火曜日・第十五週目。
朝、目が覚めた瞬間──それがすべての始まりだった。
見慣れた天井、変わらない部屋の配置。だが、どこかが微かに違う。
それは音だった。
鳥の鳴き声ではない。機械音のような、微弱なノイズ。
「……何だ、これ」
耳を澄ますが、すぐに消えた。
記録帳を開き、ペンを走らせる。
──『火曜日・第十五週目』
新たな週の記録に、俺は小さな違和感を書き記す。
学校への道。
交差点で信号を待っていると、見知らぬ生徒がすれ違う。
校章は同じ、だが顔に見覚えがない。
後を追おうか迷っていると、その人物は人混みに紛れた。
「記録に残すべきか……?」
登校中の心の声は、すでに癖になっていた。
教室では、教師が昨日とまったく同じ話をしていた。
しかし──語尾だけが、ほんの僅かに違っていた。
まるで、違う“教師”が、同じ内容を模倣しているかのような感覚。
昼休み、屋上に続く階段の下で足を止めた。
何かが、違う。空気の質、壁の色味。全てが、“少しだけ異なる世界”に踏み込んだような錯覚。
そして、そこにまた紙片。
──『境界は薄れつつある』
その筆跡は、第十四週目のものともまた違っていた。
三人目か?
その時、屋上のドアの向こうで足音が止まった。
俺が息を呑んで見つめていると、足音は静かに階段を下っていった。
誰かが、俺に接近している。
いや、俺を囲い込もうとしているのかもしれない。
放課後、校舎の裏で見つけたのは、小さなチョークの線。
地面に描かれた、奇妙な円。
その中央に立った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
「……観測だけじゃない。これは──実験、か」
その言葉が思わず口から漏れた。
夜。記録帳をめくる指が止まらない。
火曜日を繰り返す俺。
だが、その火曜日ももう“ひとつの世界”ではない。
複数の誰かが入り込んでいる。
ユウはもういない。だが、ユウと似た存在──あるいは全く別の意図を持つ何者か。
その新たな存在は、俺にとって単なる観察対象ではなかった。
彼(彼女)は、“俺を観察する観察者”だった。
まるで、俺の記録帳を盗み読みしているかのような精度で、俺の行動を先回りしていた。
──『今日も観測、ご苦労様』
翌朝、机の中にその一文が残されていた。
筆跡は紙片のものと一致していない。つまり四人目、あるいはそれ以上。
この世界に、観察者が“増えている”。
恐怖と、奇妙な連帯感。
俺の心は、その二つの間で揺れ動いた。
もし、俺が誰かを観察し続ける者であるなら──
誰かが俺を観察することにも、意味があるのかもしれない。
そう思った瞬間、俺は記録帳の端に小さく書いた。
──『僕を見ている君へ。君は誰だ?』
それは挑戦であり、問いかけだった。
あるいは、孤独の叫びだった。
夜。ふとしたタイミングで窓の外を見ると、人影があった。
制服を着ていたが、その顔ははっきりと見えなかった。
だが──こちらを見ていた。確かに。
まるで、“応えて”くれているように。
その瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
誰かがいる。
俺以外にも、この“狂った時間”に囚われて、なおあらがっている者が。
ページの端に、新たな言葉を記す。
──『火曜日・第十五週目。重層化。観察者の増加。境界の薄れ。視線の交錯。』
沈黙は、崩れ始めていた。
けれどその沈黙の裏で、誰かの意志が透けて見える。
それは、導きか、監視か。
それとも──共感か。
火曜日の夜は静かに更けていく。
だが、俺の中の静寂はもう──完全に崩れていた。