火曜日・第二十五週目、深夜。
記録帳の表紙に走った亀裂は、まるで生きているかのようにページの内側へと浸食していた。
革の継ぎ目からインクが染み込み、記された文字を飲み込んでいく。まるで“書かれた意味”そのものを否定するように。
──記録とは何か?
机に向かいながら、俺は問いかける。自分が繰り返し書き続けてきたこの行為。
それは、時間を固定するためか?それとも、自分という存在を刻みつけるためか?
だが今、その“記録”が自らの輪郭を失い始めている。
朝、再び目覚めると、記録帳の文字が書き換えられていた。
手元のノートにはこう記されていた。
──『第二十五週目、接続確立。分裂は既定の段階。主観情報は現在反映率54.7%。』
数字。
まるで実験報告のように、俺の体験が“他人の尺度”でまとめられている。
「誰が……俺を、こんなふうに」
恐怖ではない。
それは、喪失だった。
自分という“観察者”の輪郭が溶け始めている。
いや、それ以上に──“誰か”の観察によって、俺の記録が再構築されている。
朝の登校中、いつもと違う風の音に気づいた。
聞き慣れた通学路に異質な気配が混ざっている。
校門をくぐったとき、空が微かに揺れていた気がした。
あれは錯覚だったのか?それとも観測の乱れか?
昼休み、校舎裏のフェンスに立った俺は、誰かが立っているのを見た。
また“俺”だった。
いや、今回のそいつは違う。
顔がなかった。
のっぺらぼうの“俺”が、記録帳を開き、何かを書いていた。
俺が近づくと、それは静かにノートを閉じ、こちらを向いた。
「観察者の定義が、書き換えられた」
そう言って、影は消えた。
書き換え?
その言葉が、脳の奥で爆ぜる。
俺は記録帳を開き、次のページに目を通す。
──『対象A25、反応型観察者から記録保持型へ移行済。継続観察は不安定。同期率低下。』
──『対応措置:記録圧縮、意識連結化、主観環境崩壊への誘導を継続。』
何を言っているのか分からなかった。
だが、直感だけは理解していた。
──これは、俺を“観察者”の座から引きずり下ろす計画だ。
夕暮れ。
俺は旧校舎の準備室で、ノートを手にした。
だが、そのノートは既に誰かに書き込まれていた。
中身は、俺の記録だった。
だが内容は改竄され、事実と違う出来事が並んでいた。
──『第二十三週目、対象A25は観察拒絶を試み失敗。意識連結化に反発。対象は過去ログに従い最終段階へ移行中。』
俺は叫びそうになった。
何もしていない。
俺はまだ、希望を捨てていない。
──なのに、記録が“俺を希望を捨てた存在”として書き換えている。
「このままじゃ……」
今度こそ、本当に“俺”が失われる。
夜。
俺は決意した。
記録帳の表紙に、自らの血で印を記した。
──『この記録は俺のものだ。誰の編集も、干渉も許さない』
書き終えたその瞬間、部屋が揺れた。
窓の外、空が割れた。
そこに、誰かが立っていた。
白いフードをかぶった、知らない人影。
だが──確かに“観察者”の気配があった。
「君が、抗ったか」
その声は、ずっと前から夢で聞いたあの声だった。
俺は、もう一度ペンを握る。
──“この火曜日を、俺は手放さない”
そう記しながら、震える記憶の海に飛び込む。
崩壊寸前の“記録”の中で、俺は“自分自身”を取り戻すために立ち上がった。
そして深夜。
記録帳のページをめくると、あるはずの文章が白紙に戻っていた。
だがその空白は、俺の心に“まだ書ける”という意志を芽生えさせた。
──書き続ける限り、俺は俺でいられる。
そして、時間は確かに“次の火曜日”へと繋がっていた。