天涯の華は手折れない   作:RIN

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第3話

 早起きは三文の徳。時間は有限で、健康的な生活ができるから……なんてことではなく、純粋に朝方の静けさが好きだった。

 

 春先、東風がまだ肌寒い。

 天気は快晴、照りつける日差しが肌寒さとのコントラストで心地良い。

 

 母は、相変わらず朝から忙しいようだった。

 身支度を終え、作り置きしてくれた朝食にほっと一息をつく。

 

 全国でレース教室を開く母は、私が物心ついたときから多忙だった。

 トゥインクルシリーズで走った経験がないのに、いつも仕事が途切れる暇もない。まあ、トゥインクルシリーズで走ること自体が栄誉ではあるけれど……実績は確かにある。

 

 教え子にはダービー、オークスを制したウマ娘がいるし、それ以外にも数多くの教え子たちが重賞を勝利してきた。

 母の従姉妹のウマ娘もダービーを獲っている……つまり実績のみならずコネだってちゃっかりしているのだ。

 

 けれど私の進学に関しては、完全にコネ入学に等しい。

 

 まず私自身も公的なレースどころか、非公式のレースすら片手の指未満の数しか走ったことがない。

 そんな状態で中央トレセン学園に入学し、トゥインクルシリーズを目指そうだなんて寝言かと疑われても文句は言えないだろう。

 

 仮にも、私だって元々はトレーナーを志望していたウマ娘なわけでして。

 中央の実技入試に、競走ウマ娘としての活動も実績もないウマ娘が、セントライトさんをはじめとした知人のコネを用いるのは若干気が引けるのも本音だった。

 

 とはいえ、重荷になるかは別問題。

 パフェ先輩……ミノル先輩の想いに比べれば、私の悩みなんてちっぽけなものである。

 

 生まれてこのかた、病気も怪我もしたことがない健康体。

 名家ほどでなくても、一般家庭よりは少しだけコネには恵まれている。

 何より、私には競走ウマ娘として大成できなくとも、トレーナーを目指すというもうひとつの道だって既に見えている。

 

 だから、常日頃のささやかな幸福を噛み締める余裕があった。

 これから中央トレセン学園で試験を受けるウマ娘にしては、あまりあるほどの余裕が。

 

 入試選抜を控えた明朝。アイスコーヒーを嗜むことのできる余裕も、ささやかな日常のワンシーンなわけで────

 

「────まあ、アンタもアタシも『ルドシ』だし? どっちが飲んだとしてもモーマンタイ!ってわけよ」

 

「うーん、でも大丈夫ですか? 砂糖もミルクもありませんよ?」

 

 いつのまにか、私が頼んだはずのコーヒーは、目の前の年端も行かない小さなウマ娘の少女の手元にあった。

 何食わぬ顔でコーヒーを飲み始める少女を、私も寝起きで頭が回らず、ありのままの現実を受け入れることしかできない。

 

 うげっ! と私と相席している幼いウマ娘は、コーヒーの苦さに渋面を作った。

 まだまだお子ちゃま、はちみーを頼めばよかったのに……あっ、アイスコーヒーは私が頼んだっけ。

 

 少女はフランクな口調で、栗色に白い流星の髪は毛づやがよい。ファンキーなやりとりをしながら所作には育ちのよさが垣間見える。

 自称ちびっこルドシの可愛らしさに絆されながら、私はフレッシュとシロップをいれてあげる。

 ちびちびと頑張ってコーヒーを飲む姿は、まだ年相応のウマ娘だった。

 

「それで、かわいい()()のお嬢さん。親御さんはどちらに?」

 

「んにゃ、芦毛? どこだどこだ!? このアタシちゃんの目を欺こうなんざ────」

 

「クスクス。()()()()にも伝えてくださいね。()()()の私と違って走ることになったとしても、私は今、十分幸せです……と」

 

