「ハッ……! ハッ……! ハッ……!」
走る。走る! 走る!!
暗闇に包まれた木々の合間をすり抜けるように走駆する小さな影。
人の手も及ばぬ暗闇に包まれた林を四肢故の加速とスタミナにものを言わせて、一心不乱に駆け抜ける。
月明かりも照らさない暗闇の中に在っても目を惹く純白の毛並。
瞳から漏れ出す真紅の燐光が赤き残光と成って閃る。
それが目印となって追手を振りきれないことに、逃走者は歯噛みする。
いっそこの目を潰してやろうかとも考えたが、視力を失うことのデメリットを鑑みて、その策は即時却下。
何よりも、己が背中で息絶え絶えに苦しんでいる半身にして相棒たる少年がきれいだと褒めてくれた自慢の瞳を手放すつもりは無い。
そうはいっても、あまりにも鬼気迫るこの状況では、思考がマイナス方向に向いてしうのを止められない。なぜなら――足音も立てずにに背後より距離を詰めてくる全身黒ずくめの刺客に命を狙われているのだから。
『ハッハッ……、チィッ! 忌々しいサル共めが……っ、ガアッ!?』
舌打ち。追い詰められている側としては決してしてはならぬ悪手。悪態をつき、思考を反らしてしまった……なんという愚行!
白亜の獣は、後ろ足を貫通し地面に縫いつけた武骨な鉄の棒――魔獣殺しの付与が施された聖槍――へと噛みつき、力任せに噛み砕く。
あらゆるものを喰らい、噛み殺すと称された神獣が一体、『神狼 フェンリル』たる彼にとって、人間たちにとって最上の神器とされる武具ですら、容易く粉微塵に粉砕できる程度のものでしかない。
だが。
『グッ……!』
流れ落ちる血液が大地に染み込みながら広がっていく。
この世界に存在し続けるために必要な契約者から供給された魔力が、血液と共に流れ出していくのが分かる。
唯でさえ、守り抜こうと誓った相棒を
「愚行」
体力を失い、地面に崩れ落ちても尚、前に進もうと這いずる彼の目の前に音も無く降り立ったのは“影”。
全身黒ずくめの、まさに“影”とした表現できない出で立ちの人物。
男なのか女なのか、子供なのか大人なのか……一切が不明。
一つだけわかっていることがあるとすれば、この“影”こそが神をも食い殺した神獣に手傷を負わせた聖槍を放った張本人であり、『あの場所』から相棒たる少年を救い出した彼を執拗に追いつめてきた追跡者である。
唸り声を上げ、牙を剥き出しにして憤怒を顕わにするフェンリルの殺意などそよ風だと言わんばかりに平然とした“影”は、腰に下げていた剣を抜刀する。
それは刀身に幾何学模様の呪文らしきものが刻み込まれている。それは聖歌……天におわす父にして母たる神々へと進行を捧げるために穢れ無き乙女が詠うとされる清らかなる
天高々と振り合げた剣の鞘に両手を添え、何事かと呟く“影”。フェンリルたる彼にも聞き覚えの無い真言を唱えると、刀身に刻まれた聖歌の文字が光り輝くと同時に、常世の闇すらも浄化するほどの眩い閃光が顕現する。
光りを生み出している剣に集束されていくチカラの奔流にフェンリルが目を見開き、彼の背中に背負われた意識の無い少年が、本能的な恐怖に身を振るわせる。
「断罪」
何の感情も見せず声色で一言だけ呟いた“影”が一歩前に踏み出し、振り上げた剣を後ろへと逸らす。
“影”の意図に気づいたフェンリルはとっさに己の背中へと首を廻して背負った少年の服に噛みつくと、そのまま横方向へと勢いよく放り投げる。
次の刹那、
「執行」
淡々とした“影”の言葉と共に光の聖剣が振り下ろされ――
『ガ――ッ!?』
神すら殺す狼を容易く両断して見せた――!
爆音が轟き、粉塵が巻き起こる。宙に舞う粉埃が風にながされ視界が顕わになると、つい先ほどまでの風景とは一線を介する光景が広がっていた。
“森が消えた”
言葉にすれば、ただそれだけ。
しかし――
大地に走る巨大な裂断痕。
余波で中ほどからねじ切られたように倒木する木々出会った物の成れの果て。
大地そのものが砕けたかのように盛り上がった土壌。
まさに天変地異が起こったのかと人々が恐怖するであろう惨状を起こした元凶たる“影”は、爆心地たるそこに変わらず存在していた。
その身に纏う夜色の衣には傷も、汚れも、埃すらもついていない。右手に握られた聖剣は光を散らし、刀身は大きくへしゃげてしまっている。
ギリギリ剣の風体を残していると言った感じのそれを感情を移さない無色の瞳で一瞥すると、躊躇なく放り出して、踏み砕く。
パキン……!
