「急ぎなさい。グズグズしていると、追っ手が来ますよ」
ステファニー・ルオのヒールが、冷たいコンクリートの床を硬く叩く。彼女は商会の命脈とも言える重要機密文書の入ったアタッシュケースを抱え、最小限の護衛と共に薄暗い地下通路を急いでいた。その隣を走るベルトーチカ・イルマもまた、息を弾ませながら退避を急いでいる。
ズズズズ……ッ。
ふいに、頭上の岩盤と背後の坑道から、重低音を伴う鈍い振動が響いてきた。
「……近いわね」「はい。想像よりもずっと、相手は優秀なんですね」
ベルトーチカは、努めて平静を装うように軽口を叩いた。だが、そうでもして虚勢を張らなければ、背後から迫り来る圧倒的な『死の気配』に心が押し潰されてしまいそうだったのだ。地上におけるC・L(北米方面軍)の動きは、一切の躊躇いがなかった。
『――こちらブラボー。目標が逃走に用いた地下通路の入り口を発見した。これより突入する』
通信機越しに漏れ聞こえる無機質な報告。C・Lの揚陸制圧班は、カラバのゲリラたちが仕掛けていた旧時代的なブービートラップやバリケードを、最新鋭の装備と精緻な軍事教練によって次々と、そして無慈悲に突破し、確実に獲物の喉元へと迫っていた。
暗く湿った道をひたすらに進む彼女たちの心境は、果てしなく重苦しいものだった。
栄光だとか、名誉だとか、そういった俗物的な欲求で動いていたわけではない。ティターンズという特権階級の横暴から地球圏を解放するための、正義の抵抗運動。その崇高な理念のために、自分たちはエゥーゴとカラバを裏から支援し、運営しているはずだった。
しかし、その結果がどうだ。
ティターンズと真っ向から反目しているはずのC・Lが、今、完全に自分たちを『テロリスト』と断定し、圧倒的な奇襲と制圧力をもって迅速に狩り立てている。これは、派閥同士の小競り合いなどという冗談で済まされる事態ではない。本物の、正規軍による『殲滅作戦』であった。
エゥーゴの指導者であり月面にいるブレックス・フォーラ准将と、C・Lを率いるコジマ准将。この二人が過去に極秘の会談を行っていたことは、ルオ商会の中枢にいる彼女たちも知っていた。
ティターンズの専横を許さないという根本の理念においては、互いに分かり合えていたはずなのだ。しかし、これほどまでに明確な敵対意思をもって銃口を向けられているということは、即ち、どこかで決定的な『歯車』が噛み合わなかったことを意味している。
ブレックスには、強烈な『焦燥感』があった。彼は、ティターンズの暴走を一日でも早く止めるためならば、多少の武力行使や、ゲリラ戦法による破壊活動といった急進的な改革もやむなしとした。テロリズムという劇薬を使ってでも、世界を動かそうとしたのだ。
対して、コジマにはそれが無かった。彼はあくまで正規軍の枠組みの中で力を蓄え、秩序を保ったまま変革の芽が育つのを待とうとした。力任せの破壊は、新たな火種と無実の血を生むだけだという現実を知り尽くしていたからである。
急進と、漸進。革命と、秩序。
たったそれだけの、ほんの僅かなアプローチの違いが、互いを全く別々の修羅の道へと歩ませてしまった。そしてその思想の決定的な決裂こそが、今、ステファニーとベルトーチカの目の前で起きている絶望的な包囲網――同じ反ティターンズ陣営同士の共食いという、最も悲惨な状況を引き起こした元凶なのであった。
「……急ぐわよ。このままでは、文字通り息の根を止められる」
ステファニーは暗闇の奥を睨みつけ、さらに歩みを速める。背後からは、軍靴の規則正しい足音と、冷徹な制圧部隊の銃器の擦れる音が、死神の足音のように確実に距離を詰めてきていた。
