火曜日・第二十二週目。
目覚めた瞬間、心臓が一拍遅れて脈打った。
全身の細胞が、どこか薄く剥がれていくような感覚。
眠りと目覚めの狭間で、脳裏に焼きついていた言葉が浮かび上がる。
──『契約、継続中』
その五文字が、血管の中をゆっくりと這い回る。
俺は起き上がり、窓を開けた。
火曜日の空は、いつもと同じように青く澄んでいた。
だが、その“いつもと同じ”という事実が、胸の奥を鈍く圧迫する。
ベッド脇の記録帳を手に取る。
紙の質感、ペンの重さ、インクのにじみ。
それらすべてが、「まだ観測は続いている」と告げていた。
──なら、今日も観察者として、ここに立つ。
身支度を整えて台所に向かうと、母がいつも通りの笑顔で味噌汁を差し出してくる。
けれど、視線が交わった瞬間、ほんの一瞬──その目が“何も映していない”ように見えた。
「いってらっしゃい、アキラ」
声だけが、機械のように正確だった。
登校途中、見慣れた景色がすべて“よくできたセット”のように感じられる。
通学路を歩くたび、周囲の人間たちの動きが一秒単位で同期しているように見える。
“誰かが作ったループの脚本”を、俺はなぞっているのかもしれない──そんな妄想が頭をかすめる。
学校に到着し、自分の席に腰を下ろしたとき、不意に“あの視線”を感じた。
後ろを振り返る。
だが、誰もいない。
その代わりに──机の引き出しに一枚の紙が差し込まれていた。
『“彼”が気づき始めた。次は、“選択”の段階に入る』
震える指でその紙を掴む。
“彼”とは、誰だ?
俺ではない、別の誰か──新たな観察者か?
紙にはもう一文、走り書きのように記されていた。
『観察者は、孤立することで観測精度が上がる。だが、同時に壊れやすくなる』
──壊れやすく、なる。
それは俺のことか。
それとも、誰かの予言か。
もしくは、ただの記録上の仮説か。
昼休み。屋上に出た俺は、フェンスに背を預け、空を見上げる。
雲の形が、ゆっくりと変わっていく。
だがその中に、違和感があった。
──一点だけ、まるで“観測されている穴”のような空白があったのだ。
「あれは……」
呟いた声が、風に飲まれていく。
そこに確かに、“誰か”がいた。
空の上で、こちらを見下ろしている“目”のような、何か。
──やはり、俺たちは観察されている。
いや、“俺たち”ではない。“俺”だ。
視界の端に、ノートを手にした人物が立っている。
校舎の反対側。遠すぎて顔は見えない。
けれど、その仕草は確かに“観察者”のそれだった。
「……誰だ、お前」
声は届かない。
だが、風に揺れるノートのページが、ひとつこちらへ向けられた。
その瞬間、頭の中にひとつの言葉が走った。
──『鏡面』
それは、俺と“同じ”存在。
対称的で、しかし反転したもうひとりの観察者。
“彼”が、記録し続けているのだ。
だとすれば、俺は──何を記録する?
教室に戻った俺は、静かに記録帳を開く。
手が、震えていない。
むしろ、初めて自分の“記録”に意味を感じていた。
──『火曜日・第二十二週目、鏡面の観察者を視認。観測対象が多層化している可能性あり』
その下に、小さく書き添える。
──『俺は、観測されながら観測する。鏡に映る自分自身を見続けるように』
その一文が、なぜか胸の奥に静かな焦燥と期待を同時に灯した。
まだ、終わっていない。
終わっていないからこそ、次がある。
火曜日は終わらない。
けれどその果てに、何かが待っている。
俺は記録を続ける。
たとえその先に、“俺の終焉”が待っていたとしても──。