神々しさを体現したかのような聖剣を台無しにしたことなど知ったことではないとばかりに視線を逸らすと、“影”は目標物の片割れである狼の残骸の回収のために動き出す。
もう一つの目標物は聖剣を振り下ろす間際、狼に放り投げられた先に展開した転移魔方陣に吸い込まれていったのを捉えていた。
あの術式はランダム転送の類であると推測される。
ならば、そちらの追跡は他の者に任せて、自分はこの狼の残骸の回収を優先すべきであると“影”は判断した。
真っ二つにされて大きく焼け爛れてはいるが、それでも僅かに生命力の残滓のようなものは感じ取れる。ほとほと神獣というものはしぶといものだと、僅かに感心すらも感じる。
だが、それはそれだ。任務に支障をきたすつもりは無い。
脳内に仕込んだアンチマジックフィールド――通称、AMF――の影響下であっても念話が出来るように調整された念話増幅装置を通じて現状を報告しつつ、土に埋もれたそれへと手を伸ばし――た、刹那。
『アメェん……だよオッ!!』
カッ! と残された眼を見開いたかと思った瞬間、残された魔力を全て牙へと注ぎ込んだ起死回生の一撃を“影”へと叩き込む!
それはまさに、完璧な不意打ちであった。あの一撃を受けて無事であるはずが無いという“影”の油断を突いた、追いつめられた獣の一撃。
彼に残された魔力を全て注ぎ込んだ牙は、神をも噛み砕く最強の矛となって“影”の首筋に深々と食い込み、鮮血の華を咲かせる。
口内に流れ込む新鮮な血液の味に口端を吊り上げ、獣としての本能をむき出しにしたフェンリルがさらに牙を喰い込ませようと残された右前脚から伸びる爪を“影”の胸元に突き刺した……瞬間、
ドロン! という音と共に“影”の身体が金属の塊のようなものへと転じ、
ジャラララララ……ッ! と金属音を立てながらフェンリルの身体を拘束していく。
驚き、慌てて逃げ出そうとしたがそれは叶わず、瞬く間に彼を拘束せしめた金属の鎖が、地面に突き刺さった端部分に展開された魔法陣より駆け上がる封印の魔法に照らされて真紅に光り輝く。
『こっ、これは――……ガッ、ギャァアアアアアッ!?』
フェンリルを蹂躙するのは穢れ無き祈りの結晶。神々の力を封じるために人々の祈りが具現化させた聖具……名を『
純粋な神力を持つ者に最上の効果を発揮する神殺しの聖具である。
拘束されたフェンリルの瞳は焦点を失い、残されたなけなしの魔力が吸い上げられていく。
未だかつて経験したことのない激痛に苛まれ、フェンリルの意識が途切れ途切れになっていく。そのまま意識を手放してしまえばこれ以上苦しまずにすんだだろう。
だが、此処で屈服することなど、彼の誇りが、神の獣と称された大狼の王としての誇りがそれを良しとしなかった。
再度、地面に崩れ落ちて……けれども痛みに転げることすら出来ぬフェンリルは、身の内より溢れ出してきた鮮血色で染まる視界の奥に映る“影”を睨み上げる。
途方も無い憤怒と怨嗟が籠められた視線を浴びても尚、“影”に動揺は見受けられない。
“影”は知っていたからだ。あの時、フェンリルはまだ戦う気概を……戦意を失っていなかったことを。故に罠を張ったのだ。
油断している素振りを見せることで起死回生の反撃を行いやすいように誘導し、変わり身とも呼ばれる技術で『
ともかくこれで任務完了、このまま狼を『あの場所』へと輸送して、逃げたもう一つの目標物を回収する。それで自分に課せられた任務は終わる。
そこまで考えたところで任務の変更を告げる念話が届き、その内容に僅かに訝しむ。
それでは聖具を三つも披露した意味がないではないか――と思うのも一瞬、すぐさま了承の意を返す。
“影”は思考しない。する必要が無いからだ。“影”はただ、命じられるまま動くだけでいい。
フェンリルに振り返り、無造作に近づいていく。
『
血に塗れた牙が軋むほどの怒りに満ちた唸り声を上げるフェンリルの傍まで寄ると、“影”は胸元から一振りの短刀を取り出す。
「変更――廃棄」
またもや淡々と、平然としたまま取り出した短刀を振り上げ――フェンリルのこめかみへと振り下ろす。
『――――ッ!!?』
絶叫するフェンリルから飛び散る血飛沫に一切構わず、柄にそえた手に力を注ぎ、刃の根元まで深々と突き刺す。
拘束されたまま暴れていたフェンリルの身体から徐々に力が抜け落ちていく。
同時に、彼の身体を構築していた魔力が霧散し、魔法素となって大気に溶け合っていった。
後に残されたのは拘束対象を失って地面に落ちる『
“影”は知っていた。フェンリルが転じたのは
神力を宿す存在が消滅する際、彼らは総じて無色の魔力……
だが先の狼は魔力素となって霧散した。あの狼はもう片方の目標物の契約獣、つまりは特殊な使い魔という扱いであったはず。
ならば、消滅したと見せかけて主の元へと戻ったのだろう。だが、あれだけの深手を負わせたのだ……いかに純粋な神の獣であろうとも回復に数年はかかることは間違いない。
「愚行……帰還」
在り様をまたもや見失いかけた己自身を叱咤した“影”は、闇に溶け込むようにこの場を後にする。
その黒装束には一点の汚れも見られなかった。
そう――つい先ほど降りかかっていたはずのフェンリルの血飛沫の後すらも。
夜の森林に静寂が舞い戻る。されど――そこに生命の鼓動は一切感じ取ることは出来なくなっていた。
――◇◆◇――