地上におけるカラバのモビルスーツ部隊と、アムロ・レイ率いるC・L強襲部隊との戦闘は、交戦状態に入った直後に、実質的な『終結』を迎えていた。
圧倒的な戦術練度の差。そして、稼働率から予備弾薬に至るまでの、決定的な兵站(物質的充足率)の差。
その二つの巨大な壁を、非正規のテロリスト集団であり、アナハイム・エレクトロニクス社の私兵に過ぎない彼らが覆せる道理は、最初からどこにも存在しなかった。
いかに裏ルートで最新鋭のモビルスーツを揃えようと、いかに法外な金で一年戦争を生き延びた元ジオン公国軍のベテランパイロットを傭兵として雇い入れようと、正規の過酷な訓練を積み、常に実戦の最前線で連携を磨き続けてきたC・Lの猟犬たちとの間には、決して埋めることのできない残酷な質の差があった。
数の上ではほぼ拮抗していたにも関わらず。
戦闘開始からものの五分と掛からずに、カラバのモビルスーツ部隊は完全に陣形を崩され、一方的な蹂躙の末に文字通り『全滅』しようとしていたのである。
『——こちらアムロ。敵モビルスーツ部隊の殲滅を確認した。これより、予定通り残存兵力の掃討へ移行する』
ガンダムℵのコックピットの中で、アムロはひどく平坦な声で通信を入れた。激しい戦闘の直後だというのに、彼の呼吸には僅かな乱れすらない。それは、あまりにも一方的な、作業としての戦闘であった。
モビルスーツ同士の戦闘が終われば、次は廃墟や市街地の物陰に潜む、歩兵(ゲリラ)たちの制圧である。まるで、巣に群がる白蟻を指先で一つ一つ潰していくかのように。
アムロは、研ぎ澄まされたニュータイプとしての超感覚で、瓦礫の裏や地下壕から発せられる微小な『敵意』や『恐怖』を正確に拾い上げ、容赦なくその拠点へとビームやバルカンを撃ち込んでいく。逃げ惑うゲリラたちを、一人、また一人と、冷徹に掃討していく。
相手は、分厚い装甲に守られた兵器ではなく、生身の人間である。
それはつまり、地上戦においては、時にモビルスーツの巨大な足で彼らを直接踏み潰し、その生々しい『返り血』が、機体の脚部装甲にべったりとこびり付くということを意味していた。
本来、高度な電子機器に囲まれ、モニター越しに敵を撃つモビルスーツパイロットという人種にとって、生身の肉体が潰れる感触や、装甲にこびりつく赤い血の染みは、ひどく遠く、強烈な嫌悪感を催させるものである。
だが、アムロ・レイはその『おぞましさ』に、すでに慣れきってしまっていた。
いや、心の奥底では確かに激しい嫌悪と吐き気を感じているはずなのに、敵を殺し、戦場を制圧するという『状況』に精神が適応しすぎているせいで、彼の脳はそれをただの「軍事的な作業のプロセス」として処理してしまうのだ。
(……これが、人を殺すということだ)
血に塗れたガンダムの足元をモニター越しに見下ろしながら、アムロは薄暗いコックピットの中で、自らの選んだ道の過酷さを噛み締めていた。
間もなく、地球の裏側で、自分とセイラの血を引く新しい命が生まれようとしている。一人の人間の親となろうとしている男が、今こうして、数え切れないほどの誰かの親や子を、虫けらのように踏み潰している。
大義名分がどうであれ、どれだけ軍の階級が上がろうとも。
本質的に、自分は『人殺し』に他ならない。その取り返しのつかない罪の意識だけが、アムロの心を冷たい鎖のように縛り付けていた。
時を同じくして、ルオ商会の本拠地にして極東最大の貿易都市・ニューホンコンに、極東管区の治安維持部隊が雪崩れ込んでいた。
