宇宙に人が住む時代になっても、朝の通学は変わらない。
窓の外には大地が広がっていた。厳密には、それは天井に映された擬似空の映像だったが、コロニー〈ラングレー12〉に暮らす人々にとっては、まぎれもない「日常」だった。草原も、陽光も、少し湿った風の匂いも。
「ほら、起きて。もう七時よ、トアン」
母の声で、トアンはシーツにくるまったまま唸った。
「あと五分……」
「五分が十五分になって遅刻するのよ。今日は数学のテストでしょう?」
「うぇえ……起きたくない」
十六歳の赤髪の少女、トアン=ユースベルは、今日もまた退屈な日常に身を委ねていた。
十六歳の赤髪の少女、トアン=ユースベルは、今日もまた退屈な日常に身を委ねていた。
制服のスカートに文句を言いながら着替え、手早くパンをくわえて玄関を飛び出す。待っていたのは母親の運転する車、コロニー専用の小型電動カーだった。母は元整備士で、穏やかで、いつも手が油臭かった。
「パン、バター付いてないわよ。まったくもう」
「どうせ味なんか変わんないよ」
「はしたない。せめてハムくらい挟みなさい」
エンジンの静かな駆動音とともに、車はいつもの通学路を走り出す。人口空の向こうには、コロニーの外壁がほんのりと透けて見えていた。何もかもが安定していた。何もかもが退屈だった。
トアンは窓の外を見ながら呟いた。
「ねぇ、ママ」
「なあに?」
「私って、このままずーっと、ここで暮らすのかな」
母は少しだけ黙ってから、静かに答えた。
「それは、あなた次第よ。退屈だと思うなら、自分から動けばいい」
「でも、動くって……どこに?」
「……どこでも。星の数だけ、道はあるわ」
そのときだった。
遠くの空で、何かが閃いた。
いや、それは光ではなかった。大気を裂く轟音とともに、何かが降ってきた。──黒い影、いや、人影。
人型──巨大な、鋼の塊。
機体数は三。装甲には刻印も国章もなく、無機質な灰色の塗装のみ。だがその姿は明らかに“戦闘用人型機動兵器”、いわゆる“フレーム”だった。
「ちょっと……あれ、なに……?」
トアンが口を開くより早く、コロニー全域に警報が鳴り響いた。
《警告。セクターB-3に敵性機体を確認。住民は直ちに避難を──》
次の瞬間、炎が空を裂いた。
母の反射神経は、かつて軍用機整備に携わっていた者ならではのものだった。車を急停止させ、反転しようとするその手。
だが間に合わなかった。
衝撃が車体を襲い、トアンはシートごと宙に浮いた。爆風が巻き起こし、周囲の建物が弾けるように崩れ落ちた。アスファルトがめくれ、車ごと地下水路へと落下していった。
水の中に沈みながら、トアンは母の顔を見た。割れたフロントガラスの向こうで、シートベルトに挟まれた母の体が、動かなかった。
血が、水に溶けて広がっていく。
トアンは、喉の奥で何かがちぎれる音を聞いた気がした。
叫ぼうとしたが、声が出なかった。
水が、肺に入ってくる。
冷たかった。
痛かった。
母の手に、触れたかった。
──でも届かなかった。
#
崩れた地下通路は、コロニーの裏側だった。
──ああ、日常なんて、脆いものだったんだ。
トアンは、静かに立ち上がった。
血まみれの制服。乱れた髪。泣き顔のまま、それでも前を見ていた。
メインインフラが寸断された今、住民の大半は避難している。だがトアンは違った。目の奥に焼き付いた光景──母の死、燃え上がる空、踏み潰されるように終わった日常。それが彼女をここへと導いていた。
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
焦げた服の裾を握りしめ、トアンは一歩ずつ、闇の中を進んだ。
水の滴る音。わずかに照明の残った配管の明かり。その先に、誰かの足音があった。
「──待って!」
反射的に声をあげたトアンに、振り返ったのは――白髪の少女だった。
月光のような艶のある髪。整った顔立ちと、制服。そして、冷たい氷のような瞳。
「誰…?」
トアンが問いかけると、少女は一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたが、すぐに静かに答えた。
「シエル・ラ=アルヴィオン。地球連結企業連盟〈ネオクレイド社〉の会長令嬢」
「え?」
あまりにも突拍子のない名乗りに、トアンは呆然とした。
ネオクレイド社――人類を実質的に統治する“6大企業”のひとつ。惑星開発、フレーム製造、遺伝子管理に至るまで支配している巨大複合体。その令嬢が、なぜこんな場所に?