「う……! あっ、グゥッ!? ふ、フェン……!?」
しとしとと雨が降るクラナガンの一角、普段は人波が途切れることのない繁華街に走る道の一つをおぼつかない足取りで進んでいた少年が、突如胸元を抑えながら崩れ落ちた。
押さえた胸の奥、魂とも呼べる深い場所に存在するのはかつてないほどに弱弱しい波動しか感じられない相棒の気配。
彼と契約してから今まで、ここまでの消耗を経験したことは少年には無かったのだ。
自身の半身としてお互いに認めている存在が消滅寸前になるまで追い込まれた……しかも、おそらくは自分を逃がすために。
「くっそ……!? 俺はっ……、俺は何をやってんだ……っ!」
この身の弱さのなんと不甲斐無い事か。どうしようもない怒りを拳に込めて、雨に濡れたコンクリートの地面を何度も殴り付ける。
何度も。何度も。何度も。
手の皮は破れ、溢れ出す鮮血が雨に流されて辺りに広がる。全身を叩き付けるように降りしきる雨の冷たさが感覚を麻痺させているのか、痛みは感じない。
なのに、心がどうしようもないほどに――痛い。
「くそっ! くそっ! くそ「コラ! なにやってんの!」」
意味の無い自虐行為を繰り返していた少年を止めたのは、強い意識を感じさせる女性の声だった。
思わず振り向いてしまった少年の目に映るのは、傘を放り出して駆け寄ってくる栗色の髪の女性。
――誰かに似てないか?
緊張の糸が途切れてしまったらしい少年は、そんなことを思いながら意識を手放していった。
冷たく冷え切った身体を包み込むような温もりに身を委ねながら。
「……う、うう。こ、ここは……?」
「お、気づいたわね」
「え――んなあっ!?」
「ン―……熱は無い、かな? ヤレヤレ、この様子じゃあお医者様を呼ぶ必要も無いみたいね」
少年が意識を取り戻してみると、そこは見知らぬ部屋の中だった。
ソファに寝かされていたらしい彼が辺りを見渡すよりも早く、年上の女性のドアップがすぐ眼前まで迫ったのだから、マヌケな悲鳴を上げてしまうのも仕方のない事だろう。
跳び上がる様な勢いでソファから起き上がった少年の視線など気にしていないとばかりの様子の栗色の髪を首の後ろで一纏めにして前に流している女性は、食欲をそそる香りを放つ土鍋のようなものを以てソファの近くに置かれたテーブルに置いた。
やけど防止のミトンを脱いで蓋を開ければ、病人の食べ物の代名詞たる『おかゆ』が姿を現した。
真っ白に透き通った白米は蕩ける様に艶やかで、表面が薄く黄色に見えるのは栄養満点の卵がトッピングされているからだろう。
キュウリや白菜のお漬物や軽く炙った梅干しが乗った小皿から漂う香りのなんと心地よい事か……食欲を刺激された少年の腹の虫が盛大にエサをおねだりしてくる。
それはもう盛大に。宿主たる少年が、羞恥で真っ赤になるほどに。
腹を抑えて俯く少年に微笑を浮かべながら、女性は茶碗におかゆをよそおって、差し出す。
僅かに警戒の感情を見せる少年の心を解きほぐす様に根気強く、じっと目を見つめ続ける。言葉は要らない。子供はいろいろと繊細で、大人から見れば予想だにしないほどの鋭さを垣間見せる事もある。
だからこそ、うわべだけの言葉なんて必要ない。、だだ真っ直ぐに、自分の想いを乗せた瞳を向け続けることが良い事もある。今までの経験でそれを理解している彼女は、少年が受け取ってくれるまで、お茶碗を差し出したままじっと待つ。
程なくして、根負けしたのか、はたまた食欲を堪えることが出来なくなったのか、おずおずとお茶碗を受け取ると湯気の立つそれを慎重に口へと運び――目を見開いた。
「うめぇ……!?」
それが切っ掛けだった。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と箸を動かすスピードが加速していく。物の数分で茶碗一杯のおかゆを平らげた少年は視線を手元の空になった容器と、目の前でまだたっぷりと存在感を示す土鍋を交互に見やる様に動かし……傍らの女性に恐る恐るお茶碗を差し出した。
「……おかわり」
「よく出来ました♪」
受け取ったお茶碗になみなみとおかゆをよそおい、今度は焼梅干しと白菜をトッピング。
ほど良合い塩気と卵の甘みが絶妙にマッチして極上のハーモニーを奏でていく。
そこから先はもう説明は不要だろう。
ガツガツと言う擬音がピッタリな勢いでおかわりを繰り返しては腹に納めていく少年を、女性は微笑みながら見守る。
時折、狙い澄ましたかのようにスポーツドリンクを差し出して喉を潤わせる気配りなど見ても、彼女が『食』に携わる者であるのは間違いない。
『あの場所』の関係者ではないと感じたのか、少年の警戒心も徐々に薄れていく。
程なくして土鍋一杯のおかゆとつきあわせを全て平らげた少年は、ソファに沈み込みながら感嘆のため息を溢す。
「ごちそうさま」
「お粗末様。ふふっ……お腹いっぱいになった?」
「あ、ああ……じゃなくて、はい……」
「そっか……じゃあ、後片付けしてくるからゆっくりしててね」
「は、はい」
思わず素で返答してしまったが後の祭。さっさとお暇しようと目論んでいた少年は、頭を抱えながらもだえ苦しむ。
――主に、自分のアホさ加減に。
――うおおおおー!? 俺のアホー!? この流れはマズイだろーが! このままお世話になります的なシチュエーションじゃねぇか!
