〜0085年 秋 地球連邦軍オーガスタ研究所
極東のムラサメ研究所が陥落してから数週間後。
セイラ・マスの庇護下にあるオーガスタ研究所の地下医療ブロックは、さながら野戦病院、あるいは重犯罪者の収容所のような異様な空気に包まれていた。
分厚い防音ガラスの向こう側――白一色で統一された隔離室のベッドの上で、ムラサメから移送されてきた強化人間たちが、薬物の凄絶な離脱症状(禁断症状)と戦っていた。
ある者は全身を掻きむしりながら幻覚に怯え、ある者は自らが何者であるかも分からず、ただ幼児のように泣き叫んでいる。ゼロやドゥーといった過剰な投薬を受けていた者たちの独房からは、拘束具を軋ませる鈍い音と、現実と虚実の境界を彷徨うような狂乱の叫びが昼夜を問わず響き続けていた。
保護されたとはいえ、自我を破壊された彼らにとって、この真っ白な医療室は新たな「檻」に過ぎない。
その地獄のような光景を、隔離ブロックの廊下から見つめている二つの影があった。
ゲーツと、ロザミアである。
「……酷いもんだ。連邦のモルモット扱いから解放されたってのに、頭ん中の薬と暗示が、あいつらをずっと地獄に縛り付けてやがる」
ゲーツは腕を組み、防音ガラス越しに暴れるゼロの姿を見つめながら、苦々しく吐き捨てた。
かつて自分たちも、程度の差こそあれ、同じように大人の都合で記憶を弄られ、薬を打たれて戦場へと駆り出された身だ。もしもオーガスタがセイラたちによって「浄化」されていなければ、自分たちもあの中で涎を垂らして暴れ回る化け物になっていたかもしれない。
その隣で、ロザミアは自身の両腕を強く抱きしめ、小さく震えていた。
「……可哀想に。自分が誰なのかも、何が本当の記憶なのかも分からないなんて……」
「ロザミア。あんまり見つめるな、お前まで引っ張られるぞ」
ゲーツが気遣うように声をかけるが、ロザミアは静かに首を振った。
「ううん。……私、あの子のところへ行ってくる」
ロザミアの視線の先。
狂乱の渦にある隔離ブロックの中で、一つだけ、ひどく静かな部屋があった。
そこに収容されているのは、『フォウ・ムラサメ』という名を与えられた少女だった。
フォウは、他の被験体のように暴れ狂ってはいなかった。
ベッドの上に体操座りをして、膝に顔をうずめたまま、まるで魂が抜け殻になってしまったかのように微動だにしない。
ムラサメ研究所において、彼女に施された強化プロセスは、ゼロたちのような薬物による万能感の植え付けではなく、「極限の恐怖とトラウマによる精神的負荷」であった。
彼女の脳裏には、一年戦争の開戦劈頭――空が燃え、巨大なコロニーが地表へと落下してくるあの『コロニー落とし』の記憶が、強烈な疑似体験として焼き付けられている。人為的に作られたPTSDによってニュータイプ能力を覚醒させられた彼女は、過度なストレス実験の産物ゆえに、まだかろうじて「人間的」な情緒を残していた。だが、それは同時に、常に崩壊の危機に瀕しているガラス細工のような危うさでもあった。
ロザミアは、電子ロックを解除し、フォウの部屋へと静かに足を踏み入れた。
「……誰?」
足音に気づいたフォウが、怯えたように顔を上げる。
その瞳は、深い絶望と孤独に沈んだ、底なし沼のような色をしていた。
「私、ロザミア。……ロザミア・バダム」
ロザミアは、フォウを刺激しないようにゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍らに腰を下ろした。
「……出ていって。私には、何もないの。名前も、本当の思い出も……。目を閉じれば、空が落ちてくるだけ。……燃える空が、街を押し潰して、みんな死んでいくの。それだけが、私の頭の中にこびりついて離れないのよ……!」
フォウは頭を抱え、ひどく怯えた声で震え出した。
自分が何者であるかという記憶を奪われ、代わりに「空が落ちてくる恐怖」だけを詰め込まれた空っぽの器。それがフォウ・ムラサメという少女の現在だった。
その言葉を聞いた瞬間、ロザミアの胸の奥が、ギリッと音を立てて痛んだ。
ロザミア自身も、空が落ちてくる幻影に怯え、「お兄ちゃん」という作られた家族の記憶にすがりついていた過去がある。目の前で震えるフォウの姿は、まるで合わせ鏡に映った「もう一人の自分」そのものであった。
「……怖いよね。空が落ちてくるの」
ロザミアは、震えるフォウの背中に、そっと手を伸ばした。
その手は、かつて自分がパニックを起こした時に、アムロやセイラ、そしてゲーツがしてくれたように、とても優しく、温かかった。