「襲撃で護衛も全員殺されたのよ…あなた、民間人? 保護者は?」
「……殺された」
返事が喉から漏れるように出た。
シエルは、まるでそれを想定していたかのように頷いた。
「今回の襲撃は、恐らく火星側の意図的なテロ。六大企業による資源の搾取が限界に達して、独立派が動いた……そう考えるのが自然。あなたの家族は、その代償として殺された」
トアンの拳が、震える。
「復讐したい?」
シエルは、まっすぐに彼女の目を見てそう言った。
「……したいに、決まってる」
「なら、ついてきて」
#
地下通路のさらに奥。コロニー建設時に使われていた旧型のメンテナンスベイがあった。
シエルが端末を操作すると、巨大な格納扉が軋んだ音を立てて開く。
そこに鎮座していたのは──一機の“フレーム”だった。
全身が深紅に染まり、肩に古びたコーディング番号が刻まれている。人型兵器というより、むしろ獣のような迫力があった。
「これって……軍の?」
「ええ。元々は試作段階で廃棄されたもの。でも、私はこいつがまだ生きてると知ってた」
トアンはその機体を見上げた。胸の奥が、疼くように熱くなった。
「名前は、バルレッド。血を浴びる獣、という意味らしいわ」
「これ……動くの?」
「動かせばいい。あなたが、動かすの」
そう言って、シエルは昇降リフトの操作盤を差し出した。
「なんで私に?」
「あなたには、それを動かす理由があるから。」
トアンは、黙って頷いた。
昇降リフトが上昇し、シエルと共に操縦席に入ると、狭いコクピットが目の前に広がる。薄暗い照明、旧型のインターフェース、剥がれかけた警告ステッカー。
けれど不思議だった。そこはまるで、昔から自分の居場所だったように感じられた。
胸に手を当てる。
母の笑顔が、浮かぶ。
崩れ落ちたコロニーの街並み。
踏みにじられた日常。
──もう、何も失いたくない。
「起動」
彼女がそう呟いた瞬間、機体の主電源が点灯した。
唸るような起動音。モニターが次々に光り、人工音声が立ち上がる。
《起動コード認証完了。操縦者、生体波形接続──正常》
《パイロット認証名:トアン・ユースベル。モード:制限解除》
機体が、トアンに応じた。
シエルの声が通信に入る。
「地下ゲートを開くわ。地上に出て。今なら、まだ間に合う」
「分かった」
トアンは操縦桿を握った。それは不思議なほど、しっくりと手に馴染んだ。
「──行くよ」
バルレッドの足が、地下通路を踏みしめる。
巨大な脚が動き、錆びついた扉を押し開いた。
陽光に似た炎の光が、コロニーの空から差し込む。
そこは、瓦礫と煙と、怒りの世界だった。
#
赤い機体が地上に現れたとき、戦況はすでに崩壊寸前だった。
防衛軍は壊滅状態。残っていたのは一機の防衛型フレームのみ。それも、敵の包囲の中で今まさに膝をつこうとしていた。
──そこへ、真紅の閃光が走る。
跳躍。
空を裂き、赤いバルレッドが降下する。
その手に装備されたグレートソードが、敵機の片腕を切り落とした。
警報と爆発が同時に響く。
トアンの目が、炎の中で輝いた。
もう迷いはなかった。
守られる側ではなく、戦う側へ。
あの日の空が奪われたなら、自分の手で奪い返す。
そして──母の仇を。
敵機との距離、約120メートル。
量産型フレームとは思えない、機敏かつ正確な動き。動力効率も、AI制御も改造されている。明らかにプロの手が入っていた。
トアンはグリップを握り直す。手の中で、操縦桿が彼女の怒りと連動するように脈打っていた。
《バルレッド》の背部ユニットが展開する。重々しい駆動音とともに、黒い光沢のあるグレートソードが肩部から抜き出され、手に収まる。
それは、まるで意思を持った凶器のようだった。
「いける?」
シエルの声がコクピットの横から響く。
「いける……でも、あいつ、ただのテロリストじゃない。動きが機械みたいに無駄がない……!」
「相手はアリウスの一員かも。テロリストの中でも、特殊戦に長けた連中。正式な軍人じゃないからこそ、規格外の改造を施してる」
トアンは、息を呑んだ。
──人間相手に、機体で殺し合う。
そんな現実が、今目の前にあった。
「怯まないで。私がサポートするから」
その言葉が、背中を押す。
「分かった」
トアンはペダルを踏み込み、機体を跳躍させた。
敵機はすでにこちらの動きを予測していた。
迎撃用のランチャーを放つ。白熱の砲弾がバルレッドの左肩装甲を掠め、火花が飛ぶ。
「くっ……!」
シエルの声がすぐに飛んだ。
「トアン、左のフレームの残骸の盾を使って!」
「これか!」
左腕で盾を手に取り、次弾を受け止めた。だがその一瞬、敵機が距離を詰めてくる。
「速い……!」
斧が迫る。バルレッドの頭部に直撃すれば、ただでは済まない。
トアンは剣を横に構え、敵の攻撃を受け流した。
──金属音。
──火花。
機体がきしむ音。
次の瞬間、敵機の肘の裏に剣を滑らせて切り込んだ。だが、相手も引かず、足払いを放つ。
制御が乱れ、バルレッドが一瞬バランスを崩す。
「危ない!」
「落ち着いて! 左膝のスラスター使って! 重心を戻して!」
シエルの声に従い、トアンは操縦桿を叩く。
スラスターが噴き、体勢を立て直す。
その瞬間、敵機の後方装甲に隙ができた。
「今しかない!」
バルレッドの咆哮と共に、剣が振り下ろされた。
敵機の背面装甲を貫き、フレームの中枢を斬り裂く。
一瞬、敵の動きが止まる。
次の瞬間、爆発音とともにその体が崩れ落ちた。
沈黙。
煙の中、赤い機体だけが残った。
#
上空には、救援信号を受けた防衛軍の輸送艇が接近していた。