「ぬうおおおお……お、俺は一体どうすれば――ぐぺっ!?」
「……何やってんの?」
手早く洗い物を済ませた女性が戻ってみれば、ソファから転げ落ちて顔面を強打したらしい少年が床の上を転がりまわっていた。
しかもテーブルの脚に脛を打ちつけたらしく、鼻と脛を押さえながら蹲っている。
なんだかなー、と呆れつつも手を差し伸べてしまうのは、彼女が元来のお人よしだからだろうか。
異性に手を引かれることが恥ずかしいのか頬を朱色に染めた少年をソファに座らせると、向かいに腰掛けた女性から質問が飛ぶ。
「さて、と……それじゃあまずは自己紹介からいきましょうか。私はこの翠屋ミッド支店のオーナー兼パティシエの高町 花梨よ。貴方は?」
「お、俺は『有栖 宗助』……って、ちょっと待て!? 翠屋ってまさか……!?」
「……ふーん? その様子だと当たりのようね、同胞クン? それとも参加者って呼んだ方が良いかしら?」
「――ッ!?」
慌ててソファから飛び退いて距離を取ろうとするも、抜き打ちで放たれたリングバインドによって中空で四肢を縫い付けられてしまい、行動を封じられてしまった。
宗助も思わず目を見開いてしまうほどの、余りにも鮮やかな手際を見せた花梨は、栗色の髪を掻き上げながら悪戯の成功した子供のような笑顔を見せる。
「ゴメンゴメン、ついからかいたくなっちゃって……ビックリした? ゴメンねー」
ヒラヒラと手を振る花梨にあっけに取られながらも、宗助は表に出さぬよう注意しながらバインドを解除する方法を探る。だが。
――なんっ、だよコレ!? 構成術式がリアルタイムで書き代えられてる!? こんなモン、どうやって解除すりゃあいいんだ!?
花梨の繰り出したバインドはバインドブレイク対策として構成術式に当たるプログラムを流動的に変化させることで、力技による破壊以外の方法での解除法は存在しないほどの完成度を持っている。
頼りになる
「くっ……!」
「や、そんな悪い魔女に捕えられた正義のヒーロー的なリアクションとられても困るんだけど……」
「うっせえ! 俺はどんな拷問にも屈しねぇぞ!」
「いや、だからね?」
「フン! 善人ぶって油断させておいて、後になって隙を狙い澄ました不意打ちをかます野郎のいう事なんて耳を貸すつもりはねェ!」
「や、私は女、野郎じゃないでしょーが」
「大体、なんだよそのエプロンの趣味は!? 胸元に天使を刺繍って、乙女臭ぇ! 年を考えやがれ、このオバサン!」
「――あ゛? いま、なんつった小僧?」
瞬間、世界は停止した。
まるで世界そのものが恐れているかのように大気が振動し、触れていないと言うのに戸棚の上に飾られた人形や写真立てが床に落ちる。
バインドがミシミシと軋みを上げながら小さくなって、宗助の手足を引き千切らんばかりの激痛を与えてくる。
だが、彼は悲鳴を上げることは出来ないでいた。
――何故か?
それは彼の目の前に、前屈みになったお蔭で前髪に隠れてしまった双眼から放たれる真紅の眼光に射抜かれているからだ。
それはまさにメデューサやバジリスクの眼光に射抜かれた若者がその身を石化の呪いに蝕まれてしまったかのごとき状況だと言えば分ってもらえることだろう。
とめどなく流れ落ちる冷や汗。震えが収まらない絶対的な恐怖。ゆらゆらと揺れながら近づいてくる恐怖の魔神……もはや、宗助の謝罪の言葉程度では止まる事はないであろう人外の怪物へと成り果てた
恐怖の涙を浮かべ、ふるふると首を振る哀れなる少年、そのこめかみにしなやかで繊細なスイーツを生み出す指先が
アッ――――――――!!?
雨降る夜に、魔人逆鱗に触れた愚か者の悲鳴が木霊した――――
『す、すまない……相棒……』
愚か者な宿主の心の奥底で回復に努めていた狼は、耳を伏せ、尻尾を足の間に挟み込んだ体勢のままガクブルし続けていたと言う……。
――◇◆◇――
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「――ほら、何時までやってんの!」
――パンッ!