「……え?」
フォウが、驚いたように目を見開く。
「分かるよ。……私も、ずっと空が落ちてくるのが怖かった。自分の記憶が作り物だって分かった時、世界が全部嘘みたいに思えて、自分が消えちゃうんじゃないかって、すごく怖かった」
ロザミアの言葉には、嘘偽りのない実感がこもっていた。
「でもね、ここはもう
「……本当、に?」
フォウの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「本当よ。……だから、一緒に探そう? あなたが本当は何が好きだったのか、どんな風に笑っていたのか。……急がなくていい。ゼロや、ドゥーや、ジルも……今はすごく苦しんでいるけれど、いつかきっと、ここからやり直せる」
ロザミアは、フォウの冷たい両手を優しく握りしめた。
「名前がないなら、ここで新しく作ればいいの。私たちが、ずっと一緒にいてあげるから」
「……あ、ああ……っ」
フォウは、ロザミアの温もりにすがるように顔を伏せ、ついに子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
それは、強化人間『ナンバー・フォウ』としての狂乱の叫びではなく、一人の傷ついた少女が流す、魂の浄化のための涙だった。
防音ガラスの向こう側で、その様子をじっと見守っていたゲーツは、小さく息を吐き出し、壁に寄りかかった。
「……たく。すっかり立派なお姉さんになりやがって」
ゲーツの口元には、安堵の笑みが微かに浮かんでいた。
彼らの過去は、大人の悪意によって無惨に歪められたものかもしれない。しかし、その痛みを誰よりも知っているからこそ、彼らは新たな犠牲者たちの心に寄り添うことができる。
檻の中に囚われた強化人間たち。
彼らが本当の意味で「人間」としての魂を取り戻すための、長く苦しいリハビリテーションが、このオーガスタの地下から静かに始まろうとしていた。
――――
地球連邦軍、北米シャイアン宇宙港基地。
ロッキー山脈の堅牢な岩盤をくり抜いて建造されたこの広大な地下施設は、戦略予備軍の拠点として、あるいは特務部隊の隠れ蓑として機能している。
その巨大なドーム状の地下滑走路に、大気圏を突破してきたペガサス級強襲揚陸艦『グラニ』をはじめとするクレール・ルクス(C・L)の艦艇が、重々しい着底音を響かせた。
タラップが下ろされ、ハッチが開放されると、艦内に充満していた硝煙とオイル、そしてオゾンの混じった空気が、シャイアンの冷涼な地下の空気と混ざり合う。
極東のムラサメ研究所という、連邦の深い闇を強襲し、強化人間たちをオーガスタへと護送するという極秘かつ過酷な任務を終えたC・Lの面々は、ようやく自分たちの「家」とも呼べるこの拠点へと帰還を果たしたのである。
滑走路の一角では、息をつく暇もなく整備班が駆け回り、モビルスーツ群のダメージコントロールに追われていた。
特に念入りな検査を受けているのが、今回初めて実戦投入された『ウェイブライダー』ユニットと、随伴機が使用した『バリュート・システム』である。
「アムロ大尉、ウェイブライダーの耐熱コーティング、想定よりも二割ほど早く剥離しています! 降下角度の問題でしょうか?」
「いや、大気圏突入時の摩擦熱というより、降下直後に土煙の中で強引にパージし、急速減速をかけた時の構造的負荷(G)が原因だろう。装甲のジョイント部にわずかな歪みが出ている」
アムロ・レイは、パイロットスーツのヘルメットを小脇に抱えながら、データパッドを片手に整備チーフと綿密なすり合わせを行っていた。
大気圏突入からシームレスに戦闘態勢へと移行する。
それは、宇宙から地球上のあらゆる拠点へ電撃的な強襲をかける上で、革命的な戦術的優位をもたらす。しかし、実際にそれを行った代償は機体に色濃く残っていた。
ウェイブライダーの底面は黒く焼け焦げ、一部のセンサー類は熱で溶けかかっている。バリュートを使用して降下した僚機たちも、傘を切り離すタイミングと姿勢制御に高度な技術が要求され、機体のスラスター周りに深刻な焼き付きを起こしている機体が散見された。
「……とはいえ、実戦という極限状況下で、一機のロストも出さずに降下・展開・制圧を完了させたんだ。システムとしては及第点以上だよ。詳細なテレメトリーのデータと改善案は、後でまとめてコジマ准将のデスクに上げておく。まずは応急処置を優先してくれ」
「了解しました、大尉!」
