何度目の   作:水瀬りんご

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契約

火曜日・第二十一週目。

 

目が覚めた瞬間、世界の色が褪せて見えた。昨日までの“観測”が、俺の精神を蝕み始めている。

 

目の前の風景は確かに現実のはずなのに、まるで誰かの夢の中に入り込んだかのような感覚が拭えなかった。

 

机に置かれた記録帳に手を伸ばす。だが、その紙の質感すら、自分のものではないような気がした。

 

──視線がある。

 

そう感じるだけで、心拍が跳ね上がる。

 

昨夜の“あれ”──電柱の上から俺を見ていた影。

 

記憶を覗く、という言葉。

 

今、この部屋のどこかに“あいつ”がいる気がしてならなかった。

 

俺は記録帳を開くことをやめた。記録することさえ、何者かに“読まれる”ことに繋がっている気がしたからだ。

 

──記録は罠だ。

 

その思考が、これまでの俺を根底から否定していた。

 

学校へ向かう足取りは重かった。すれ違う人々の表情が、全て“仮面”に見えた。

 

「おはよう」

 

そう言ったクラスメイトの口元が、一瞬裂けて見えた。

 

──幻覚?

 

いや、それさえ分からない。

 

教室に入り、自分の席に座ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。

 

宛名はない。中を開くと、そこには一枚の紙。

 

『“観測者”としての契約を、どうするか』

 

その一文に、俺の呼吸が止まった。

 

「……契約?」

 

その瞬間、教室の空気が変わった。

 

まるで世界の“編集ボタン”が押されたかのように、周囲の音が消えた。

 

黒板がゆらぎ、教室の壁が歪む。

 

次の瞬間、俺は“どこか別の空間”に立っていた。

 

白い部屋。

 

真っ白な床、壁、天井──何もない無機質な空間。

 

目の前には、あの“顔のない男”が立っていた。

 

「契約を、どうするか」

 

繰り返されたその言葉に、俺は喉を震わせながら問う。

 

「……契約って、なんだ」

 

「君が“観察者”としてこの火曜日を記録し続ける行為。それが、世界との契約だ」

 

「……じゃあ、それをやめたら?」

 

「君は、記録される“観察対象”になる。意思を失い、観測される存在になるだけ」

 

「それって……誰が観測してるんだ?」

 

男の影がうっすらと笑った気がした。

 

「この世界そのものが、観測者だ。君が何を選び、どう書くか──それすら、世界の観測対象になる」

 

言葉の意味を飲み込むまでに、数秒の沈黙があった。

 

「じゃあ、観測者でい続ける意味は……あるのか?」

 

「意味は君が与えるものだ。記録し続ける限り、君は“意味”を作る側にいる」

 

「もし……もし俺がその契約を受け入れなかったら……」

 

「君は“記憶”を失い、ただの一構成要素に還元される。君の意志は消え、他者の記録の断片としてのみ存在することになる」

 

その言葉が、頭の奥で炸裂した。

 

──自分が誰かの記録になる。

 

──自分の人生が、他者の観測対象になる。

 

「それが、契約の“対価”だ」

 

言葉の意味が深く重く、胸の底に沈んだ。

 

「……なら、俺は──」

 

言いかけた瞬間、空間の奥から、もう一人の“俺”が現れた。

 

見た目は全く同じ。

 

ただ一つ、違うのは目の色。

 

その目は、深く、空洞だった。

 

「観察するか、されるか。それだけの違いだ」

 

ふたつの“俺”が対峙する。

 

俺は本当に、記録することを望んでいるのか?

 

それとも、誰かの観察対象でいる方が、楽なのか?

 

選ばなければならない時が来ていた。

 

「君はもう、“外”を見ている。だから、選ぶ資格がある」

 

その言葉と同時に、床が崩れた。

 

視界が暗転する。

 

──次に目を開けたとき、俺は再び教室の席に座っていた。

 

封筒も、紙も、消えていた。

 

「……幻覚、だったのか」

 

だが、机の中にはひとつの小さなメモが残されていた。

 

『契約、継続中』

 

それを見た瞬間、俺は震える手で記録帳を取り出した。

 

──『火曜日・第二十一週目。観察と記録は表裏一体。俺は、まだ書き続けている』

 

そう書き残すことが、自分自身にとっての宣言だった。

 

火曜日の終わりは見えない。

 

けれど、その“意味”に少しだけ手が届きかけている。

 

次週、何が起ころうと──俺は記録をやめない。

 

それが、俺の選んだ“契約”なのだから。

 

 

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