 自称ちびっこルドシちゃんは目をパチクリさせる。

 栗毛……に見える芦毛のウマ娘の少女が瞠目したのは1秒にも満たなかった。

 にっと笑みをこぼして「ならいいや」と、すっかり興味を失ったように、ぴょんと椅子から飛び降りてコーヒーショップから去っていく。

 

 遠くで、誰かがバイクを走らせる音がした。

 まだ出会ったことがないはず。それでも、どこか懐かしさを感じる。

 無冠の旅路、その果てにある栄光。色褪せることのない黄金は綿密と紡がれ、新たな黄金をもたらす。私はその旅路の、ちょっとした手助けをするだけ。

 

 それは、私がいつか見た()()()の未来の景色だった。

 

 でも────今じゃない。そして、未来は確約されたものでもない。

 

 向こうからの来訪客は、本来の筋書き通りトレーナーを目指さない私を気にかけてくれた。

 そして()()()()()は……うん、それなりにトレーナーとして順風満帆らしい。

 羨ましくないと言えば嘘になる。

 

 ただ、競走ウマ娘もトレーナーも、私にとってそこまで大きな違いはなかったりする。

 ミノル先輩の想いを背負う。担当ウマ娘の夢を支える。

 誰かの夢のためなら、私自身はおろか、その夢に立ち塞がる全てだって捧げられる。

 

 献身ではない。殉じるわけでもない。

 

 私が()()()()()から。そして────私なら成すことが出来るから。

 

『アンタは、()()でいいんだよ』

 

 誰かが、私にそういった気がした。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 一陣の風が舞った────そう気付いた瞬間に、()()は全てを置き去りにしていた。

 

 文字通り、『全て』である。レースで競いあっていたウマ娘たち、抜き去ったときに流離う風、果てには耳に届いた風切り音さえも。

 

 風よりも速く、音すら捕えきれず、彼女はあらゆる全ての()()()を駆け抜けていた。

 或いは光すらも、彼女には追い付けやしない……そう思わざるを得ないほど、後続を突き放す華奢な背中が、須臾を重ねる毎に遠ざかっていく感覚を抱いてしまう。

 

 残り3ハロン。彼女と()()()()とは2バ身の差。

 耳を絞り、名家出身として外聞を憚るなどというプライドを捨て去り、必死の形相で地を蹴りつけても差が広がる一方だった。

 

 残り2ハロン。既に彼女とは大差に近い。少なく見積もって5バ身以上の差。

 胸中に生じた恐怖や諦観を噛み締める暇もない。

 ただ、自分自身が()()()()の有象無象ではないと証明したいという強迫観念に駆られて、両脚はストライドを刻み続けていた。

 

 残り1ハロン。もはや頬を撫でる風と、踏みしめるターフしか感覚を得ることができない。

 痛快なほどの惨敗だ。()()()()の中で後続に数バ身の着差をつけたとて、1位でゴール板を過ぎ去ることができなければ、それはただの敗北にすぎない。

 

 デビュー前、それどころか入学前の実技試験。

 これまで家柄の縁故で行われるレースや、地元協賛のレースで一度足りとも負けたことがないウマ娘は、上がり3Fで35.1という自己ベストどころかジュニア期の重賞でも通用し得る末脚を繰り出した。

 

 けれど結果はどうだろう。

 デビュー前に11秒代という衝撃の末脚を繰り出したウマ娘には目もくれず、レースで競いあったウマ娘たち、入試でありながらダイヤの原石を探さんと集ったトレーナーたち────そして悔しさに唇を噛み締めるコダマ自身も。

 

 耳を立てたまま、息を整え終えたフルールドシエルを眺めることしかできないでいた。

 

「……負けません。貴女だけには、絶対に」

 

 ポツリと負け惜しみが零れてしまう。消え入るような声音は震えていた。

 

 その震えは恐怖か、武者震いかコダマ自身にも判然としない。

 しかし明確に、このレースの勝者であるシエルに対して屈折した思いが込められている。

 