アムロが整備班に指示を出していると、基地のメインスピーカーから、全隊員に向けた集合の号令が鳴り響いた。
数十分後。
地下滑走路の広大な一角に、C・Lに所属するパイロット、艦艇クルー、そして陸戦隊員たちが整列していた。
彼らの顔には、数日間にわたる緊張と疲労が色濃く刻まれている。しかし、その瞳の奥には、連邦軍内部の狂気から子供たちを救い出したという、確かな誇りと連帯感が宿っていた。
整列した部隊の正面、グラニの巨大な主砲塔の影が落ちる演壇に、基地司令であるコジマ准将が姿を現した。
彼の顔にもまた、政治的な調整と根回しによる、現場の兵士とは質の違う深い疲労が滲んでいる。だが、将兵たちを見渡すその眼差しは、厳格でありながらもどこか温かみを帯びていた。
「休め」
コジマの低い声がマイクを通して滑走路に響き渡ると、何百というブーツが同時に動く音が反響した。
「諸君。……まずは、今回の作戦も無事に成功した。極東のムラサメ研究所における武装解除、および非合法な人体実験の証拠保全。君たちの迅速かつ正確な行動により、これ以上の悲劇の拡大を防ぐことができた。諸君らの見事な活躍に、基地司令として最大限の賛辞と感謝を述べさせてもらう」
コジマが深く頭を下げると、隊列の中から静かな、しかし熱を帯びた息遣いが漏れた。
自分たちのやったことは、軍法会議にかけられてもおかしくない「味方への強襲」である。それでも、司令官が真っ先に自分たちの行動を肯定し、労ってくれたことは、現場の兵士たちにとって何よりの救いであった。
頭を上げたコジマは、しかし、少しだけ顔をしかめ、手元にある数枚の書類をパラパラと揺らした。
「さて。……今回の作戦だが、軍上層部に対しては『事後報告』という形を取らせてもらった。事前の許可を申請していれば、証拠隠滅を図られるか、ティターンズの介入を招くことは明白だったからな。
……結果として、我々の行いは、連邦議会の一部や軍の穏健派の働きかけもあり、一応の『黙認』を受けている」
コジマの言葉に、ブライトやアムロは微かに表情を引き締めた。
「黙認」。それは決して「承認」ではない。勝手な真似をしたことを今回は見逃してやるが、次は無いぞという暗黙の警告である。
「だが、当然ながら様々な方面から苦情が入っているのも事実だ」
コジマは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「ティターンズ首脳陣からの越権行為への抗議はもちろんのこと、軍の予算委員会や、背後で糸を引いていたであろう企業グループからも、有形無形の圧力がかかってきている。我々の後ろ盾となってくれているワイアット大将も、今頃はジャブローの会議室で、我々を庇うために相当骨が折れる思いをしていることだろう」
コジマの言葉の裏にある「政治のリアル」を、C・Lの面々は重く受け止めた。
彼らは正義を成した。だが、地球連邦という巨大な組織において、純粋な正義は往々にして異物として扱われる。ティターンズは今回の件でムラサメ研究所という手駒を失ったが、その分、C・Lに対する警戒と憎悪を臨界点まで高めたはずだ。
「そこで、だ。上層部からの通達により、我が『クレール・ルクス』に対して、暫くの間の『作戦行動の自粛勧告』が出された」
その言葉が落ちた瞬間、整列していた将兵たちの間に、微かなざわめきが走った。
自粛勧告。それは事実上の「謹慎処分」に等しい。連邦軍きっての遊撃部隊として、常に火種を消して回ってきた彼らの手足を、政治的な圧力によって縛り上げるという決定だった。
「……つまり、我々には『長期の休暇』が与えられるということだ」
コジマは、わざとらしく咳払いをし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「まあ、諸君らの事だ。休暇だからといって、ただ無為に時間を過ごすような連中ではないと、私は少しも心配していない。……機体のオーバーホールに精を出すもよし、
コジマは演壇の端に立ち、最後に、敬礼の姿勢をとった。
「地球圏の火種は、まだ消え去ったわけではない。この自粛期間を、ただの停滞と捉えるか、次なる飛躍への助走と捉えるかは、諸君ら次第だ。……以上だ。ご苦労だった!」
「ハッ!!」
全将兵の揃った敬礼が、シャイアンの地下に轟き渡った。
集会が解散となり、将兵たちが三々五々、それぞれの艦やハンガーへと戻り始める中、指揮官クラスの数名が自然とアムロやブライトの周囲に集まってきた。
