宇宙世紀0087年、8月下旬。
フロリダの空に眩しい夏の日差しが降り注ぐ中、地球の裏側では命を奪い合う凄惨な戦いが続いていた。しかしこの総合病院の分娩室においては、数多の生命が散っていくのとは全く逆の、たった一つの『尊い命』が今まさにこの世界へ産声を上げようとしていた。
「ふうぅぅぅぅ……っ! ああっ……!」
分娩台の上で、セイラは大きく息を吸い込み、限界までいきんだ。下腹部から骨盤を内側から押し広げられるような、経験したことのないすさまじい苦痛と苦悶。気を失う妊婦もいるというその激痛の波の中で、しかしセイラの意識は恐ろしいほどに冴え渡り、自身の胎内から外へと出ようとする力強い『生命の息吹』を克明に感じ取っていた。
額に浮かぶ大量の汗を拭われながら、セイラの脳裏には、ふと一人の女性の姿がよぎっていた。
かつて、幽閉された塔の中で自分を抱きしめ、誰よりも愛してくれた優しき母、アストライア・トア・ダイクン。
(……お母様も、こうして私を……)
母となる。それは、かつて自分を命懸けで産み落とし、愛してくれたあの母と同じ痛みを経て、同じ場所に立つということ。
どれほど医療が発達しようとも、周囲にどれだけ腕の立つ医師や助産師がいようとも。そして、愛する夫がどれほど遠くの空で祈っていようとも。
出産というものは、結局のところ誰が代わることもできない、母親と赤子だけが対峙する『完全な一人の戦い』であった。
セイラの決意は頑なであった。ジオンの姫としてでもなく、連邦の軍人としてでもなく、ただ一人の母親として、この痛みから決して逃げないという強靭な精神力が、彼女の細い身体に限界以上の力を生み出していた。
「そうです、上手ですよ! あともう少し……頭が見えてきました!」
医師の励ましとともに、自然分娩によって彼女の骨盤が動き、彼女自身の肉体が新たな命の通り道を完全に開く。そして、永遠にも思えた陣痛の波が最大のピークを迎えた、まさにその時であった。
オギャアアアッ! オギャアアアッ!
母親の胎内という温かな羊水の海から、外界へと押し出された小さな生命は、瞬時にその口を大きく開け、世界に向けて力強い産声を上げた。
これまで母親のへその緒を通じて酸素を受け取っていたその身体が、外界の空気に触れた瞬間に、自らの小さな肺を懸命に動かし始める。心臓の壁が閉じ、身体を巡る血液の循環システムが、母なる海から『自身の呼吸』へと劇的に切り替わっていく。
それは、一つの生命が完全に独立した一個の人間として完成した、奇跡の瞬間であった。
「おめでとうございます。……元気な女の子ですよ」
看護師が、手早く身体を拭われたばかりの小さな赤子を、そっとセイラの胸元へと近づけながら、心からの笑顔で告げた。
「あ……」
セイラは、汗と疲労で完全に疲れ切った顔を横に向け、自身の腕の中に抱かれたその我が子を見つめた。
まだまだ羊水でふやけきっており、肌は赤みを帯びてしわしわで、決して美しいとは言えない姿である。頭には、うっすらと柔らかな金色の産毛が張り付いていた。
しかし、その皺だらけの小さな顔と、ぎゅっと握りしめられた小さな拳を見た瞬間。
セイラの胸の奥底から、理屈や言葉を一切抜きにした、強烈で巨大な実感を伴う『愛』という感情が、とめどない涙となって溢れ出した。
これまで彼女が背負ってきたダイクンの血の呪縛も、戦争の業も、すべてを洗い流してしまうほどに無垢で、何物にも代えがたい温もり。
「……エレーネ」
セイラは、愛おしさに震える指先で、我が子の柔らかな頬にそっと触れた。
「エレーネ……。初めまして」
白ち悪魔と呼ばれた男と、数奇な運命を辿った女の間に芽生えた新しい命。
