火曜日・第十九週目。
目を開けた瞬間、真っ先に意識したのは「俺が誰かを覚えている」という事実だった。
その“誰か”とは、自分ではなかった。
──顔のない存在。
前日の夢に現れたそれは、まるで焼きついた記憶のように、視界の端にまとわりついて離れなかった。
起きているのに、夢の続きを見ているような感覚。
「これからが本当の始まりだよ」
──あの声は、俺に選択肢を与えなかった。
朝の食卓。母が笑いながら朝食を差し出す。
その笑顔が、今にも崩れ落ちそうな仮面に見えた。
味噌汁の湯気は、昨日と同じ形で立ち上り、全てが精密な再現のようだった。
「いってらっしゃい、アキラ」
その声が、何重にも響いて聞こえた。
登校中、通学路に足音がひとつ、多かった。
振り返っても、誰もいない。だが、その足音は俺の後ろを歩き続けていた。
学校の門をくぐった瞬間、強烈な違和感が襲った。
「……廊下が、長すぎる」
目に映る通路が、いつもより数メートル長くなっている気がした。
教室までの距離が、伸びている。
足が沈むように重い。息が詰まる。
それでも無理やり歩を進めると──
視界の端に“黒い影”が現れた。
見覚えが、ある。
それは、顔のない“あれ”だった。
「もう……来てるのか」
俺の呟きに応じるかのように、影は少しずつ距離を縮めてきた。
ただ立っているだけ。何もしてこない。
──なのに、恐怖で吐き気がこみあげてくる。
俺は教室にたどり着いた瞬間、ドアを開けた。
中には、誰もいなかった。
それだけでなく、机も椅子も、掲示物も──何もなかった。
「……なんだ、これ」
空白の教室。真っ白な床、壁、天井。
外から聞こえてくるはずの雑音も、何一つ聞こえない。
まるで、“俺のためだけに用意された空間”だった。
そのとき、背後から声がした。
「観察者は観測されるために存在してる。違うか?」
振り向くと、黒い服の“人間”が立っていた。
だが、その顔には目も鼻も口もない。
「お前……は」
「俺は、お前だよ」
そう言った“それ”は、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「お前はもう、観察者じゃない。囚人だ」
言葉の意味が、頭の奥で炸裂した。
──観察者ではない?
──囚人?
その言葉が刺さった瞬間、教室が音を立てて崩れ始めた。
床が裂け、壁が割れ、天井が落ちてくる。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫んでも、何も止まらない。
──観察されることに気づいた時点で、お前の役目は終わった。
“それ”の声が、頭の中に響き続ける。
気がつくと、俺はまた元の教室にいた。
黒板、机、椅子、クラスメイト。すべてが“元通り”になっていた。
だが──もう何も、信じられなかった。
俺は机の引き出しにある記録帳を開き、ペンを取る。
手が震えていないことに、少し驚いた。
──『火曜日・第十九週目、異常発生』
──『観察者の立場が反転した可能性あり』
──『俺は誰かに見られている。いや、支配されている』
それが何者かは、まだわからない。
ただ一つだけ確かに思えた。
──このループは、もう“俺のもの”ではない。
昼休み。
机に突っ伏したままの俺に、クラスメイトが話しかけてくる。
「大丈夫? ちょっと顔色、悪いよ」
それは、いつもと変わらない優しい声だった。
──なのに、俺はもう誰も信じられない。
誰が人間で、誰が観察者で、誰が“あれ”なのか。
それすら分からない世界で、俺は一人、火曜日を進み続ける。
それでも──俺はまだ、記録し続ける。
たとえ、この世界そのものが罠だったとしても。
それが、俺の“最後の自由”だから。