「はいいっ!? 申し訳ありませんでしたぁっ!! ――あ、あれ?」
「よろしい。もう二度と女の人を侮辱するようなおバカな真似はしないように。わかった?」
「Sir! Yes sir!」
本職の軍人をも唸らせるほどに美しい敬礼を返す宗助少年。
彼の中で、絶対的な上位者の存在が魂に刻み込まれてしまったようだ。
語ることも憚れるお仕置きからギリギリのところで生還できた宗助少年は現在、翠屋ミッド支店の一室、プライベートルームの一室にて事情を説明しているところだ。
自分の名前や出自、なぜ雨の中を血まみれで彷徨っていたのか、此処にはいない相棒の事……そして、
「
自分が”
放心状態だったところ良いことに事細かく情報を訊き出した花梨は、疲れたように溜息を漏らす。
何しろ、彼女が宗助を助けたのは本当に偶然でしかないのだ。客足が途切れたタイミングを見計らって砂糖を買いに店を出た直後、まるで狙い澄ましたかのように“ワケありです”な少年と遭遇したら、実はその少年が自分と同類であったなどと……つくづく、この世界は彼女たちに優しくはないようだ。
しかも。
――神獣フェンリルを宿しているって……何そのチート。
フェンリルと言えば、北欧神話において大神オーディンを噛み殺したと言い伝えられる魔獣だ。
その咢は世界を飲み干すほどに強大であるとされるかの狼を使役できるだけでも反則レベルだと言うのに、更には宝具とも呼ばれる最強の神具まで持っているのだと言う。
精神年齢は見た目通りで、戦いの経験もほとんどないらしいが、それでも強力無比な“特典”にあたるチカラであると言える。
だが、花梨として重要なのはそちらではなく、
「もう一度確認させて。貴方は儀式に参加することを良しとしていない――つまり、非戦闘推奨派で構わないのね?」
「おう。俺は前世で地上に墜ちてきた
「嘘をついている、訳じゃあなさそうね……いいわ、だったら取引しない?」
「取引、だって?」
「そう。貴方と同じく儀式を良しとしない参加者たちが集まった非戦闘推奨派とも呼べるグループを作っているの。もちろん私も入っているわ。もしあなたが良かったら、仲間に入らない?」
そう言って伸ばされた掌と花梨の顔を交互に見比べながら、宗助は彼女の言葉を信じられるかどうかを探測する。
――嘘をついている風には見えない。だが、全部を話したわけじゃあ無いのも明確、ってか?
警戒を緩めない宗助に苦笑しながら、流石に性急すぎたかと手を引っ込める。
意外だったのあろう、「え?」と紅い瞳を見開く宗助の顔が何だか年相応の子どもに見えて、思わずくすりと笑ってしまう。
「よく考えたら勢いで決めていい事でもないしね。しばらくゆっくりと考えてくれてから返事聞かせてちょうだいな。もちろん、君の中にいる狼さんともじっくりお話ししてくれて構わないから。――だから、君の抱えてる秘密は私たちの仲間になってもいいって思えた時に訊かせてほしいかな」
宗助は自分が血塗れ――ほとんどはフェンリルの血だったのだが――で彷徨っていたのか等の情報に対してのみ口を瞑んだ。
まるで参加者である事よりも重大な秘密を抱え込んでいるとばかりな反応を見せる宗助から無理やり聞きだすのは得策ではないと判断したからだ。
「あ、所で寝泊まりする家とかあるワケ?」
「へ? い、いや、そんなもんはないけど……」
「そっか。じゃあ、ウチの
「は? え? へ? ちょちょ、何を言って――!?」
「君は宿無し、しかもお金も無し。そんな状態でどこへ行こういての? 管理局に身売りでもする気?」
「う! い、いや、あんな死亡フラグビンビンな処に行くのはちょっと……相棒の件とかあるし……」
フェンリル程の希少種……と言うよりかは、世界に一頭しかいない特異種に分類されることは間違いない。
能力も超一級品の上にある程度の制御も効くともくれば、それはそれは見事なまでの争奪戦が巻き起こることだろう。
――本人たちの意志を余所に置いといて。
「さ、どうする? ちなみに我が家には妹が管理局のエースなんてやってる関係上、本局に直通できる通信機が設置さえていたりしま~す。どうする~? もしウチが嫌だって言うんなら、善良な一般市民として管理局に保護してくださ~い、ってお願いしないといけない訳なんだけど~? その時はいろいろと探られることになるでしょうねぇ~? フェンリルの事とか、身の上話諸々とか~?」
「なっ、がっ、あ、悪魔かアンタはっ!?」
「悪魔? 何を言っているのかしらこの子は、もう……こ~んな人畜無害なお姉さんなんて他にはいないわよ」
「――――!!?」
「あらあらどうしたの? 餌をねだる鯉みたいに口をパクパクさせちゃって♪ ――で、どうする?」
「――わかった」
「ん? な~に、きこえない~い?」
「わかった! わかりました! こちらでお世話になります、いえお世話にならせてください!」