上空を制圧した軍用機から、大音量のスピーカーで街全体へと冷酷なアナウンスが響き渡る。
『——地球連邦軍極東管区司令部より、ニューホンコン全域の市民へ告ぐ! 本日この時刻をもって、当市街に完全な戒厳令を発令する!』
武装した連邦兵士たちが主要な交差点と港湾施設を封鎖し、逃げ遅れたルオ商会の関係者やカラバのシンパたちが次々とアスファルトに押さえつけられ、手錠を掛けられていく。
『市民は直ちに屋内へ退避せよ! 外出は一切禁ずる! 警告を無視して街路をうろつく者はテロリストと見なし、即座に捕縛、あるいは発砲する! 繰り返す——!』
逃げ惑う市民の悲鳴。軍靴の音。そして、街を覆い尽くす暴力的な軍事統制の空気。
「……嫌な時代になったな」
アムロは、メインモニターに映し出された、制圧されゆく街の景色を見つめながら、ぽつりと独りごちた。
自分たちは今、腐敗を撒き散らし、民間人を巻き込むテロリスト集団と戦っている。ティターンズの暴走を止め、世界に秩序を取り戻すための『正義』は、間違いなくこちら側にあった。
だが、力によって平定された街の静寂を見下ろしていても、アムロの胸の内に湧き上がるのは、達成感でも誇りでもなく。ただ、底知れぬほどに深く、冷たい『虚しさ』だけであった。
暗く湿った地下通路を抜け、ようやく外の空気が流れる出口へと辿り着いたステファニーとベルトーチカを待っていたのは、夜の闇を暴力的なまでに切り裂く、強烈で眩いサーチライトの白光であった。
「そこまでだ。完全に包囲している」
網膜を灼くような光の向こう側には、完全武装した極東管区の治安部隊が幾重にもバリケードを築いていた。上空ではホバリングするガンペリーが逃げ道を塞ぎ、無数のアサルトライフルの銃口と、モビルスーツの巨大なメインカメラが、這い出てきた鼠たちを冷酷に見下ろしている。護衛として随伴していた数名のガードでは、到底覆すことのできない絶望的な戦力差であった。
『——武器を捨てて大人しく投降せよ! さもなくば発砲する!』
拡声器を通した威圧的な声が、ニューホンコンの夜気に響き渡る。窮地に追い詰められた護衛の一人が、反射的に懐のサブマシンガンへ手を伸ばし、玉砕覚悟で応戦しようと身構えた。だが、ステファニー・ルオは極めて冷静に、その部下の腕を手で強く制した。
「無駄よ。犬死にする気?」
彼女は、眩しさに目を細めながらも、包囲する連邦兵たちを静かに見据えた。
「それよりも、相手が『話の通じる連中』であることを祈りましょう。……交渉は、私たちルオ商会の最も得意とする仕事のようなものなのだから」
ステファニーは、商会の機密と莫大な裏金が詰まったアタッシュケースを未練なく足元へ降ろすと、ベルトーチカに目で合図を送り、ゆっくりと両手を頭の後ろで組んだ。ベルトーチカもまた、唇を噛み締めながらそれに従う。
この日、この瞬間。
地球連邦特別行政区であり、経済特区として独自の権力を誇っていたニューホンコンに深く染み付いていた巨大地下シンジケート『ルオ商会』は、地球の表舞台から完全にその姿を消した。
莫大な資金源と情報網を同時に絶たれたことで、なおも地下に潜り抵抗を続けようとするカラバの残党がいたとしても、組織的な指揮系統を失った彼らが、最新鋭の装備を持つ正規治安部隊に刃向かうことは、もはや事実上不可能な状態へと追い込まれていた。
東アジアの覇権を巡る陰惨な掃討戦は、C・Lの完全なる勝利で幕を閉じたのである。
―――時を同じくして。
暗礁宙域での激戦の末にヤザン隊に拿捕され、コンペイトウ宙域に停泊する強襲巡洋艦『リリー・マルレーン』へと連行されたアナベル・ガトーは、冷たく無機質な尋問室の椅子に拘束されていた。
