇ。白昼堂々、善良な市民の車に追突しておいて、銃を突きつけて脅してくるとは」
もうもうと立ち込める黒煙と、蜂の巣になってひしゃげた黒塗りのセダンを見下ろし、先ほどまで「怯えた優男」を演じていた男が、ショットガンを肩に担ぎながら飄々と嘯いた。周囲に集まってきたアロハシャツやタンクトップ姿の地元民たちも、まるで害獣駆除でも終えた後のような、悪びれない笑みを浮かべている。
「全くだ。俺たちはただ、フロリダの州法に則って『正当防衛』を行っただけだ。文句があるなら、連邦の裁判所で聞いてやるさ」
「ティターンズだろうがエゥーゴの犬だろうが関係ねぇ。ここは俺たちの庭だ。
身重の妊婦を乗せた救急車をデカい面して追い回すようなクズどもは、沼地のワニの餌にでもなればいい」
彼らにとって、連邦軍の内乱など遠い宇宙の政治劇に過ぎない。
しかし、自分たちの生活圏を荒らすよそ者に対しては、旧世紀から受け継がれたこの地の『法』と『火器』をもって、容赦なくその牙を剥く。
追跡者の工作員たちは、この「地球連邦の自治の歪み」が生み出した、極めて合法的かつ暴力的な地元民の結束を完全に読み違えていた。
「よし、片付けろ。警察が来る前に、連中の武装と身分証だけ剥ぎ取って海に沈めちまえ。……あの救急車は、もう安全圏だ」
優男の指示に従い、地元民たちは手慣れた様子で残骸の処理と証拠隠滅を始める。
その頃、彼らが法に守られた過剰な自己防衛によって守り抜いた救急車は、すでに追跡者の影を完全に振り切り、目的地の総合病院の救急エントランスへと無事に滑り込んでいた。後方で起きた凄惨な銃撃戦の喧騒は、フロリダの暖かな潮風にかき消され、ストレッチャーの上で激痛に耐えるセイラ・マスの元へは届かない。
「急いで! ストレッチャーを下ろして!」
フラウ・コバヤシの切迫した叫び声とともに、待機していた医療スタッフたちが一斉にセイラを取り囲み、分娩室へと急行していく。
宇宙世紀の血みどろの権力闘争と、政治カードを狙って群がるハイエナたち。
そのすべての泥濘と悪意を、フロリダの陽光と硝煙が完全に遮断した密室の奥底で。
アムロとセイラの希望となる新しい命が、ついにこの世界との対面を果たそうとしていた。