床に崩れ落ち、見事な“おーあーるぜっと”の体勢を取る
敗北宣言した敗者をさらに甚振るかのごとく、勝者は通信端末をこれ見よがしに手に取って見せながら命じる。
完全無欠の降伏宣言を口にすることを。
「違うでしょ?」
「な、なんだよ? これ以上、俺に何をさせようって言うんだ!?」
「よ・び・か・た」
「……はへ?」
「やっぱり家族になるわけなんだから、ここは一つそれ相応の呼び方が必要だと思う訳よ。具体的には……『お母さん』、『お母様』、それとも『ママ』がいいかな~?」
「ちょっ……!? じょ、冗談だろ!?」
「まさか。さあ、どれが良い? 特別に選ばせてあげる」
「言えるかンな恥ずかしい台詞!? だいたい俺たちは敵通し、儀式で戦うライバルだろうが! なんでそんなに馴れ馴れしいんだよ!?」
「まだ敵対するって決まった訳じゃないでしょ? 今のところはお互いに不干渉、でもそれはあくまでも『儀式に関わる場合のみ』。つまり、日常生活とは別物ってことよ。それくらい切り変えなさいな」
「う、うう……!?」
居候になる自覚はあるのか宗助の反論も徐々に力を失っていく。家主の要求を呑まねば管理局に保護される。そうなれば最悪使い潰されるか、はたまた物語の中心の機動六課に放り込まれてしまうだろう。
それはマズイ。いろいろな意味で。
でも此処に居られれば少なくとも『原作』に深く関わる確率は下がるだろう……その辺は花梨に確認済み。
彼女のsts編での立ち位置は、外部協力者として散発的に協力しつつ、儀式関連の動きが確認され次第、介入駆動に移ることを主軸にするらしい。
“
つまり、花梨の要求を呑んで此処に留まることが出来れば幾分かは安全……だが、その代償に支払うものはあまりにも――大きい!
終わりを見せぬ葛藤の渦に沈み込んでいた宗助だったが、数分を掛けて答えを導き出し――覚悟を決めた男の顔で花梨へと向き直る。
深く深呼吸を繰り返し、覚悟の炎が沈静しない内に、その言葉を……男の魂を顕現させる!
「お、か……かっ、かっ……かーさん……ッ!!」
頬は熟れたトマトの様に真っかっか!
恥ずかしくて俯き加減なために、必然的に上目使いになる恥辱の涙が浮かぶ瞳!
無意識に服の裾を掴んでしまう子供っぽさ!
その総てが――背伸びする男の子の魅力をこれでもかと引き立てている! まさに強烈! まさに激烈!
今この瞬間、“
【マスター! 如何ですかこの宣伝文句!】
「グッジョブよ、【ルミナスハート】! 健気な男の子が手伝いをする喫茶店……よし、女性客アップのチャンス!」
「って、何やってやってんだアンタらわぁああっ!? 宣伝文句って何!? どんだけ仕事熱心なワケ!?」
「ふ、決まってるじゃない」
【ええ……!】
「【初めて息子がかーさんって呼んでくれた日の記録映像を撮影&翠屋売上アップが狙いに決まってるじゃない(ですか)】」
「いやぁああっ!? やめてぇえええええっ!?」
悪乗りしたパティシエと愉快痛快型デバイスに弄り倒される星の元に生れ落ちた少年と狼の波乱とツッコミと恥辱に塗れた日々が始まった瞬間である。
――◇◆◇――
「はっ!? どこかで年上のお姉さん方に弄ばれる少年の悲鳴が聞こえた気がしたっ!? まっていろ少年! 今すぐ俺が助けに――アイダダダ!? ちょ、そこ、ダメ、ごめ、タンマタンマ! ロープお願いしますよティアナさんーー!?」
「ふん。バカな事言ってるからよ。ほら、
「へ~い」
地上本部陸士訓練校。未来のエースを目指す若き魔導師見習いたちが切磋琢磨する訓練校だ。
生徒達が寝食を共にする宿舎の一室から、深夜であるにも拘らずどこか気怠そうな話し声が漏れ出していた。
その部屋に備え付けられたベッドで横になっていた少年……『
二人とも衣服の類は一切身に付けず、生まれたままの姿で一人用のベッドに潜り込んでいる。身を寄せあい、お互いの身体を抱き締め合う。まるで腕の中に感じる存在は自分のものだと誇示するかのように。
回された切名の腕を枕にしながら熱の籠った吐息を整えていたティアナは、ふと枕元で銀色に光る炎の十字架を模したペンダントを見やる。
「……不思議よね。見た目は唯の待機状態のデバイスでしかないのに、これを壊されでもしたら切名が消えちゃうなんて……」
「ああ、でもしょうがないさ。それが俺たち参加者の逃れようの無い現実って奴さ」
どこか達観した風にも見える気楽さ。そのくせ、理不尽な暴力に曝される人を見かければなりふり構わずに暴れまわる
ティアナとしては、表面上はもう少し冷静になりなさいと咎めつつも、本心では私だけを見て欲しい。他の娘に目移りしないでとちょっぴりセンチメンタルな乙女心をイダダダダ!? ゴメン、ゴメンって! マジゴメンなさい!」
「ったく、このバカ! どうしようもないバカ! 虚数空間バカ!」
「きょ!? そ、そのココロは?」