分厚い鋼鉄のドアが開き、彼の前に姿を現したのは、この艦の長であった。
「まったく……、アンタも懲りないもんだねぇ。またテロリストの片棒担ぎかい」
呆れたような、しかしどこか底意地の悪い皮肉を響かせて尋問室に入ってきた女。地球連邦軍の将校用の軍服をだらしなく着崩したリリー・マルレーンの艦長、シーマ・ガラハウであった。
かつての一年戦争、そしてデラーズ・フリートの決起において、互いに相容れぬ思想のままジオンの残党として暗躍した者同士。
パイロットとしては第一線を退いたものの、この特殊部隊とも呼べる艦を束ねる辣腕の指揮官として、彼女はコジマやブライトの元で独自の地位を築いていた。ガトーは、かつての因縁の相手が連邦の軍服を着ている姿を見ても、眉一つ動かさなかった。
「デラーズ紛争の折、特例の恩赦で罰を受けていたって言うのに、また随分と連邦に反抗的だね。理由はなんだい? それとも、アナハイムが積んだ『金』かい?」
シーマは尋問机に腰掛け、扇子を弄ぶようにしてガトーをねめつけながら、わざと挑発的な言葉を投げかけた。かつての『ソロモンの悪夢』であれば、その矜持を傷つける金銭への侮辱に対し、烈火の如く怒り狂い、大義を叫んだはずであった。
だが、今の彼にその炎はなかった。
「……その言葉は、甘んじて受けよう」
ガトーは、伏せていた目をゆっくりとシーマへ向けた。その屈強な武人の瞳には、かつての星の屑作戦で見せたような狂信的なまでの光はなく、ただ底知れぬ諦観と、血を吐くような苦悶だけが重く沈み込んでいた。
「私は、無力だ。……自らの命を捨てることすら、許されぬほどにな」
シーマの動きが、ピタリと止まった。
彼女は伊達に海兵隊で修羅場を潜り抜けてきたわけではない。目の前の男が、思想や金で動くような安いテロリストではないことも、彼が今、自分自身の意志を完全に剥奪された『死に体』であることも、その一言と瞳の奥の色だけで瞬時に悟った。
「……ふん。何か、酷くきな臭い『訳あり』のようだね。義に殉じるのが大好きなアンタが、自分から死に場所を探してウチの猟犬に尻尾を振るなんて、どう考えても異常だ」
シーマは机から降り、ガトーの顔を至近距離で覗き込んだ。
「言ってみな。エゥーゴの連中は、アンタの首にどんな鎖を巻き付けたんだい?」
ガトーの重く、ひび割れた声が、密室に響く。
彼が語ったのは、反地球連邦政府を掲げ、スペースノイドの解放と正義を謳うエゥーゴとカラバの、あまりにもおぞましい『裏の顔』であった。
彼らは、中立地帯や暗礁宙域に隠れ住む非武装のジオン残党の家族たちや、行き場のない戦災孤児たちが暮らす難民キャンプを、保護という名目で囲い込み、事実上の『人質』として掌握していた。
そして、「ティターンズへの抵抗活動に協力しなければ、彼らの安全は保障できない」という卑劣な脅迫をもって、ガトーをはじめとする熟練の元公国軍パイロットたちを最前線へと駆り出し、私兵として使い潰していたのであると。
それは、選民思想を振りかざして力で宇宙を支配しようとするティターンズのやり方と、本質的に何ら変わりのない……いや、平和と正義の仮面を被っている分だけ、さらにタチの悪い『凶悪犯罪』であった。
この日。
東アジアで商会の幹部たちが捕縛され、宇宙でガトーの沈痛な告白が記録されたことにより。
これまで「反ティターンズの正義の組織」として世論の支持を一部集めていたエゥーゴとカラバの、人質教唆とテロリズム支援という『真の罪状』が、初めて世界に向けて浮き彫りになろうとしていた。