エレーネと名付けられたその少女は、母親の優しい声に応えるかのように、その小さな手を必死に動かし、もう一度、フロリダの空に向かって力強い産声を響かせた。
―――
新しい命が産声を上げていたまさにその同じ頃。東アジアの硝煙煙る戦場で、一人の男は『死』を見つめていた。
ガンダムℵのコックピット。全天周囲モニター越しに見下ろしているのは、瓦礫の中に転がる一つの「物」。いや、数分前までは確かな息遣いと熱を持った、『一つの者であった物』と呼ぶべき凄惨な残骸であった。彼らは一体、どれほどの数が一瞬にして滅んだのだろうか。
男の目の前に広がるのは、モビルスーツという圧倒的な鋼鉄の巨人に対して、ただ戦わんが為に歩兵用の小銃を握りしめ、決死の覚悟で立ち向かってきたゲリラたちの末路であった。
彼らはモビルスーツの装甲を抜くことすら叶わず、直撃ではなく、ただビーム兵器が放つ凄まじい光束の輻射熱を浴びただけで一瞬にして全身の水分を奪われ、表面が黒く炭化した『生命だったもの』へと変わり果てていた。
「……そこまで、何が駆り立てる?」
男――アムロ・レイは、モニター越しにその光景を見下ろしながら、冷徹な戦士の仮面を微かに崩し、苦悶の表情で誰にともなく問いかけた。
彼らが信じたエゥーゴやカラバの大義とは、これほどまでに無惨に命を投げ出す価値のあるものだったのか。連邦の腐敗を正すという美辞麗句の裏で、指導者たちはこの名もなき命たちをただの使い捨ての駒として消費したのだ。
『——こちら陸戦部隊。アムロ少佐、地下通路にて逃走を図っていた敵の要人(ルオ商会幹部)の身柄を確保しました。地上での散発的な抵抗は下火になりつつありますが、引き続き掃討を続行します』
通信機から、作戦の最終段階を告げる部下からの事務的な報告が響く。
「……そうか」
アムロは、ふうと深く、重い息を吐き出した。要人の確保が完了したのなら、指揮系統を失った末端のゲリラたちをこれ以上惨殺する戦術的な意味は無い。
「各隊に伝達。武力制圧から切り替え、スピーカー波による降伏勧告を続けろ。……これ以上の無駄な生命は失くしたい」
その声には、一年戦争から幾度となく戦場を駆け抜けてきた男の、拭いようのない深い疲労と、生命を刈り取ることへの根源的な拒絶が込められていた。
『了解しました、少佐。勧告に移行します』
アムロは操縦桿を握り直し、モニターに映る黒こげの亡骸たちへと静かに目を伏せた後、ガンダムの巨大な踵を返した。
地球の裏側で自分を待つ、光り輝く未来。そこへ帰り着くためには、今は目の前の血に塗れた泥道を歩き続けるしかないのだと己に言い聞かせるように、白き悪魔は残敵の武装解除という任務へと再び没入していった。
―――
その日の夜、上海での過酷な掃討戦を終えたアムロ・レイは、巨大な輸送機ガルーダの展望室でようやく一人きりの一息をついていた。
作戦の戦果としては申し分ない。
報告書のデータに並ぶ撃墜数や制圧完了の文字列は、極めて無機質で完璧な勝利を示していた。書類の上の数字に、人格や人生は存在しない。
だからこそ、軍のシステムは正常に機能するのだ。
だが、紙コップに入った温かいコーヒーを片手に、展望室の分厚いガラス越しに広がる夜の雲の切れ間を見下ろした時、アムロの胸には全く別の感情が渦巻いていた。
眼下の暗闇の中には、数え切れないほどの街の灯りがあり、今この瞬間も無数の生命がそれぞれの人生を生きている。
その圧倒的な実感を肌で感じながら、己は今日、その中の一部をただの羽虫のように、ビームの熱で容赦なく焼き払ったのだという消えない事実が、苦いコーヒーの味と共に喉の奥にこびりついていた。
「よお! こ〜んなところで物思いに耽るなんてよぉ……。お前らしくもないじゃない?」