「底無しのバカって事よっ!!」
仕上げとばかりに
真っ青になりながら平伏して許しを請えば、季節限定のフルーツタルト三つを奢ることで許しを得られた。……その代償は決して軽くはなかったが。
「まったく……ホントにバカなんだから。あーあ、やっぱり私が見張ってないと駄目ね」
「え、と……?」
全裸で正座する少年を、これまた全裸で仁王立ちした少女が見下ろしている光景は実にシュールであろうと言わざるを得ない。
ティアナの言葉の意味が理解できなかったのか、聴き返す切名の額に人差し指を突き付けながらティアナは宣言する。
「決まってるでしょ? 私も“
「ちょっ、それは流石に許可できないぞ、ティア! あれは訓練でも、普通の事件でもない、本当に、お互いの存在を賭けた殺し合いなんだ!」
「だからどうだっていうのよ!? アンタは私のパートナーでしょうが! パートナーはお互いを信頼し、支え合ってこそ意味があるのよ!」
それは確かに正論だ。お互いを支え合い、限界以上のパフォーマンスを実現して見せることが出来うる存在たちこそが、絶対なるパートナーと称されるのだから。
だが、切名としても未だ訓練生、いや、儀式が再開した頃には正局員になっているかもしれないが……それでも心許無いというのが切名の本心だった。
彼、『葵 切名』は転生者
それは他の参加者とは根本的に異なる出自であることが大きな起因となっている。
彼の真の名前……真名と呼ばれる真実の名は『蒼意 雪菜』。彼は前世の世界で魔術師と呼ばれる特異存在として生を受けた。
これは彼の魂に寄生していた
ミッド式を始めとする科学技術という叡智が生み出した魔法とは逆方向を突き詰めた先に在るオカルトの領分。闇の世界と称されるそこを歩く人ならざる異能者……それが魔術師。
魔術回路と言う魔導の血脈に延々と受け継がれてきた裏の技術を師の下で学び、一人前の魔術師となってからは世界を放浪して回り、数多くの人間を救い続けた。
その偉業は世界に認められ、英霊……人界の守護者たる『救世騎』と称されるまでに至った。
この時点で既に神の末席に連なる資格を得ていた切名は、“
《“
望まぬ戦いを強制された
その後、諸々の事情が重なった結果、ティーダに拾われ、彼の妹であり執務官を目指す少女 ティアナと同居しながら、己が使命を果たすために……そしてこの世界で出来た自分の夢を果たすために戦う事を決めたのだった。
その第一段階として名を変えて、ティアナと共に魔導師訓練学校に入学したのだ。理由は彼の目的がティアナと密接な関係にあると言うのが一つ、もう一つは彼自身、魔導師として戦う術を持ち合わせていない事だ。生前、非常に濃い生活を送っていたせいか、どうしても戦い方が前世のソレに近くなってしまい、魔導師としては落ちこぼれ、異端扱いされてしまうのだ。局員として一定以上の信頼と地位は欲しいと考えた切名は、ティーダの助言に従い、基礎から学ぶためにこうして訓練校に入学しているのだ。
――もっとも対した成果は出ていないようだが、その辺は割愛する。主に彼のプライド的な物のために。
ゆくゆくは儀式への介入行動を起こす予定ではあるが、本人としては自分一人でケリを付けようと考えている。
それは純粋な戦闘能力の差ゆえの判断。戦いの知識や記憶をそのまま持ち越してきた切名には、平凡な一般人が転生しただけの他のメンバーに比べて、圧倒的なアドバンテージが存在する。最強と称されるダークネスですら、生前はごく普通の一般人だったと言うのに、今では次元世界最強とまで呼ばれるほどの実力を手に入れている。
ならば、元々かなりの実力を有していた上に、英霊として召し抱えられるほどの実力がある切名ならば、自分以外全ての参加者を倒すことも可能なはず。
確かに、転生させるためにかなりのパワーダウンを受け入れねばならなかったし、『神成るモノ』と同等、あるいはそれ以上の全力を出すためには封印している真名を解放する必要があるが、かなりのデメリットを背負わなければならない。
それを指し引いたとしても元々単独での行動を得意とする上に、これは自分たちの問題なのだから自分たちだけでケリをつけようとするのは当たり前の事なのだが……。
――この様子じゃあ、退くつもりはなさそうだな。
彼女の頑固さも十分承知している訳で、
――で、結局は、
「……分かったよ」
切名の方が折れてしまう、と。
ホレ見なさいとばかりにふんぞり返るマッパなお嬢様に、「ただし!」 と釘を刺すことを忘れない。
「絶対一人で無茶をやらかさない事! それだけは破らないでくれ。何しろ相手には世界最強と最凶が含まれているんだからな」
“黄金の竜神”ダークネス
“狂気の天災”ルビー・スカリエッティ
彼らは訓練校の授業でも頻繁に名前が上がる超危険人物。
さすがの切名でも、策も無しに真正面からぶつかって勝てると断言できない強敵たち。
