火曜日・第二十五週目。
記録帳の表紙に、薄く亀裂が入っていた。
昨夜、机に置いたときにはなかったはずだ。だが今朝、ページを開こうとした瞬間、表面の革が乾いたように割れ、そこから細い線が走っているのを見つけた。
──記録そのものが“劣化”している?
俺は眉をひそめながら慎重にページを開いた。
中の文字は、滲んでいない。けれど、違和感があった。
明らかに“書いた覚えのない”文が、昨日のページの余白に挟まれていた。
──『接続に乱れがある。記録の一貫性が揺らいでいる。観察者の主導権は、もはや君にはない』
呼吸が止まる。
“主導権は、もはや君にはない”。
それは、俺が“記録によって制御している”と信じてきたこのループが、誰か別の存在に奪われつつあることを意味していた。
「……改ざん、された?」
ぞっとする。
俺の記憶と、記録の内容に微妙な“ズレ”がある。
書いた覚えのある言葉の順番が違う。強調の記号が、変えられている。
まるで、俺の思考そのものを“別の何か”が編集し始めている。
そのとき、記録帳の最終ページが勝手にめくれた。
風はない。俺は触れていない。
なのに、そのページには、すでにこう記されていた。
──『火曜日・第二十五週目:接続失敗。記録者、分裂中』
震える手で閉じる。
俺は、もはや“唯一の俺”ではないのか?
授業中も、その疑念が脳裏から離れなかった。
クラスメイトの笑い声。教室に響くチョークの音。
全てが、どこか遠くに感じられる。
教室の窓に映る“俺の顔”が、ほんのわずかに遅れて動いたような気がした。
──“俺”が、ふたりいる?
放課後、俺は記録帳を抱えて再び旧校舎へ向かった。
図書準備室には、また黒革のノートがあった。だが、今回は表紙が裏返しに置かれていた。
中には、一文だけ書かれていた。
──『観察者は記録を通じて同期する。だが、同期が破綻したとき──分裂が始まる』
同期。分裂。
つまり、“観察”が重なりすぎた結果、この火曜日の中に“複数の俺”が存在し始めたのか?
その瞬間、背後から物音がした。
振り返ると、扉の外──ガラス越しに、誰かが立っていた。
影は薄い。輪郭が滲んでいる。
けれど、それは──俺自身だった。
全く同じ制服、全く同じ記録帳を抱えた、“もう一人の俺”。
ガラス越しに、そいつが口を動かす。
声は聞こえない。だが、唇の動きは読み取れた。
──「君は、誰だ?」
瞬間、強烈な吐き気が込み上げた。
俺は“観察される存在”から“記録を介して分裂する存在”になりつつある。
自我が、記録の中で自己増殖を始めている。
──このままでは、“俺自身”が分からなくなる。
記録帳を見下ろし、震える指で新しい一文を書いた。
──『第二十五週目、自己観察開始。記録の崩壊が始まっている。主導権を奪還する必要あり』
その一文を記した瞬間、扉の向こうの“もう一人の俺”が、ふっと消えた。
恐怖と共に、奇妙な安堵が胸に広がる。
俺は、まだ俺でいられる。
けれど、この火曜日は──もう限界が近い。