ふいに、静寂を破る軽薄な声が背後から掛かった。足音を忍ばせて展望室に現れたのは、フリーのジャーナリストとして世界を飛び回る旧友、カイ・シデンであった。
戦闘が終わり、極東軍の部隊が各々の基地へと帰投していく混乱の最中、彼は持ち前の情報網とコネクションを引っさげ、ちゃっかりとこのC・Lの空飛ぶ司令部へと乗り込んできたのだ。
「……別に。ただ、いろんな人が生きているんだと。そう思っていただけだ」
アムロは振り向くことなく、窓ガラスに映るカイの顔を見ながら静かに答えた。
「そうかい。まあ、人は十人十色って言うしな。色んな人はいるさ。ただ、その色がどんな色かは、皮をひん剥いてみるまで誰もわかりはしないがね?」
皮肉めいた笑みを浮かべながら、カイはアムロの横に並び立ち、同じように眼下の暗い雲海へと視線を向けた。ポケットに両手を突っ込んだその猫背のシルエットは、一年戦争の頃から何一つ変わっていないように見えたが、彼が発する言葉には、世界の裏側を知り尽くした大人特有の重みがあった。
「……取敢えず、セイラさんの出産は無事に終わったらしいぜ。母子ともに健康だ。お前もいよいよ『父親』ってこった。おめでとうさん」
カイが啸くように告げたその短い報告に、アムロの肩の力がふっと抜け、握りしめていた紙コップにわずかな波紋が揺れた。何百という命を奪った直後に、自分とセイラの血を引くたった一つの新しい命がこの世界に産声を上げた。その強烈なコントラストに、アムロは微かに目を伏せた。
「俺は天涯孤独かもしれないがね」
と、照れ隠しのように自嘲するカイに対し、アムロは静かに言葉を返した。
「ジル君がいるだろう。彼のリハビリも、最近は成果が出ているそうだからな」
彼等の唯一把握している、ミハルの弟…。
その名を出されたカイは、少しだけバツの悪そうな顔をして鼻の頭を掻いた。
「よせやい。俺みたいな根無し草の男が、誰かの生命を真正面から背負うには重すぎるさ。……遠くからただ見守るのも、一つの責任だよ」
二人はそれ以上多くを語らず、変わらず一点の暗闇を見つめていた。それぞれが背負う命の重さと、大人になるということの残酷さを噛み締めるような、静かな時間が流れる。やがて、カイがその場の空気を切り裂くように、今日一番の重い本題を口にした。
「……ハヤトの件。どうするつもりだ?」
その問いに、アムロの横顔に再び鋭い戦士の緊張が走る。ハヤト・コバヤシ。かつてホワイトベースで共に死線を潜り抜けた無二の戦友は、今や北米において反連邦組織『カラバ』の活動に深く関与している。
今日の上海での掃討戦により、カラバとルオ商会の実態が、単なる環境保護団体や反ティターンズの有志などではなく、人質を取り、民間人を盾にする凶悪なテロリスト集団であることが完全に白日の下に晒された。彼らは今や、明確な『敵同士』となってしまったのだ。
「俺に決定権はないさ。……ただ、助けられるのなら助けたい」
アムロの声には、一人の男としての切実な願いが込められていた。ハヤトは義に厚く、家族を愛する男だ。
彼が、エゥーゴやカラバの指導者たちが裏で手を染めている『人質の教唆』や『過激なテロ支援』という黒い真実を、果たしてどこまで知っているのか。
もし彼が、上層部の綺麗な理念だけを信じ込まされ、真実を知らぬまま踊らされているのだとすれば。
「あいつは不器用だからな。一度思い込んだ正義から、簡単に降りられるタチじゃねえ」
カイが低く唸る。
アムロは、冷めたコーヒーを一口飲み下し、決意を込めて窓ガラスの向こうの闇を睨みつけた。ホワイトベースの仲間たちが、思想と陣営の違いによって殺し合う。
それだけは絶対に避けなければならない。立場の違いで引き金を引くには、彼らはあまりにも多くの悲しみを共有しすぎていた。