火曜日・第二十週目。
目が覚めた瞬間、胸の奥に微かなざわつきがあった。空は曇天、部屋の中は妙に静かで、時計の針がいつもより遅く進んでいるようにさえ感じられる。
火曜日。第二十週目。
もう二十回目になるのか──そんな呟きすら、すでに何度も口にしている気がした。
だがこの日、いつもとほんの少しだけ違う感触があった。
それは、教室の片隅に差し込む光の角度が、僅かに違って見えたこと。隣の席に座るクラスメイトの仕草が、いつもより“早かった”こと。そんな、微細な誤差の積み重ね。
そのひとつひとつに、俺は過剰に反応していた。
──何かが、起こる。
そんな直感が、頭の奥で不協和音のように鳴り響いている。
俺は記録帳を開き、今日の観察を書き始めた。だが、手が震えている。
落ち着け。まだ何も起きていない。
それでも胸の奥には、深く沈殿した焦燥が渦巻いていた。
──火曜日・第二十週目
・窓際の植物の位置が先週より西寄り
・国語の授業で教師が違う冗談を言った
・購買の新作パンが販売中止になっていた
小さな“ずれ”は、世界の表層に浮き出た傷のようだった。
まるで、このループそのものが疲弊し、摩耗してきているように。
教室の掲示板に、誰かが書いたメモが貼られていた。
『忘れるな。ここにいる。』
──まただ。
その文言は、以前黒板に書かれていたものと同じだった。
誰が書いたのか。なぜ、そんな言葉を残すのか。
思い出されるのは、あの教室での出来事。
“観察者ではない。囚人だ”──あの声。
あれ以来、世界の見え方は明らかに変わった。
いや、正確には“歪み”をはらんで見えるようになった。
放課後。図書室に足を運ぶ。
目的はない。ただ、“そこ”に行かなければならないという衝動だけがあった。
扉を開けた瞬間、背筋がぞわりとした。
──誰かがいる。
それは確信だった。
けれど、書架の間を何度探しても、そこには誰もいなかった。
それでも、視線の感覚は残っている。まるで本棚の隙間から、誰かがこちらを覗き込んでいるような錯覚。
「……俺を、見ているのか」
呟いた声は、自分自身への問いかけだった。
心臓が妙に早く脈打っている。首筋を汗が伝う。
記録帳を閉じる手が、湿っていた。
この火曜日は、すでに俺の理解の外側にある。
そして、帰り道。空を見上げた瞬間、確かに“それ”は見えた。
屋上の縁に、ひとつの影。
風に揺れる制服。だが、顔は見えない。特徴も捉えられない。ただ、その存在だけが、世界の“異常”を物語っていた。
──あれは、誰だ?
誰かが俺を見ている。
それは、以前の“観察者”とは違う、新たな存在。
そして、火曜日を観測しているのが、俺ひとりではないことを、あらためて突きつけられる証だった。
その影──明らかに人の形をしているのに、影だけが浮いていた。
「……お前は誰だ」
呟きは風にさらわれた。だが、その瞬間──その影が、動いた。
屋上の縁から、俺の方を向いたのだ。
目が合った、ような錯覚。その場に釘付けになった俺の耳に、どこからともなく低く囁く声が響いた。
「次は……お前の記憶を覗く番だ」
全身が凍りついた。
何者かが、俺の“内側”を見ようとしている。
──記録する者は、記録される者となる。
思い出した。黒板に書かれていたあの文。
誰かが、俺のすべてを観察している。
しかもそれは、俺の“外”ではなく、“中”にまで干渉しようとしている存在。
そしてそれが、昨日の“あれ”──顔のない男と、完全に重なった。
あいつがまだ、何かを続けているのか。それとも、これは“別の存在”なのか。
俺は急いで帰宅し、机に向かい記録帳を開いた。
手が震える。けれど、止められない。
『火曜日・第二十週目。観測される視線、より深く侵入中。内面への接触を確認』
その夜、眠りに就く直前。窓の外を見た俺は、またあの“影”を見た。
今度は、家の前の電柱の上に立っていた。
誰だ──お前は誰なんだ。
答えはない。ただ、じっと俺を見ていた。
次の火曜日が、迫っていた。
そして、その“誰か”もまた、確実に俺の物語に歩み寄ってきているのだった。