 才能に自惚れることなく不断の努力をした。

 三栄冠の再誕、神話のままではなく手が届く夢なのだと証明するために。

 偉大なるセントライトが灯した光輝を絶やしてはならない。そんな使命感に駆られ、傲慢だと知りながら遮二無二に突き進んできた。

 

 怠惰ながらコダマと同等以上の才を秘めた()()()()とも研鑽した。

 名家の原罪、裕福な出生において結果に妥協は許されない。勝利し続けてきたコダマは、敗者たちの敗北を背負い続ける責務がある。

 努力も才能も、現実も神話も、何もかもを置き去りにして()()()を走り続けるシエルには。

 次期三冠を周囲に嘱望されるコダマは、負けてはならなかったのに────

 

(『負けない』などと、最初から敗北を考えてしまうなんて……)

 

 果ての敗北に、渾然とした感情が瀑布のように押し寄せてくる。

 

 コダマは掲示板を仰いだ。そこにあるのはコダマの才覚すら踏み潰す常識外れのタイムが載っていた。

 上がり3Fが33.3。本格化前でありながら、2着のコダマを10バ身以上もつき離す理解の埒外にある走り。

 コダマによる11秒代のスパートを霞ませてしまう、10秒代の世界に到達した異次元の末脚。

 

 今でもコダマの脳裏に焼き付いている。コダマより遥かに矮小な体躯から、ターフに蹄跡を刻む尋常ならざる脚力────何より、天空を駆けるかのごとき圧倒的なストライドの長さ。

 ストライドが繰り出される毎に、着差が広がっていく絶望感は、思い出すだけで背筋が凍るほどだった。

 悔しさも称賛も超越して、生物としての(ステージ)が違う異質な存在感。もはや、レースで競い合っていたのではなく、予定調和の筋書き通りになぞっていたのではないだろうか。

 

 ────1バ身差でもハナ差でも勝ちは勝ち。勝つこと以外に、何を考える必要がある?

 

 コダマは頭を振る。臆した思考に過るのは、この世を舐めているとしか思えない幼馴染みの、これまたレースを舐めているとしか思えないセリフだった。

 

 確かに、それも真実だろう。敗北の言い訳なんて探せばいくらでも見つかるが、敗北の言い訳を探すためにレースへ挑むウマ娘なんていない。

 だから、幼馴染みのセリフは不条理で理不尽だろうと、競走ウマ娘になら一定の理解が及ぶに違いなかった。

 

 だが、10バ身差以上の大差を前にして、冷静にその言葉を飲み込めるウマ娘はどれだけいるのだろう。

 同じレースで走っていたウマ娘のみならず、観戦していたウマ娘や、打算を含んで野次ウマをしに来たトレーナーさえ、これほどまでの圧勝劇を前に理想論を口にできようものか。

 

 コダマは誰にも悟られぬよう、視線だけを観客席にいる幼馴染みへと滑らせる。

 普段はとぼけた性格をしている幼馴染みも、今回ばかりは神妙な面持ちを隠せていなかった。

 

 剃刀、鉈。デビュー前でありながら讃えられる二人のウマ娘の末脚も、空の(はて)までは届かない。

 

 セントライトやクリフジがトゥインクルシリーズから去ったとしても、その光を継いで神話ではないと証明したかった。

 夢の続き、憧れは手が届くものだと希望を繋げたかった。

 それが勝利を重ねて、数多のウマ娘の敗北を背負う者としての使命なのだと、コダマは信じていたから。

 

 だから、立ちはだかる存在は、きっと神話そのものなのかもしれない。

 

 ────エクリプス?

 

 誰かが呟いた。赤い尻尾が風で揺れ、レースでも平静だったシエルの耳がピクリと動く。

 

「……過分なお言葉です」

 

 その返答は、エクリプスかシエル自身のどちらに対してなのか。

 聞き返すことができる者は、誰一人いなかった。

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