6時45分。
いつものように懐中時計が震え、目覚まし時計が鳴った。
──だが、何もかもが“終わっている”ように感じた。
体が重い。布団の中から出るのが、まるで重力に逆らう行為のようだった。
窓の外に広がる空は曇天。色のない朝。鳥の声さえも聴こえない。
記録帳を開いても、文字がかすれ、手が震え、思考がまとまらない。
ユウもナギサも、消えてしまった。声はもう届かない。姿もない。俺を観測する目も、俺を励ます言葉も、この世界にはもうどこにもない。
孤独?──そんな生易しいものではない。
それはまるで、自分がこの世界の“残骸”であるかのような錯覚。
時の彼方に取り残された、“不要な観測者”。
旧校舎の図書室にも、もう何もなかった。
空っぽの椅子。机の上には、使い古された記録帳だけが置かれていた。
『まだ、ここにいる』──その言葉は、今や嘲笑にすら思える。
俺は、もう誰も信じられなかった。自分すらも。
「……終わってるんだよ。全部」
口に出した声は、空気にすら届かずに消えていく。
懐中時計が静かに鳴った。
それは“始まり”を告げるはずの音だったはずなのに、今の俺には“終わり”の合図にしか聞こえなかった。
──記憶を遡る。
あの屋上で、ユウと見上げた星空。ナギサが残した言葉。繰り返す日々の中で、たしかに感じた絆。それらが幻だったとは思わない。
でも、現に彼女たちはいない。
ループは進んだ。けれど、それは“前進”ではなかった。
まるで、次元の裂け目から零れ落ちた記憶の残骸を拾い集めるような作業だった。ひとつ拾っては、また崩れ、拾っては消える。
──空虚。
教室も廊下も、街並みも、色を失いかけていた。世界が消えかけているような錯覚さえした。
もしかすると、それは錯覚じゃないのかもしれない。
観測が失われれば、世界は崩壊する。
観測者がひとりになるということは、世界を記憶する者がひとりになるということ。
その一人すら、崩れかけている今、残されたこの世界は、もはや幽霊のような存在にすぎないのだろう。
歩いた。
寒さすら感じない。感覚が麻痺しているのか、あるいはこの世界が“感覚”を放棄し始めているのか。
何人ものクラスメイトとすれ違った。
彼らは笑い、話し、日常を繰り返す。
だが、俺には彼らがまるで「過去の映像」みたいにしか映らなかった。
声も、色も、匂いも、全てが記録の再生のようだった。
人間としての輪郭を失っていく感覚──それは恐怖であり、同時に、安堵でもあった。
「このまま、いなくなってしまえたら」
ふと、そんなことを思った。
記録帳に記されたすべてが意味を失い、自分という存在がこの世界に何の爪痕も残さず消え去るのなら、それはそれで──救いなのではないか。
でも、俺は生きている。
だから、観測をやめられない。
それこそがこの世界の構造。俺の存在理由。
『最後の観測点に向かえ』
その言葉に従うしかなかった。
──最後の観測点。
それは、記録帳の最終ページにあらかじめ記されていた“予定地”だった。
旧校舎のさらに裏、普段立ち入ることのない倉庫のような一角。
何の変哲もない、苔むした扉。
けれど俺は、その扉を開けた。
中には──
空間があった。
それは、かつて夢で見た“真っ白な教室”に酷似していた。
だがそこには誰もいない。机も椅子もない。壁も黒板も、ただの白。
まるで、始まりの前の空間。何も描かれていないキャンバスのような世界。
俺はそこに、ひとつだけ見つけた。
懐中時計。
──ユウの懐中時計。
それが、床に落ちていた。
拾い上げた瞬間、時間が止まったように感じた。
それは気のせいではなかった。
時計の針が、動いていなかった。
6時45分。
……また、この時間だ。
「……戻れ、ってことか?」
誰にともなく呟いた。
でも、俺はもう戻りたくない。戻った先に、何もないことを知っている。
同じ月曜日。消えた仲間。繰り返す無意味な日常。
それでも、手の中の懐中時計は震えていた。
俺の意志ではなく、世界が“再び観測を始めろ”と命じているようだった。
逃れられない宿命。
どこまで行っても、俺は観測者──。
俺はノートに震える手でこう書き記した。
「第十九週目。終末に向かう観測。希望なし。同行者なし。唯一の確かさは、俺自身がここに“まだ”いるという事実のみ」
この記録帳が、俺の最後の言葉になるかもしれない。
でも、俺はそれを拒む術を持たない。
もう誰もいない世界で──記録者として、俺は歩く。
終わりが、すぐそこに迫っている。