「自粛勧告、ねえ。要するに『お前ら、しばらく大人しくしてろ』って首輪をつけられたってわけだ」
私服姿のシーマ・ガラハウが、どこから取り出したのか扇子をパタパタと仰ぎながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「アタシらは別に構わないがね。スウィート・ウォーターで、あのガキの面倒でも見ながら、お茶でも飲んでりゃいいんだから。だが、あのティターンズの連中が、アタシらが昼寝してる間に大人しくしてるとは到底思えないねぇ」
「同感だな」
ブライトが、険しい顔で腕を組んだ。
「ワイアット大将の政治力で部隊の解体だけは免れたが、これでティターンズは、我々の目を気にすることなく軍内部での権力掌握を進めることができる。……彼らが次に動く時、それは連邦軍そのものを完全に私物化する時だろう」
「……カイさんは、どうなったんです?」
不意に、後方から歩み寄ってきたクライドが尋ねた。
ムラサメ研究所での戦闘の際、自らの命を張ってジルを守り抜いたあの民間人のジャーナリストの姿が、今ここにはない。
アムロは少しだけ視線を落とし、静かに答えた。
「……彼には、軍の施設に対する不法侵入と、モビルスーツの無断使用の容疑がかかっている。現在は、軍の法務局の管理下で軟禁状態だ」
「そんな! カイさんがいなければ、あの子供たちは……!」
クライドが食って掛かろうとするのを、アムロは手で制した。
「分かっている。だが、彼は民間人だ。軍の内部規律を持ち出されれば、コジマ准将でも表立って庇うことは難しい。……それに、カイさん自身もそれを分かった上で、あえて捕まっているフシがある」
「どういうことです?」
「……彼がジャーナリストとして集めたムラサメ研究所の『証拠』は、まだ世間には公表されていない。彼が連邦の法廷に立つことになれば、それ自体がティターンズの非人道的な行いを告発する、最大の『舞台』になる。……彼は、自分の身を挺してでも、あの闇を白日の下に晒すつもりなんだ」
アムロの言葉に、クライドは言葉を失い、強く拳を握りしめた。
モビルスーツに乗って敵を撃つことだけが戦いではない。泥を被り、自由を奪われてでも、真実を武器にして巨大な権力と戦おうとしている男がそこにいる。
「……私たちも、休んでいる暇はありませんね」
沈黙を破ったのは、整備班の報告を終えて戻ってきたエリクであった。
「バリュートやウェイブライダーの運用データは、この休暇中に完璧に解析し、次の作戦行動の際にはマニュアル化しておく必要があります。それに、今回の戦闘で得た強化人間のサイコ・ウェーブのデータ……あれも、対抗策を練るための重要なファクターになる」
「その通りだ」
ブライトが力強く頷いた。
「コジマ准将が言った通り、この『自粛』は、我々から牙を抜くためのものではない。来るべき決戦に向けて、戦力を再編し、組織としての足場を固めるためのモラトリアムだ」
ブライトは、広大な地下滑走路に並ぶ機体群を見渡した。
傷つき、煤けながらも、大地にしっかりと足を下ろしているモビルスーツたち。そして、それを支えるクルーたち。
「アムロ。お前は少し、休め」
ブライトが、突然アムロに向けてそう言った。
「ジル・ラトキエをはじめとする強化人間たちの保護と、彼らの精神的なケア。……ニュータイプであるお前にしかできないことだが、それは同時にお前の精神を削り取ることでもある。オーガスタでのケアは、セイラや現地のスタッフに任せておけ」
「……艦長。僕は……」
「命令だ、大尉。……お前が倒れれば、クレール・ルクスは象徴を失う。お前はただの兵士ではない。この部隊の、いや、これからの地球圏の命運を握る存在なんだ」
ブライトの真摯な眼差しに、アムロは反論を飲み込み、小さく頷いた。
「……分かりました。少し、羽を伸ばさせてもらいます」
「ああ。……シーマ少佐も、スウィート・ウォーターへの帰還許可は出ている。グラニはしばらくシャイアンでドック入りだ。各員、英気を養ってくれ」
解散の指示を出し、それぞれが自分たちの持ち場へと戻っていく。
アムロは一人、滑走路の端へと歩みを進めた。
シャイアン基地の巨大な換気ダクトから、微かに地球の風の匂いが流れ込んでくる。木々と、土と、水が混ざり合った、生命の匂い。
(……自粛、か)
アムロは何を考えるか、一つ考えを形にしようと思っていた事がある。
「行ってみるのも良いかもしれないな。」
一人呟く彼の言葉は、木々の合間に消えていった。