もしティアナが単独で彼らに戦いを挑んでしまうような状況に陥ってしまえば……いや、それ以前に、切名と彼女の関係性を知られてしまうだけでも危険度は跳ね上がる。
「何しろ、奴らは敵に容赦ってものを持たないからな。どんな卑怯な手を取ってくるかわかったもんじゃない」
謎めいた言動や行動を繰り返して相手の行動を誘導し、己の望む方向へ自分自身の意志で向かっていると思わせるほどの智謀を見せるダークネス然り。
相手の心情など興味も持たず、好き放題に豚をひっかきまわしてぐちゃぐちゃにする悪戯の天才たるルビー然り。
両者ともにわかっているのは、ティアナという切名の弱点を放置してくれるほど甘い相手ではないと言うことくらいか。
確かにティアナも相当努力を重ねて実力を伸ばしているが……それでも歴戦のエースたちには及ばない。
参加者たちは誰もがこのセカイの常識を超えた奇跡を起こす可能性を秘めている。
彼らに対応するには、ちょっと優秀な魔導師程度など何の役にも立たないだろう。
参加者の誰であっても、“特典”や“能力”の使いようによって、エースを凌駕する実力を示すことも可能なのだから。
だからこそ、
「そんな顔してんじゃないわよ、セナ。わかってるから、今の私じゃあ唯の足手まといにしかならないってことはね。だから強くなるのよ。アンタの背中を守れるくらいに!」
自分を想ってくれる大切な女の子……その姿が、かつて誰よりも愛した少女を思い出させて――どうしようもなく切なくなる。
同一視している訳ではない。代用品にしているつもりも無い。それでもあの時の想いは……今でもこの胸の奥底に留まり続けている。
それがどうしようもなく嬉しくて、切なくて、悲しくて……不意に、どうしようも無い位、泣きたくなってしまう。
ふわり……
「あ……」
「まったく……泣き虫なんだから」
俯き、肩を震わせる切名を抱き締めると、ティアナは彼の頭を優しく撫でる。
愛おしそうに、これ以上ないほどに優しく。
震えが収まっていく切名の腕がティアナの背中に回る。
痛みを感じないように、けれど出来る限りの力を込めて抱き寄せながら、切名は愛しい人の胸に頬を埋める。
「セナ」
彼女にしか許していない愛称を呼ばれて、顔を上げる。
「大丈夫……私は
「――うん」
英雄と呼ばれようと、救世主と崇められようと、彼の想いは常に同じ。そう――愛する人を守りたい。単純でありふれた、そして……何物にも代えがたい確かな『想い』。
炎の如き苛烈さと、朽ちた鋼の如き脆さを併せ持つ少年は、愛しき
英雄の心の支えたる少女は、ただ無言で想いを寄せる男の頭を撫でて、頬に唇を寄せる。
「ずっと、一緒にいるんだからね……」
「ああ……! ずっと、一緒だ」
笑い合い、自然と近づいていく両者の唇。それが重なり合ってベッドへと倒れ込む様を、窓から照らす穏やかな月だけが見つめていた――――。
――◇◆◇――
隣の部屋
「うわぁ……第二ラウンドが始まったみたいだよ……あっ! いま、ティアの喘ぎ声が聴こえた! うわ、わ、うわぁ……あ、あれが大人の世界なんだぁ……」
「くうっ……! どうして……どうしてアイツだけあんなにアッサリと童貞卒業してやがんだよ!? 不公平だろ!? チームメイトなのに、この差はなんなんだよおっ!?」
「あー……あの、さ、カエデ。言いにくいんだけど、その……あの二人って、訓練校に入る前から、その……そーゆーかんけーだったみたい、だよ?」
「なん……だと……!?」
「て言うかルームメイトを交換したその晩から『ギシアンハッスルずっこんばっこんあっは~ん♪』な展開になるなんて思っても見なかったよ……」
「スバル……お前の善意がここまでの惨劇を起こしちまったんだよぉ……アイツら壁が薄いのを完全に忘れてるだろ?」
「まる聞こえだもんねぇ……ね、ねえ、どうする? 明日からどんな顔してティアと話せばいいのかな?」
「あーそりゃ、オメー、あれだよ……ここはお約束の『昨夜はお楽しみでしたね♪』の出番だと思うよ?」
「そっか! じゃあ明日の朝の挨拶はそれで決まりだね!」
「ああ! ――所でスバルさんや。あーんなえっちな声を聞かされてしまったた私めの『ぱお~ん』を鎮めなければならないのです。つきましては是非ともこの僕とくんずほぐれづっ!?」
「おやすみー」
「ぐっ、ごほ!? お、お休みにハートブレイクショットとはさすがはスバるん――ガクッ」
翌朝、スバル&カエデの隣人のみならず、聞き耳を立てていた同階層で寝泊まりする全生徒たちから優しげな笑顔と共に拍手を送られていた自重しないバカップルがいたと言う。
しかも本人たちはその意味に全く気付いておらず、そろって首を傾げている光景をみたカエデを筆頭とする非リア充な男子による『異端審問会 ver.M』(Mとはミッドチルダの頭文字である)が結成されたという噂が広まったと言う……。
陸士訓練校の平凡な一幕。